橋本明
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1940年4月学習院初等科に入学。以後大学まで学習院で学ぶ。1956年学習院大学政経学部政治学科卒業。共同通信社に入社。
1961年から1963年までチトー大統領の招待でユーゴスラビアに留学、ベオグラード新聞研究所第1回卒業生となる。
共同通信社会部次長、外信部次長、ジュネーヴ支局長、ロサンゼルス支局長、国際局次長、共同通信社役員待遇、ジャパンビジネス広報センター総支配人、共同通信社特別顧問、共同通信社国際スポーツ報道顧問、日本パブリック・リレーションズ協会理事および長野オリンピック組織委員会メディア責任者、国際オリンピック委員会報道委員会委員、学習院桜友会機関誌(季刊)編集長などを歴任した。
人物像
兄の橋本實によると、「戦争中は日光、岡山等に疎開した。岡山では吉備郡秦村字秦下(現・総社市)の親類宅から秦村国民学校に通った。兄實と2人、しばしば深夜に部屋をしのび出て畑に匍匐前進し、熟れたスイカを盗み取った」という[2]。
「ご学友」として
上皇明仁とはいわゆる「ご学友」であった。
学習院高等科在学中、同級生だった当時皇太子の上皇明仁から銀座に行きたいと相談され、「今宵、殿下を目白の方にご案内したい。」と皇太子側近を騙し、同級生で出雲国造家出身の千家崇彦と3人で銀座に繰り出し大騒ぎとなる(いわゆる「銀ブラ事件」)。
皇太子の成婚の際には、「柳行李一つで来てください」という皇太子の言葉が決め手となったと報道されたが、これは橋本の創作であったといい、のちに上皇明仁が自ら否定した。
家族・親族
著書
- 皇室以外

