7月10日、東京に置かれた英国大使館を外務省への改編に伴って外務卿に就任した澤宣嘉と同じく大蔵省への改編に伴って大蔵大輔に就任した大隈がパークスを訪問する形式で予備会談が行われた。これに続いて7月12日に高輪接遇所において正式な会談が開催された。これを「高輪談判」と呼ぶ。日本側からは太政官の最高責任者であった右大臣三条実美・大納言岩倉具視・外務卿澤宣嘉・大蔵大輔大隈重信・外務大輔寺島宗則が出席し、伊藤博文がこれを補佐した。対する公使側はパークス(イギリス)・ウートレー(フランス)・ヴァン・ヴォールクンバーグ(アメリカ)・ド・ラ・トゥール(イタリア)・ブラント(ドイツ)であった。
現在残されている談判に記した記録によれば、談判は終始パークスの独擅場であり、明治政府が改税約書違反の悪貨を鋳造し、諸藩が贋貨を鋳造していたとする事実を示す証拠を次々と突きつけていった(一部記録によると政府側の要領を得ない回答に興奮して、傍にあったコップを叩き割ってしまったとされている)。明治政府は最後まで体面上悪貨鋳造の事実を認めることを拒否したが、複数の藩が贋貨を鋳造していた事実を認めた。その後、通貨改革によって正貨・贋貨を問わず全ての現行貨幣を引き揚げて早急に(既に大隈より明治5年11月までという案が出されていた)に引き換えを行うこと、応急措置として外国人の所持する二分金(実は一番問題となっていた政府及び諸藩発行の悪貨・贋貨でもあった)の検査を行って、封包を行って検印を施し、それを行ったものについてはたとえ贋貨であっても正貨と等価による納税または交換を認めることを了承させられたのである。その一方で、パークスが談判を仕切ったためにフランス公使によって出された損害賠償要求は事実上無視され、大隈の通貨改革についての異論は公使達からも三条・岩倉ら太政官首脳からも出されること無く、内外からの承認を得る形となり、結果的には明治政府による自主的な通貨改革そのものについては、大隈案に沿った形での方針が認められることになったのである。その後、7月19日に場所と出席者はそのままで再度開催されたものの、それは前回決定された事項の具体的な実施要綱についての説明など細部の調整のみで終了している。
とりあえず、大隈の通貨改革は明治政府の方針、そして国際公約として認められたが、その実現までにはまだ4つの課題があった。
- 高輪談判で合意した外国人保有二分金の真贋調査(検勘)。
- 贋貨を発行した諸藩に対する処分の実施の是非。
- 贋貨と正貨の交換比率と期限の決定。
- 新しい通貨制度の決定とそれを実施するための新たな造幣施設の建設。
19日の会談終了後、澤と大隈・伊藤は直ちに久世治作・上野景範・花房義質ら若手官僚と東京の有力両替商からなるチームを編成して全国の開港場・開市場で外国人の保有二分金の検勘を開始した。東京・横浜の外国人に対しては21日に各国公使を通じて提出させた二分金の検勘を23日より開始して、東京では同日中、日本屈指の貿易港であった横浜でも25日までに終わらせることに成功した。大阪と神戸では25日に提出・26日に検勘、長崎では27日に提出・28日に検勘、新潟では8月3日に検勘、最後の函館では8月12日に検勘が行われた。これによって各国の公使や商人達に明治政府の本気ぶりを見せるとともに海外に流出した贋二分金を日本に再度持ち込ませて検勘を受けさせる時間的余裕を与えなかったのである。封包した贋の二分金は9月より翌年3月にかけて各開港場・開市場で順次正貨に引き換えられた。外国商人達は日本側のこうした強硬なやり方に不満を抱いたものの、公使達がこれを受け入れていること、正貨との等価交換によって不十分ながらも補償を受けられたと判断されたことで損害賠償などを求める動きは一応収束することになった。
8月24日、薩摩藩が「自訴状」を提出、続いて9月初旬には土佐藩もこれに続いた。これを受けて大久保や西郷、土佐藩出身の佐々木高行らは、薩摩・土佐両藩が自ら自首したこと、両藩は私利私欲のためではなく、維新実現のための軍備調達の必要からやむを得ず行ったことであるとして両藩への恩赦を求めたのである。だが、調査によって贋貨鋳造の事実が無い事が確認されていた長州藩や肥前藩出身者は、自分達は苦労の末に軍費を自前で調達したのに薩摩や土佐が違法手段で調達していたという事実に反発して、両藩から罰金を取ってそれを贋貨と正貨の引換の原資に充てるべきであると主張した。だが、9月13日に薩摩藩からの自訴状が集議院(公議所の後身)で明らかにされると、諸藩の代表からは薩摩や土佐が自らの不祥事を告白した潔さを評価して穏便な処分を求める意見が相次いだ。更に贋貨鋳造を行っていたその他の藩からも後日政府によって摘発された場合の後難を恐れて自訴状を出す藩が相次いだ。そこで翌明治3年4月29日に政府はそれまでに自訴状を提出した藩の贋貨鋳造を赦免し、またそれ以外の藩でも箱館戦争終結以前の贋貨鋳造行為に関してはかつて明治政府と戦った斗南藩(旧会津藩)なども含めてその罪を不問にするとした。この時点でほとんどの藩は贋貨作りを中止している。ところが、筑前藩のみはこの後も金札(太政官札)の偽造に切り替えて贋貨作りを継続し続けた。明治4年7月2日(廃藩置県の12日前)、その事実が発覚した筑前藩は黒田孝高以来の福岡47万石を没収されて事実上改易されてしまうのである。
さて、先の検勘の際に強引な日程を組んだ背景には、外国との関係の都合上贋貨と正貨の等価交換をやむなく認めたものの、実際に全ての贋貨を同じように正貨と等価で引き換えた場合には明治政府の財政が破綻するのは目に見えていたからであり、その額をなるべく抑制したいという明治政府と貿易関係の維持のために政府の崩壊に至る事態は避けたいと考える外国公使との思惑の一致があったからである。
7月22日に太政官布告が出され、人民は10月末までに官に贋貨を提出するように命じた。だが、一般の人々には正貨と贋貨の区別をつける方法が無く(そもそも簡単に区別がつけられるのであれば、外国人に対する検勘は必要がないことになる)、かつ贋貨の方が大量に出回っているために全く意味が無かったのである。8月11日に大蔵省と民部省が合併されて大蔵省が財政の全権を掌握できるようになると、大隈や伊藤を中心に整理のための方策が検討されることになった。大隈や伊藤は当初、贋金貨100両に対する実際の価値を20両前後と見て、それに多少上乗せをして25両で引き換えることを考えた。だが、これに対してたちまち政府内で反発が噴出した。一般の人民は自分の持っている通貨の真贋を見極められないのに、ある日突然それは贋金だからとその価値を4分の1にされたら人々は大混乱に陥り、各地で一揆や打ちこわしなどの騒ぎに発展する危険性がある。今の明治政府にはこうした一揆や打ちこわしを鎮圧するだけの十分な力はなく、一歩間違えれば政府は崩壊すると言うのである。特に政府が頼りにしていた薩摩藩・土佐藩が自前の贋貨を大量に自己の領民に流通させている可能性があることもその危惧を高めていた。長州藩出身の広沢真臣が薩摩や土佐などの贋貨鋳造藩から罰金を徴収してそれを引換の元手にすることで40両前後にまで引き上げる案も出されたものの、前述のように穏便な処置を望む意見が占める中では実現は困難と思われた。
やがて、政府内で長い協議の末、10月24日に以下の太政官布告が出された。
「悪金ノ儀ハ、兼テ御布令ノ通、府藩県ニテ取調十月中ニ可申出筈ノ所、此度引換ノ道被為立、銀台ノ分ハ格別ノ訳ヲ以百両ニ付先金札三十両ニ御引換被成下、追テ総員数銘々持分等巨細御取調ノ上、猶御詮議ノ品モ可有之候条、御趣意ノ程厚ク相心得可申候……(以下略)」
これによって贋金100両を金札30両に引き換える事を表明するとともに事情によっては将来的に上乗せされる可能性がある事を仄めかす内容とされた。これを受けて11月より順次引換が開始されたが、目標としていた年内完了には至らず、翌3年3月2日、同12月15日と期限を延長しても処理が追いつかなかった。そのため、明治4年1月25日に引換を打ち切り、以後は金銀混合の地金として時価で扱うものとする太政官布告が出された(ただし、同年中は希望者には引換は継続されている)。だが、前述の外国人に対する等価引換が34万両、太政官布告による引換が判明分だけで157万両であり、現在判明している政府発行の悪質な金貨(事実上の贋貨)が381万両であるから、それよりも遥かに少ないことになる。結局は海外への流出分も含めて実質的には明治初期の混乱に乗じて殆どが切り捨てられて地金扱いされたのが実態であったとされている。
明治4年発行の一円金貨
井上馨
その一方で大隈は近代的な貨幣制度を実施する計画を進めた。造幣施設の建設計画は由利公正が会計官副知事の時代より進めていたが、大隈が大蔵省設置とともに造幣寮を置いて井上馨を造幣頭に任命(明治2年8月18日)して以後本格化し、大阪に造幣工場の建設が進められた。
途中、火災による遅延があったものの、明治3年9月に工場は完成し、明治4年2月15日より仮稼動を開始した(4月4日本格稼動)。続いて5月10日(1871年6月17日)には円を基本単位とし、補助単位として「銭」「厘」を導入して、1円=100銭、1銭=10厘とする新貨条例が公布され、日本は近代的な貨幣制度への第一歩を踏み出すことになった。