鷹司兼平

鎌倉時代中期の公卿・能書家。近衛家実の四男。従一位・関白、太政大臣。鷹司家の祖・初代。藤氏長者。摂政。 From Wikipedia, the free encyclopedia

鷹司 兼平(たかつかさ かねひら)は、鎌倉時代中期の公卿能書家関白近衛家実の四男。官位従一位・関白、太政大臣鷹司家の祖。通称は照念院関白(しょうねんいん かんぱく)。

時代 鎌倉時代中期
生誕 安貞2年(1228年
改名 兼平→覚理(法名)
概要 凡例鷹司 兼平, 時代 ...
 
鷹司 兼平
鷹司兼平像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』、紙本着色より)
時代 鎌倉時代中期
生誕 安貞2年(1228年
死没 永仁2年8月8日1294年8月30日
改名 兼平→覚理(法名)
別名 照念院関白、近衛前関白、近衛の大殿
戒名 照念院(称念院)
墓所 高山寺
官位 従一位摂政関白准摂政内覧太政大臣
主君 四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇
氏族 近衛家鷹司家
父母 父:近衛家実、母:藤原忠行の娘
兄弟 近衛家通近衛家輔近衛兼経近衛長子兼平、実静、慈禅、増忠、聖兼、聖実、澄誉
一条実有の娘、平親継の娘、藤原光俊の娘
基忠兼忠、朝子、静誉、慈基ら
特記
事項
鷹司家の祖
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経歴

暦仁元年(1238年)従二位権大納言右近衛大将となる。その後右大臣左大臣を歴任。建長4年(1252年)摂政藤氏長者宣下を賜り、太政大臣に任じられた。同6年(1254年)関白となる。

元々関白には近衛兼経が就いていたが、後深草天皇の元服に伴って辞任(同じ摂政が二人の天皇の元服に奉仕することは不吉とされていた)。そのため新たな摂政には兼経の弟である鷹司兼平が就任した。兼平は兼経の猶子となっていたが、兼経には近衛基平という実子もいた。要するに兼平は中継ぎとして摂政に就任したのだ。ところが兼平は基平と同じような出世を辿っている。これは摂関家嫡流と同じ出世ルートであり、ここに至り近衛家は嫡流の近衛家と鷹司家の二つに分裂した[1]

近衛家では「近衛家所領目録」が作成されたが、これも鷹司家の分出に伴い家領を鷹司家と区分する目的で作られたのだという。兼平は近衛家から文与された所領四ヵ所に加え、宣陽門院領から伝領された領土と合わせて鷹司家領を形成する[2]

一旦辞任するが建治元年(1275年)に再度摂政・藤氏長者となった。前関白の父が摂政に就くのは前代未聞の事態だったが、兼平は後深草上皇・亀山上皇のどちらとも関係が良好であるため、調整役として摂政に任じられたのだと考えられる。以降兼平は12年間に渡って摂関を務める[3]

兼平は朝廷の調整役として摂関を歴任し、息子の鷹司基忠とともに内覧としても活躍した。以後も鷹司家は他家と比べて大きな問題もなかったため、安定してその地位を維持することが出来た[注 1]。そのため、鷹司家は有識故実に詳しい家として重用され続けた[4]

正応3年(1290年)出家し、覚理と号する。永仁2年(1294年)に智恵光院を開山するが、間もなく薨去。兼平は前後23年の長きにわたって摂関の任にあった。

能書家としても著名。日記に『称念院関白記(兼平公記)』、有職故実書に『照念院殿装束抄』がある。勅撰和歌集には4首入集している。

後深草院二条が綴った『とはずがたり』に登場する「近衛大殿」はこの兼平のことだと考えられている。

官歴

さらに見る 和暦(西暦), 月日(旧暦) ...
鷹司兼平の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢 [注 2] 事項
嘉禄3年(1237年 2月23日 10歳 元服正五位下に叙す
2月28日 右近衛少将に任ず
7月17日 従四位下に昇叙、右近衛少将如元
9月15日 右近衛中将に転任
10月15日 禁色を聴される
暦仁元年/延応元年(1238年 1月5日 11歳 従四位上に昇叙、右近衛中将如元
1月22日 播磨権守
1月27日 従三位に昇叙、右近衛中将如元
閏2月15日 権中納言に任ず
4月18日 権大納言に転任、帯剣を聴される
9月1日 正三位に昇叙
11月6日 従二位に昇叙、兼右近衛大将
12月23日 右馬寮御監
延応元年/仁治元年(1239年 4月23日 12歳 正二位に昇叙
仁治2年(1241年 4月17日 14歳 内大臣に任ず
4月18日 右近衛大将如元
10月10日 右近衛大将を辞す
寛元2年(1244年 6月13日 17歳 右大臣に転任
寛元4年(1246年 3月28日 19歳 一上宣下
11月15日 随身および兵仗を辞退
12月24日 左大臣に転任
宝治2年(1248年 10月23日 21歳 従一位に昇叙
建長4年(1252年 10月3日 25歳 摂政および藤氏長者宣下、左大臣如元
11月3日 太政大臣宣下、摂政・藤氏長者如元
建長5年(1253年 11月8日 26歳 太政大臣を辞す
建長6年(1254年 12月2日 27歳 摂政を辞し、准摂政および関白宣下
正元元年(1259年 11月26日 32歳 亀山天皇践祚に伴い、関白如元宣下
弘長元年(1261年 4月29日 34歳 関白および藤氏長者を辞す
文永5年(1268年 12月29日 41歳 随身および兵仗を賜る
建治元年(1275年 10月21日 48歳 摂政および藤氏長者宣下(再任)
建治2年(1276年 12月14日 49歳 太政大臣宣下、摂政・藤氏長者如元
建治3年(1277年 4月26日 50歳 太政大臣を辞す
弘安元年(1278年 12月7日 51歳 摂政を辞し、関白宣下
弘安9年(1286年 閏12月12日 59歳 兵仗を辞退
弘安10年(1287年 8月11日 60歳 関白を辞す
正応2年(1289年 6月1日 62歳 内覧宣下
正応3年(1290年 3月30日 63歳 出家
永仁2年(1294年 8月8日 67歳 薨去
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系譜

  • 父:近衛家実(1179-1243)
  • 母:藤原忠行の娘- 『尊卑分脈』は藤原伊忠の娘とする
  • 正室:一条実有の娘(北御方)(1231-1249)
  • 継室:源能子(大殿北政所) - 藤原宗保の娘、唐橋通頼養女、1253年従三位
  • 妻:平親継の娘(?-1292)
  • 妻:藤原光俊の娘
    • 男子:静誉
    • 男子:慈基

脚注

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