高麗葬
From Wikipedia, the free encyclopedia
グリフィスは、高麗葬とは日本でも17世紀頃まではあり、朝鮮(19世紀末)では依然として続けられている「老人を生きたまま埋めてしまう習慣」[3]で人身御供の迷信の類であると、紹介していた。これは、高句麗の時代に大きな墓を作り、墓室(土室)に老境極まって小児のようになった老人を入れて命が尽きるまで中で生活できるよう食料と共に封じ、死後は副葬品を足してそのまま葬ったという話[4]をやや省略して伝えたもので、高麗塚や高麗墳とも呼ばれたのはこのためである。その後、生きたまま葬ることから、老いて働けなくなった親や認知症の親を山に運んで一定期間の食料とともに置いてくる慣習に変わり、高麗葬と呼ばれるようになったという。捨てた場所により高麗山や高麗谷などとも呼ばれたわけであるが、高麗の名前がついているもののコリアと同じ程度の意味で、必ずしも高麗王朝と関係があるわけではない。
説話の内容
高麗では、親が高齢になると山中に遺棄する風習があったとされ、これを「高麗葬」と呼んだという説話がある。ある村で、父親が高齢のため歩行が困難になると、家長は山中に連れて行き遺棄しようとし、その父親を背負って山へ向かったとされる。その様子を見た幼い子どもも同行した。父親を山奥に残して帰ろうとした際、子どもが突然背負子を持ち帰ろうとしたため、家長が理由を尋ねると、子どもは「将来父親が年老いたときに使うためだ」と答えたという。
これを聞いた家長は深く反省し、父親を家に連れ帰って世話をするようになり、その後この風習は廃れたと伝えられている[5]。
実態
高齢者虐待を厳罰に処した高麗の制度
高麗時代には、反逆とともに不孝が重罪とされ、厳しく処罰されたとされる。『高麗史』には、「祖父母や父母が存命であるにもかかわらず、子や孫が財産を分けて扶養しない場合は懲役二年に処する」との規定が記されている。また、国王が孝行者や高齢者に対して宴を開き、物品を下賜したとの記録も残されている[6]。
宋の徐兢(1091年~1153年)が著した『高麗図経』には、極貧のため親の葬儀を行えず遺体が放置された事例が紹介されているが、これをもって生存する老親の遺棄を示すものではないとする見解もある[7]。このため、高麗において老親の遺棄が一般的な風習であったとする説には疑問を呈する見解もある[8]。
「高麗葬」が史料上初めて現れる記録
『朝鮮王朝実録』には次のような記述がある。
礼曹に教旨を下して言う。「人の子として、父母が生きている時には孝を尽くし、死しては悲しみを尽くすのは本性であり当然の務めである。高麗末期には、地方の無知な民が父母の臨終前に外舎へ移すなどの行為を行い、その結果として死を早めたとされる。また葬儀に際して過度な酒宴や音楽を伴う習俗も見られた[9]。—『朝鮮王朝実録(世宗実録)』」
『世宗実録』の解釈に対する反論
上記の記述については、『朝鮮王朝実録』に高麗葬と類似する風習が存在したことを示すものとする見解がある一方で、「外舎に移す」という表現を老親の遺棄と解釈するのは誤読であり、過度な拡大解釈であるとする指摘もある。「外舎」は内舎に対する外棟を意味し、単に居住場所の区分を示す語であるとされる。
『国朝人物考』には、病を患った人物が外舎に居住した事例も記録されている。
漆原公(李彦結)は晩年に心病を患い外舎に居住したが、その子は誠意を尽くして看護し、長年にわたり身の回りの世話を続けた。
—『国朝人物考』
孝子伝・起老国縁譚由来説
老母を山中に遺棄するという説話については、中国の『孝子伝』やインドの『雑宝蔵経』(「起尸国縁」)に由来する類話が存在するとされ、これらが後世の説話形成に影響を与えた可能性が指摘されている[10]。
「起老国縁譚」は以下のように伝えられている[11]。
昔、起老国という国があり、そこでは老人を捨てる法があった。しかしある臣下は国法に背き、老いた父を洞窟に隠して養っていた。 ある日、天神が王に二匹の蛇を送り、雌雄を区別するよう問いを出した。正しく答えられれば国は安泰であるが、誤れば七日以内に滅びると告げられ、王は困惑した。 臣下が父に相談すると、父は容易であると答え、細く柔らかい物を蛇の上に置き、動く方が雄、動かない方が雌であると教えた。これにより問題は解決された。 さらに天神は象の重量を測るよう命じたが、父は船に象を乗せて沈んだ位置に印を付け、その位置まで石を積めば重量が分かると教えた。 次に天神は真檀木の上下を見分けるよう命じたが、水に浮かべれば根元が沈み、先端は浮くと教えた。 最後に、外見が同じ二頭の馬を送り、母子を区別するよう命じたが、餌を与えれば母馬は子に譲ると教えた。 こうして全ての課題を解決し、国は危機を免れた。王は臣下を賞そうとしたが、実際には洞窟の父の知恵であったことを知り、老賢者の価値を認めて起老の法を廃止した。
虎害に基づく高麗葬否定説
朝鮮半島の山地には近世以前まで虎や豹が生息していたとされ、民間には「一年の半分は虎に襲われた者の弔問に行き、残りの半分は虎狩りに出る」といった誇張的な言い回しも伝えられている。また、朝鮮王朝期の記録には宮廷周辺に虎が出没した事例も残されている[12]。
こうした動物被害の存在から、山中に高齢者を遺棄するような慣習が実際に成立し得たかについては疑問を呈する見解もある。
韓国国内の反応
韓国の歴史学界では、高麗葬の実在性を全面的に否定する見解が一般的である。すなわち、高齢者を遺棄する風習としての高麗葬が実際に制度として存在したことを示す文献的・考古学的証拠は不十分であり、儒教的価値観が強く浸透していた朝鮮社会において、そのような風習が広く行われていた可能性は低いとする立場が取られている[13]。
また、「高麗葬」という用語の成立過程については、日本統治時代を含む近代以降の言説の中で形成・定着した可能性を指摘する見解もあり、実態よりも後世の解釈や伝承的要素が影響しているとする分析も存在する[14]。そのため、高麗葬は歴史的制度というよりも、後世における概念的な枠組みとして理解される場合がある。
現代における用法
近代文学・映画での描写
1919年に発行された『傳説の朝鮮』には「不幸息子」という童話が収録され[19]、1924年に朝鮮総督府で発行された『朝鮮童話集』には「親を捨てる男」という話が収録されているが、老いた親(前者は祖父、後者は祖母)を高麗葬して山に捨てた父を、子が諭すという内容であった[20]。
近代の韓国小説や映画に取り上げられることもあった。金綺泳(キム・ギヨン[21])監督が1963年に発表した映画『高麗葬[22][23]』では、飢えに苦しむ大家族で老いた後妻が死を迫られるという高麗葬の風習が登場する。ただし、主なストーリー内容は血縁関係の無い兄弟と後妻の子供が争うという復讐劇であった。また、1978年に全商国が『高麗葬』という短編小説を書いており、これは『韓国現代短編小説』に収録されている。