太政官札

明治政府によって発行された不換紙幣 From Wikipedia, the free encyclopedia

太政官札(だじょうかんさつ)は、明治政府によって慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)まで製造発行された政府紙幣不換紙幣)。金札とも呼ばれた。日本初の全国通用紙幣[1]である。通貨単位は江戸時代に引き続いてのままであった。1879年(明治12年)11月までに新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで流通した。[要出典]

太政官札(金一両札、慶応4年発行)

概要

表面上部には額面として「金拾兩」・「金五兩」・「金壹兩」・「金壹分」・「金壹朱」、表面下部には「太政官會計局」、裏面には「慶應戊辰發行 通用十三年限」と表記されている。

慶応3年12月(1868年1月)に成立した明治新政府は、財政基盤が確保されないうちに慶応4年1月3日1月27日)の鳥羽・伏見の戦いを端緒として戊辰戦争に突入したため、その戦費調達は新政府にとって当面する喫緊の課題となった。これに対し、1月中に開催された会議で、参与兼会計事務掛三岡八郎(由利公正)は、近畿の富豪からの会計御基立金300万両の調達と、3,000万両の紙幣発行という打開策を建議、正式に決定された(会計御基立金は旧幕府の御用金とは異なり、臨時公債的性格を有したとされる)[2]

新政府は慶応4年4月19日1868年6月9日)に太政官札発行を布告、その要旨は以下の通り[3]

  1. 藩に対しては石高1万石につき1万両の金札(太政官札)を貸し付け、これを領内の生産者に貸し付けさせる。
  2. 返済は金札で毎年1割ずつ、13か年で完済させる(10か年は元金返済、あとの3年は利払)。
  3. 京阪その他の地方の農商に対しては、物産取引高、信用度などに応じて適当額を貸し付ける。
  4. 返済された金札は会計官の手で消却する。
  5. 金札で返済させる代わりに金札の正貨兌換の要求には応じない。

これは要するに「商業高利貸資本及び各藩に殖産興業資金として紙幣を貸与し、その回収金をもって御基立金の返済及び政府収入に充てるという財政金融措置」であり[4]、従って太政官札は紙幣というより「一種の国債」であった[5]

太政官札の発行期日は当初、同年5月15日と布告されていたが、同時期に近畿一帯を襲った集中豪雨により配給が遅れ、実際の発行は5月25日7月14日)となった[6]。また、製造された総額は4,897万3,973両1分3朱だったが、実際に発行されたのは4,800万両であり、97万3,973両1分3朱分は発行せずに焼却された。

当初、国民は紙幣に不慣れであったこと、また政府の信用が強固では無かった為、流通は困難をきわめ、太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどであった。このため政府は、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止したり、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたり、諸藩に石高貸付を命じるなどの方法を講じた。これらの政策や二分金の贋物が多かった事などから、相対的に信用が増加し流通しはじめたが、やがて太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになった。

こうした事態に対し、新政府は明治2年5月28日1869年7月7日)の布告で、太政官札の発行を3,250万両に限定し、さらに通用期限を5年間に短縮し、もし期限にいたって交換未済のものがあるときはこれに対し1年で6%の利子を交付することを約束した。

一方、新政府は明治4年5月(1871年6月)に新貨条例を制定し、金本位制度を採用。通貨単位を「両」から「圓(円)」に切り替えて本位貨幣金貨とし、旧1両を新1円と定めた。

その後、太政官札は明治5年4月(1872年)に発行された新紙幣の明治通宝と交換する形で回収されていった[7]。政府はさらに、明治5年8月、新暦1873年(明治6年)3月及び7月の布告により、金札交換公債證券(記名證書、1,000円、500円、100円、50円の4種。利札證書、500円、100円、50円の3種)に換えて太政官札を回収する方針をとったが、これによって公債証券に換えられたのはごく僅かであった。

種類

太政官札の額面と金額は次の通りである。

さらに見る 額面, 金額 ...
額面 金額
10両札(金拾兩) 2,033万2,890両
5両札(金五兩) 596万9,685両
1両札(金壹兩) 1,548万5,798両
1分札(金壹分) 516万1,296両1分
1朱札(金壹朱) 105万330両3分
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江戸時代からの旧来の藩札中国清朝で発行されていた紙幣に倣って表面に双竜、裏面に鳳凰の図柄が用いられ、他に菊花紋章桐紋桐葉唐草模様瑞雲などがあしらわれている[8]

を原料とした厚手の用紙に銅版印刷で印刷が行われていたが、これは一部の藩札を踏襲したものであった。この紙幣用紙の表面には凹凸があるため微細な模様の精緻な印刷が困難であった。加えて銅版印刷の原版は印刷により摩耗するため交換が必要になるが、当時の日本の印刷技術では版面の正確な複製が不可能であった。そのため印刷にかなりのばらつきが生じ、厳密な真贋判定に支障をきたす状況であった。これらの要因が一因となって偽造を誘発し偽札が横行することとなった[8]

流通状況

明治10年末にいたるまでの流通高は次の通りである(単位 円)。

さらに見る 年, 金額(円) ...
金額(円)
明治元年12月 24,037,389
明治2年12月 48,000,000
明治3年12月 48,000,000
明治4年12月 48,000,000
明治5年12月 43,251,058
明治6年12月 36,863,722
明治7年12月 26,573,507
明治8年12月 5,147,916
明治9年12月 3,095,921
明治10年12月 3,070,145
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回収・交換状況

太政官札の回収と交換の状況は次の通りである(単位 円)。

  • 発行総額 48,000,000
  • 回収交換
    • 新紙幣と交換高 45,661,595
    • 金札引換公債證書と交換高 2,052,745
    • 没収および散逸 285,659
    • 合計 48,000,000

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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