鵜飼玉川
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1807年(文化4年)常陸府中藩士・遠藤三郎兵衛の第4子・幾之助として江戸小石川の藩邸で生まれる。若い頃より古仏や書画骨董の蒐集を好んで鑑定を得意とし、天保年間には知識人として広く知られ、谷文晁や渡辺崋山、椿椿山、市河米庵、歌川国芳らと交流があった[1]。
1859年、横浜でアメリカ人雑貨商オリン・フリーマンに写真術を学び、江戸薬研堀で写真館「影真堂」をひらく[1]。1861年(文久元年8月19日付け)の松平春嶽の江戸滞在中の記録に、玉川を呼んで横井小楠の肖像写真を撮影させたとある[2]。文久元年の「大江戸当盛鼻競・初編」にも「写真・玉川三次」で登場している。上野彦馬と下岡蓮杖が写真館を開業したのは1862年(文久2年)であるから、一般に言われる長崎の上野彦馬の写真館よりも玉川の方が開業が早かったとも推測される。弟子に、明治天皇に写真を進講し、日本初の写真誌創刊にも関わった深澤要橘がいる[3]。1869年に写真館を閉める[4]。
1873年(明治5年)、正倉院宝物調査に参加、その後古美術鑑定の道をあゆんだ。1884年(明治16年)には東京谷中に自分が撮影した写真を埋め、写真塚を建てた。1887年(明治20年)5月12日死去。享年81。谷中墓地の写真塚の横に埋葬された[5]。
1956年(昭和31年)9月30日にサン写真新聞社によって写真塚が発掘され、20枚ほどのガラス版写真が発見された[5]。その中の一枚に彩色された外国人少女像があり、日本最古の彩色写真とされる[5]。2009年(平成21年)5月16日にも写真塚を発掘調査したが成果はなかった[6]。2025年に玄孫が玉川撮影の写真を保管していることがわかり、日本カメラ博物館に寄付された[6]。

