信濃国伊那郡鼎村(現在の長野県飯田市)出身。漢学を学び、1882年(明治15年)に下伊那郡全部町村聯合会議員に、1884年(明治15年)に鼎村戸長に就任した。1890年(明治23年)より長野県会議員を務め、1893年(明治26年)には県参事会員に、1899年(明治32年)に県会副議長に選出された[2]。
1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第8回、第9回と連続当選を果たした[1]。
1910年(明治43年)、長野市助役に就任。翌年、長野市長に選出された。1921年、二期目在職中に病死した[1]。