高駢
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略歴
高駢の伝記を含む文献は、正史『旧唐書』(945年成立)[4]・『新唐書』(1060年成立)[5]・『旧五代史』(974年成立)・『資治通鑑』(1084年完成)・『唐詩紀事』などがある[6]。
- 841年(会昌元年)21歳のとき、右神策軍(中国語版)都将となる。
- 848年(大中2年)28歳のとき、霊武節度使の朱叔明の司馬となる。1本の矢で雕(おおわし)2羽を射止めたという逸話から落鵰侍御と号した。
- 851年(大中5年)、右神策軍都虞候(中国語版)になり、慶州に赴任。右神策軍の貴人として翕然と名声を重ね、さらにこれらを縻ぐ勇爵の歴をかさねた。
- 859年(大中13年)8月、宣宗崩御。長安に召還される。懿宗即位。
- 860年(咸通元年)春、党項羌が辺境を侵したとき、秦州刺史・秦州経略使に任命される。禁兵一万人を率し長武城[7]を建築する。当時、諸武将が党項羌の防衛に失敗していたが、高駢のみが隙をうかがい、怯むことなく兵を用い功を上げ、懿宗は高駢を深く嘉んだ。
- 864年(咸通5年)7月、安南都護・桂管経略使に任命される。
- 866年(咸通7年)11月、桂管経略使は静海軍節度使と改められる。
- 868年(咸通9年)8月、長安に召還され、右金吾衛大将軍に任命される。数カ月後、天平軍節度使に任命される。
- 873年(咸通14年)7月、懿宗崩御。宦官らの謀略で五男の僖宗が即位する。
- 874年(乾符元年)4月、検校司空に任命される。同年、西川節度使・成都尹に任命される。羅城を建築する。
- 875年(乾符2年)5月、塩賊(塩密売人)の王仙芝が濮州で挙兵。6月、同業の黄巣が呼応して黄巣の乱(中国語版)が発生。
- 878年(乾符5年)、荊南節度使(中国語版)・塩鉄転運使に任命される。
- 879年(乾符6年)1月、王仙芝・黄巣軍を撃破、将の畢師鐸(中国語版)等を降伏させる。10月、淮南節度使に転任する。この頃から高駢は邪悪で愚昧な道士の呂用之(中国語版)を重用する。
- 880年(広明元年)11月、朝廷は邠寧節度使の朱玫(中国語版)[8]らに黄巣を打つよう命じたが、黄巣は12月、長安に入り皇位を簒奪した。
- 881年(中和元年)1月、僖宗は長安を脱出、成都府へ。
- 884年(中和4年)7月、朱全忠[9]の功により黄巣は自刃。
- 885年(光啓元年)10月、混乱に乗じて朱玫が襄王李熅(中国語版)[10]を皇帝に擁立したが、12月誅殺。
- 886年(光啓2年)、呂用之に唆され高駢偽朝に与し、中書令を授けられる。
- 887年(光啓3年)3月、高駢麾下の畢師鐸等により高駢は幽閉される[11]。9月、殺害した[12]。