高行珪
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はじめ燕に仕えて騎将となり、勇猛果敢なことでは諸将の中に出た。天祐9年(912年)、晋王李存勗が周徳威を派遣して燕の劉守光を討つと、行珪は劉守光により武州刺史に任じられ、周徳威を挟撃しようとした。李嗣源が兵を率いて周徳威の援軍としてやってくると、騎兵で行珪を防いだ。天祐10年(913年)、行珪は李嗣源の説得を受けて、晋に降った。劉守光の将の元行欽は山北にあって、行珪が寝返ったと聞くと、部下を率いて行珪を攻撃した。行珪が弟の高行周を周徳威のもとに派遣して危急を告げると、周徳威は李嗣源・李嗣本・安金全らに命じて行珪を救援させた。李嗣源が元行欽を広辺軍で破り、元行欽もまた晋に降った。ほどなく行珪は朔州刺史となった。忻州刺史・嵐州刺史を歴任し、雲州節度留後に転じた[2][3]。
天成元年(926年)、行珪は正式に雲州節度使に任じられた[4]。天成2年(927年)、威勝軍節度使に転じた[5]。天成3年(928年)、安遠軍節度使に転じた[6]。行珪は性格が貪欲で、不法のことが多かった。副使の范延策が強く諫めたが、行珪は聞き入れなかった。范延策が洛陽の朝廷に訴えたことを知ると、行珪はこれを恨んだ。のちに兵が反乱を起こすと、行珪は范延策が反乱に共謀したと誣告して、范延策父子を開封府で殺害させた[7][3]。長興元年(930年)5月5日、行珪は病没した[8]。太尉の位を追贈された[7][3]。