鯉江方寿
From Wikipedia, the free encyclopedia
1821年(文政4年)12月7日、尾張国知多郡常滑村に陶芸家の鯉江方救の元に長男として生まれる。
少年時代は父の方救より製陶の技術を学び、彫刻に優れていた[1]。
方救と共に割れにくい焼き物を作りたいと願望して[2]、1835年(天保6年)に真焼窯を13年かけて改良に成功したが、方寿の年齢を考慮すると天保年間に方寿が大きく貢献したとはみなしがたい。
1835年(天保6年)に父の鯉江方救と共に真焼窯を改良し、真焼間窯(連房式登り窯)を完成。
1840年(天保11年)には尾張藩の御小納戸御用、御焼物師の役を方寿が勤めた[3]。
1848年(嘉永元年)に新田の開発に成功し、これが鯉江新開と呼ばれた。
1872年(明治5年)に鉄道の工事現場を見て、陶管の製造を思い立ち、後述する真焼土管が採用される。
同年、横浜の外国人居留地の設計・施工を任されたスコットランド人の技師、お雇い外国人のリチャード・ブラントンから、方寿に下水道管を頑丈に焼いてもらいたいという依頼があり、一度目は不採用になるものの二度目の1873年に採用された[4]。
1874年(明治7年)、真焼土管(常滑陶管)の国産化に成功した。
1877年(明治10年)に完成した京都・大阪間の線路の下には方寿が発明した木型を用いた真焼土管が採用され[5]その後は常滑の釜屋で土管生産の指導を勤めた。
1901年(明治34年)5月12日に亡くなる。

