魯淑 From Wikipedia, the free encyclopedia 出生 建安22年(217年)?[1]徐州下邳国東城県死去 鳳凰3年(274年)拼音 lǔ shū主君 孫休→孫皓魯淑呉昭武将軍・都亭侯・夏口督出生 建安22年(217年)?[1]徐州下邳国東城県死去 鳳凰3年(274年)拼音 lǔ shū主君 孫休→孫皓テンプレートを表示 魯 淑(ろ しゅく)は、中国三国時代の呉の武将。本貫は徐州下邳国東城県[2]。 『三国志』呉書に伝のある魯粛の遺腹の子。壮年にして濡須督の張承から、自身と同じ職に至るだろうと評価された。 永安年間(258年 - 264年)に昭武将軍・都亭侯・武昌督[3]となる。建衡年間(269年 - 271年)に仮節を授かり、夏口督に移った。任地にあっては厳整で、地方を正す才を有していた。 鳳凰2年(273年)7月、西晋の領地である弋陽を包囲したが、王渾によって撃ち破られた[4]。 鳳凰3年(274年)に死去。子の魯睦が爵位と兵馬を継いだ。 出典 陳寿撰、裴松之注『三国志』呉書 魯粛伝 s:zh:三國志/卷54#魯肅 脚注 ↑ 魯粛の遺腹の子であり、魯粛の没年が建安22年。すなわち建安23年(218年)生の可能性もある。 ↑ 『三国志』魯粛伝記載の、魯粛の本貫は臨淮郡。ただし当時、臨淮郡は置かれておらず、東城県は下邳国に属す。范曄『後漢書』下邳恵王衍伝より。s:zh:後漢書/卷50#下邳惠王衍 ↑ 『三国志』呉書 呂岱伝によると、武昌督は右部督・左部督に分かれていたが、魯淑が左右どちらに就いたかは不明。s:zh:三國志/卷60#呂岱 ↑ 房玄齢等『晋書』世祖武帝紀より。なお、同書王渾伝ではこの時、魯淑に連動して薛瑩が新息に侵攻し、王渾により撃ち破られたのは薛瑩としている。 Related Articles