魚住町
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歴史
古代
魚住の地名は、神亀3年(726年)の聖武天皇行幸に随行した笠金村の詠歌「行きめぐり見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜にしきる白波」(『万葉集』巻六)にみえる「名寸隅(なきずみ)」が由来とされる[4]。 古代の山陽道には30里ごとに駅家(うまや)が設けられており、魚住町長坂寺にある長坂寺遺跡は、文献に登場する「邑美(おうみ)駅家」の推定地とされる[1]。 また、魚住町西岡の御屋敷遺跡で行われた発掘調査では、飛鳥時代から平安時代にかけての建物跡や、法隆寺や正倉院に伝わるものと同型の銅碗、鉄鉢形須恵器などが出土した[2][5]。 これらは、高僧行基の開山伝承が残る大寺院「閼伽(あか)寺」の実在を裏付ける貴重な資料として注目を集めている[2][6]。
中世の窯業
平安時代末期から室町時代(12世紀末〜15世紀前半)にかけて、魚住地域では「東播系須恵器」や瓦を大量に生産する「魚住古窯跡群」が形成された[3][7]。 中尾川流域や赤根川流域を中心に50基以上の窯跡が確認されている[3]。 ここで焼かれた瓦は、平安京や尊勝寺などの大寺院の屋根を飾り、調理用具である「片口鉢(こね鉢)」は、日本海側や瀬戸内海を通じて東は関東、西は九州にまで広く流通し、中世日本の台所を支えていた[3]。 しかし、室町時代に入り硬質な備前焼の擂鉢(すりばち)が普及したことで、魚住での生産は次第に衰退した[3]。
近世以降
魚住町西岡字御屋敷では、室町時代から安土桃山時代にかけての「西岡構居(にしおかこうきょ)」と呼ばれる有力武士の屋敷に伴う堀が発見されており、底部から軒平瓦や蛸壺などが出土している[8]。 江戸時代には、加古郡に属する農漁村として発展した。 1951年(昭和26年)に大久保町などとともに明石市へ合併し、現在の明石市魚住町となった[9]。
文化財・史跡
交通
教育・公共施設
高等専門学校
- 明石工業高等専門学校(魚住町西岡)
高等学校
- 兵庫県立明石清水高等学校(魚住町清水)
図書館
- 明石市立西部図書館(魚住町中尾)
公園
- 住吉公園 - 住吉神社に隣接する公園で、春には大規模な藤棚が見頃を迎える。