魚角象三は岡山県士族の出身で岡山藩池田家の家臣であった。明治8年(1875年)に陸軍少尉に任じられ、西南戦争では歩兵第3連隊第四中隊付少尉として従軍した。
その後、明治13年(1880年)に中尉へ進級し、歩兵将校としての経歴を重ねた。明治28年(1895年)10月19日には勲五等に叙せられている。
日露戦争では、後備歩兵第59連隊第一大隊長として少佐の階級で従軍し、鴨緑江会戦に参加した。その後も軍務を続け、明治39年(1906年)2月5日に少佐へ進級、最終的に歩兵第11連隊第三大隊長を務め、陸軍中佐に至った。
退役後は高知市において兵事会長を務め、地域の軍事・在郷軍人組織の活動に関与した。晩年は兵庫県津名郡洲本町に居住し、大正9年(1920年)には名誉進級の措置を受け、相当額の恩給を給付されたとされる。
晩年の回想によれば、戊辰戦争に際し、魚角は官軍として西国方面の軍事行動に従事した。京都方面から西国へ移動する途上、某所にて上陸していた賊軍部隊を包囲する事態となった。双方は緊張状態に置かれたものの、賊軍側は積極的な戦闘行動に出る様子を見せなかったという。
翌日、賊軍側の指揮官が魚角ら官軍の指揮官を訪ねた後、ほどなくして賊軍指揮官が自刃し、その首級が届けられた。これにより事態は収束し、両軍の間で本格的な戦闘は行われないまま、撤退したとされる。魚角はこの出来事について、敵将が自らの命をもって部下の命を救い、無益な流血を避けたものと感銘を受けたものの、場所も名前も藩も覚えておらず、当時の似たような話を知っているものはいないだろうかと懐かしげに語ったという話が雑誌『温古』に掲載された。
また、この話は、松山藩老熊田恰が玉嶋において官軍に包囲され、部下の助命を求めて自刃したとする記録(柚木玉邨所蔵『双璧斎瑣』による)と判明するも魚角に伝える直前に死去した。
昭和9年(1934年)3月22日死去。享年90。五男の田上乾吉は、関東局警視および安東警察署長を務めた。