鳥尾敬孝
日本の実業家 (1933-1990)
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来歴
1933年9月4日、鳥尾子爵家の長男として鳥尾敬光・鳥尾鶴代の間に生まれる[1][2]。同年に昭和天皇の第1皇男子・明仁も誕生しており、学習院幼稚園から高等科までを皇太子の学友として過ごす[1][3]。学習院高等科卒業後は慶應義塾大学に進学、同大学在学中にバンド活動を開始し、従兄弟の井原高忠が在籍していたワゴン・マスターズに参加してベースを担当する[1][4]。1955年7月に平尾昌晃、田邊昭智らと結成したオールスターズ・ワゴンではバンドリーダーを務める[5][6]。1956年に慶應義塾大学を中退、1957年11月にオールスターズ・ワゴンを脱退し、日本ビクターに入社して芸能プロモーターに転向する[5][7][8]。
日本ビクターでは元バンドマンの経歴と英語能力を買われ、ニール・セダカなどの日本国外のミュージシャンの招聘、来日公演の手配を担当する[8]。日本ビクター子会社のビクター芸能出版・ビクター芸能の代表取締役のほか、ポリドール常務取締役を歴任する[1][7]。
ポリドール常務取締役退任後の1990年10月18日、急性心不全により57歳で亡くなる[1][9]。同年12月11日にホテルオークラで開かれたお別れの会では、バンドマン時代からの友人である堀威夫や小坂一也らによってカントリー・ミュージックが演奏された[10]。墓所は文京区護国寺。
人物
学習院中等科で同級生だった藤島泰輔は鳥尾を「典型的な山の手の悪童」だったと評し、また、橋本明は明仁の学習院中等科時代のあだ名「チャブ」は鳥尾が口にしたのが始まりであるとしている[11][12]。学習院を離れた後も皇太子の学友としてメディア取材に応えることがあり、旧華族の視点から皇室・皇太子に関する意見を述べていた[13]。平成に改元した1989年に学習院時代の回想を中心とした『明仁陛下の青春と共に』を泰流社から出版する[14]。
バンドリーダーとして率いたオールスターズ・ワゴンは日本のカントリー・ミュージック草創期を代表するウェスタン・バンドの一つに挙げられる[6][15]。当時の東京を代表するジャズ喫茶「テネシー」などで演奏し、若い女性からの人気が高いバンドだった[16]。鳥尾の活動期間は1957年までの短期間に限られるが、当時の日本ではトップクラスのベーシストと扱われており、『ミュージック・ライフ』が1958年に実施したミュージシャンの人気投票では引退後にもかかわらずベース部門の4位にランクインしている[17]。オールスターズ・ワゴンのバンドメンバーだった平尾昌晃は、鳥尾は音楽へのこだわりが強いバンドリーダーだったと自著で述べている[4]。なお、バンド脱退後も楽器演奏は続けており、ビクター芸能代表取締役時代には11PMで演奏を披露している[18]。
芸能プロモーターとしては、1972年にユニセフが難民支援のために企画した国際チャリティーコンサートの日本側担当者を務め、1983年に東京で開催されたJazz at the Philharmonicにも関与する[19][20]。また、日本国内のミュージシャンではチェリッシュを見出してビクター芸能の中興につなげている[18]。