鵙目貫一郎
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鵙目は、岩出山藩において、昌平坂学問所へ派遣される機会を与えられ、後には藩主伊達邦直の下で祐筆から家老となった[3]。
維新後に、藩主邦直以下、旧藩士たちが現在の北海道当別町への開拓入植を行なった際には、鵙目は開拓幹事のひとりとなり[4]、邦直の側近として北海道へ渡った[3]。1871年7月に、当時の後志国小樽郡延嘉裏町(後の小樽市)に寄留していた際、住民子弟のための私塾「鵙目塾」を開いた[3]。これが短期間のうちに移転を重ねて1872年10月に開運町に移り[3]、同地で1873年に開拓使が設置した小樽郡教育所に発展し[5]、鵙目はその初代校長にあたる初代教授となった[2][5][6]。鵙目は、小樽に1875年ころまで滞在し、教育に従ったが[3]、健康を害して石狩当別とへ移り、同地で没した[6]。