吉良氏朝は生母(堀越六郎の妻)も養母(吉良頼康の妻)も共に北条氏綱(長綱の兄で氏康の父)の娘であったため、吉良氏と北条氏の間で二重の縁組が行われたことになる(ちなみに堀越氏は吉良氏の分家筋にあたる)。
永禄3年(1560年)、鶴松院が吉良氏朝に嫁ぐ際に、長綱は全24条からなる「宗哲覚書」を送っている。これは当時の大名家の女性の教養や生活について説かれており、史料としての価値も高い。また、永禄10年(1567年)10月に長綱が「息女」の希望に応えて『太平記』を写本して与え、その本を更に写本したものが今日伝わる「相承院本太平記」であり、巻四十奥書にもその経緯が記されている。この記載内容から、吉良氏朝に嫁いだ女性=長綱の「息女」と考えるのが妥当とされている。
永禄11年(1568年)に氏朝の嫡男吉良氏広(後の蒔田頼久)を生んでいるが、その後の動向は不明。法号は「鶴松院殿快密寿慶大姉」。ただし、長綱から婚姻に伴って氏朝に与えられたと思われる武蔵国大井郷(現在の埼玉県ふじみ野市)が天正7年(1579年)から同15年(1587年)の間に長綱の元に戻っているため、鶴松院の死去に伴って返還された可能性がある。