高野忠衛

From Wikipedia, the free encyclopedia

高野忠衛

高野 忠衛(たかの ただえ、1886年明治19年)2月7日[1] - 1970年昭和45年)12月15日[2])は、大正から昭和時代前期の政治家長野県長野市長

長野県上水内郡高岡村(現・飯綱町高岡地区)出身[1]1905年(明治38年)旧制長野県立長野中学校(長野県長野高等学校の前身)を卒業後、同郡中郷小学校で代用教員を務め、1910年(明治43年)長野県庁に奉職し、1914年(大正3年)高等文官試験に合格する[1][3]

下高井郡上伊那郡各書記を経て、1918年(大正7年)7月に長野県下水内郡長、1922年(大正11年)3月に同県東筑摩郡長、1926年(大正15年)7月に地方事務官社会課長、地方課長を歴任し、1928年(昭和3年)4月に退官[1][3]。同月、日本赤十字社長野支部主事に転じ、1930年(昭和5年)8月に退職し、長野市助役に就任[1]。ついで、1937年(昭和12年)10月4日に長野市長に就任した[1]。さらに、1942年(昭和17年)より2期目を務めた[3]。戦時下、長野飛行場や忠霊殿の建設に尽力した[3]

戦後、公職追放となった[4]

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI