鮫島純子

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鮫島 純子(さめじま すみこ、1922年大正11年〉9月26日 - 2023年令和5年〉1月19日[1])は、日本著述家、絵本作家。戦中戦後の体験、ポジティブな生き方などを綴った著作がある。

日本資本主義の父とされる実業家・渋沢栄一の孫にあたり、2024年(令和6年)発行の新一万円札に用いられた渋沢栄一の肖像画の確認を行った。

生い立ち

1922年大正11年)、東京市滝野川町西ケ原(現・東京都北区西ケ原)に、渋沢栄一の三男で実業家の渋沢正雄と、備前岡山藩9代目藩主池田茂政の次女鄰子の間に生まれる。名前の「純子」は祖父・栄一による命名であり、本人は「この名前を書くたびに心の純度を保ちたいと思った」と語っている[2]

幼少期には、祖父が暮らす飛鳥山邸を頻繁に訪れ、頭をなでられたり飴をもらったりするなど、穏やかな交流を重ねた。栄一は彼女が10歳の頃に死去し、後年、純子は「生前の祖父に抱きしめられた記憶を持つ、ほとんど最後の世代の孫」と述懐している[3]

女子学習院を卒業後の1942年昭和17年)、後に500円札の肖像となる岩倉具視の孫、鮫島員重と結婚し、のちに男子3人をもうける。披露宴の最中に川崎への初の焼夷弾が投下され、花嫁衣装のまま防空壕へ避難した。この時の仲人は鈴木貫太郎夫妻だった[4]

戦時中は夫の勤務先である名古屋に移り住み、乳児二人を抱えながら空襲を経験した。家政婦として住み込んでいた少女と二人で焼夷弾の火を消し止めるなど、周囲の助けを得て戦火を生き延びた体験は、後年「他人の親切のありがたさに目覚めた原点」として語られている。

夫との生活と「障子のあまり紙」の絵巻

夫の定年退職後、夫妻はスケッチブックを手に各地を旅し、風景を描き残すことを楽しみにしていた。

しかし、夫が84歳で食道がんと診断され、自宅療養となる。外出が難しくなった夫に、当時流行していた「ガングロ」「ヤマンバ」などの奇抜な若者ファッションや街の風景を伝え少しでも楽しませたいと考えた純子は、障子貼りのあまり紙を長くつないで即興の「絵巻物」にし、そこにヤマンバ風ファッションの若者や、街の様子、季節の風景などをユーモラスなタッチで描いて見せた。夫はこれを大いに喜んだという[5]

それがたまたまテレビ局に勤める人物の目にとまり、番組で紹介されることになった。放送を見た出版社から声がかかり、2000年平成12年)に現代と戦後の日本の風俗を比較した画文集『あのころ、今、これから… 今の日本、このままでいいですか? 昔の生活に見る「再生」のヒント。』が出版された。ほのぼのとしたタッチの中に潜む鋭い視点に注目が集まり、その後『忘れないで季節のしきたり日本の心』『子育て、よかったこと、残したいもの』などが相次いで刊行されるなど人気作家となる。

純子はこの出来事について、もともと夫婦でのスケッチ旅行がささやかな楽しみであり、夫が倒れたあとも「絵を通じて少しでも外の世界の空気を部屋の中に運びたかっただけ」であったと語っているが、偶然の連鎖から高齢での著作デビューへとつながる転機となった[6]

夫は延命治療を望まず、宣告から約1年7か月後に自宅で静かに死去した。純子はその最期を看取り、「感謝と共に見送ることができた」と語っている[要出典]

エッセイストとしての活動

障子の絵巻をきっかけに出版のオファーを受けて以降、純子は昭和の暮らしや四季の行事、渋沢家の教え、戦中戦後の経験、高齢期の心の持ち方などをテーマに、画文集やエッセイ集を多数執筆した。

2010年(平成22年)には、祖父の人物像や家訓、渋沢家の暮らしぶりを綴った『祖父・渋沢栄一に学んだこと』(文藝春秋)を刊行し、「企業は儲けた金を社会に還元すべきだ」という栄一の思想や、質素倹約を旨とする家庭の雰囲気を孫の視点から伝えている[7]

高齢期には、長年の心の探求から得た「なにがあっても、ありがとう」という姿勢を軸に、どんな出来事にも感謝を見いだす生き方を説くエッセイを多数発表した。2015年(平成27年)の『なにがあっても、ありがとう―――つらく苦しいことにこそ、誠実に向き合う。』(あさ出版)は、骨折や詐欺被害なども「学びの機会」として受け止める姿勢を綴った人生論として読まれている[8]

90代以降も執筆と講演を続け、2022年令和4年)には100歳を迎えたタイミングで、『100歳の幸せなひとり暮らし―穏やかな心と健康を保つ100のヒント』(光文社)などを刊行している。

思想

日々の散歩や姿勢を重んじる独自の健康法を長年実践し、70代で水泳、80代で社交ダンス、90代でヨガを始めるなど、晩年まで新しいことに挑戦し続けた。食事は腹八分目、感謝の言葉を口にする、物を大切に長く使うといった生活習慣を重視している。

精神面では、輪廻転生の考えに影響を受け、「自分が渋沢の家に生まれたことも、自ら選んだ課題」と捉えたうえで、「嫌な出来事ほど、過去の誤った思いが清算されていくチャンス」と考える「後天的ポジティブ思考」を提唱した。こうした考えは著書『なにがあっても、ありがとう』などに反映されている。

生前は「世界人類の平和なくして各人の幸せはない」との祖父・渋沢栄一の信念を引き継ぎ、講演などで「一人ひとりが心の中で世界平和を祈ることの大切さ」を語り続けた。訃報を知らせる家族の文面でも、本人が生前に残したこのメッセージが紹介されている[9]

新一万円札との関わり

2024年(令和6年)7月3日に発行された新一万円札では、渋沢栄一の肖像が採用された。この肖像画の確認は、生前の栄一の顔を直接覚えている唯一の存命の子孫であった人物として、鮫島純子が担当した。他の年長の親族はすでに他界しており、年少の親族は栄一の生前には幼すぎて記憶がないためであるとされる[10]

系譜

登場作品

脚注

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