澤宣嘉
幕末期の公卿、明治の政治家
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経歴

天保6年12月(1836年2月)、姉小路公遂の五男として誕生。後に澤爲量の娘・藤子と結婚し、その婿養子(継養子)となる(為量の実子宣種は、宣嘉の養嗣子となる)。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は養父と共に勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。
文久3年(1863年)、会津藩と薩摩藩の結託により長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により、都落ちする(七卿落ち)。長州へ逃れた後は各地へ潜伏し、同年10月平野国臣らに擁立されて但馬国生野で挙兵するが(生野の変)、3日で破陣。田岡俊三郎(小松藩士)、森源蔵、関口泰次郎(水戸藩士)、高橋甲太郎(出石藩士)と脱出して、四国、伊予国小松藩士らに匿われた[1]。
当時、「与州小松より」と裏書した元治元年(1864年)2月14日付の辞世の句を京都に送っている[2]。
心しらぬ人の言の葉いとはじな 盡す(つくす)誠󠄁に二つなければ
元治元年(1864年)6月まで三木左三らに匿われる。
三条実美の命により[3]、高橋甲太郎、三木左三、三木虎之助(左三の子)、尾埼山人、三木源一郎、田岡俊三郎により6月12日、下関の白石正一郎宅に至り[4]、再度長州に逃れる。
全員の渡航費用等については、小松藩士池原利三郎が工面した。
伊豫の國よりまた長門の國に到りけるをり赤馬關にやと(ど)りて
夢た(だ)にも結ひ(び)かえけり眞心のあかまの關の草の枕に
おもひきやうき世の波になか(が)れきて赤馬關の月󠄁を見んとは
また、6月13日、白石正一郎が前田の台場に澤卿を見送り[6] 白石の歌
引とめむ心はやたけ引しほの 早とのせとをいかにとかせん
澤卿の返歌
引しほに引かはるとも再の まとひ早とのせとと契󠄁らん
元治元年6月15日、田岡久恒(俊三郎)にわかるる時として二句が詠まれている[7]。
去年(こぞ)わけし小笹の露のおもひきや けふの眞袖の露ならんとは
かき(ぎ)りなき別れなか(が)らもおなし(じ)道󠄁に われもいつまて(で)おくれやはする
元治元年7月19日、禁門の変(元治甲子の変)が勃発。
慶応3年12月(1868年1月)の王政復古の後は、参与、九州鎮撫総督兼外国事務総督、長崎府知事などの要職を務め、明治2年(1869年)に外国官知事から外務卿になり、外交に携わる。
外務卿として、オーストリア=ハンガリー帝国と初めて日墺修好通商航海条約を締結し、国交を樹立する。 条約は、澤宣嘉外務卿、寺島宗則外務大輔とフォン・ペッツ全権公使との間で結ばれた。締結には駐日英国公使ハリー・パークスの支援があり、早期に調印されたが、著しい片務規定が引用されており不平等条約の集大成といえる内容となった。 このため、明治政府の条約改正事業において、同条約は改正すべき内容の最終目標とされた。
明治3年(1870年)、外務卿として各国公使に対して、条約所定の交渉期日を待って条約改正の商議を開始する旨を通告し、条約改正交渉の発端をつくった[8]。
新暦1873年(明治6年)9月27日、駐ロシア特命全権公使として着任する前に38歳で病死。翌年初めに同公使は榎本武揚に変更された。