富樫広蔭
幕末から明治初期の国学者
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴・人物
紀伊の和歌山に生まれる。1796年(寛政8年)に父が急死し、以後は母が養育したが、かなりの腕白者だったらしく、手習いにも行かなかったという[3]。1813年(文化10年)から人に勧められて狂歌に凝り始め、花廼屋咲足と称した[4]。
やがて伊勢へ移り、1822年(文政5年)には本居大平の養子となり、庄左衛門長平または影友と称した[2]。大平及び本居春庭の門人となり、国学を学んだ[2]。1823年(文政6年)に離籍し、曾祖母の姓を継いで富樫広蔭と名乗る[2]。1819年(文政12年)に桑名の城下に移り住み、間もなくして結婚[2]。1850年(嘉永3年)に同地の三崎春日社の神職となり、鬼島倭と改名する[2]。
1858年(安政5年)には子の広睦に鬼島家を譲り、自身は富樫家に戻った[2]。それ以降は『古事記』『日本書紀』『万葉集』『土佐日記』等の古学研究に専念する[5]。広蔭が輩出した門人は172人にも上ったとされている[要出典]。
没後、活動拠点とした桑名の大福田寺に葬られた[5]。また、1883年(明治16年)に門人たちが「桑名皇学会」を設立し、広蔭の学問を受け継いでいる[5]。

三重県桑名市の大福田寺