隋の高句麗遠征
隋による高句麗への遠征(598年 - 614年)
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隋の高句麗遠征(ずいのこうくりえんせい)は、598年から614年まで4回にわたって行われた隋による高句麗への遠征である。
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| 衝突した勢力 | |||||||||
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高句麗 東突厥[5][6][7] | 隋 | ||||||||
| 指揮官 | |||||||||
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嬰陽王 乙支文徳 高建武 姜邯賛 (?) |
隋の煬帝 楊諒 高熲 宇文述 于仲文 屈突通 来護児 周羅睺 尉遅義臣 皇甫漢 阿史那大奈 | ||||||||
| 戦力 | |||||||||
| 30万人の兵力[8] |
名目上は1,133,800人の戦闘兵と、約2,000,000人の支援兵から構成されていた。612年の第二次侵攻時の兵力については、『隋書』および『三国史記』による。[9][10] 現代の推定兵力: 67万人[11][12] | ||||||||
| 被害者数 | |||||||||
| 不明 | 少なくとも302,300人の死傷者[13][14][15][16] | ||||||||
呼称
背景
高句麗と隋の戦争は、隋の対外的な拡張政策に端を発した。581年に成立した隋は、突厥を撃破し、589年には南中国の陳を滅ぼして、約300年にわたって分裂していた中国を統一した[30]。
5世紀半ば以降の東アジアでは、中国の南北朝、北方の遊牧国家、吐谷渾、高句麗などが並存する多元的な勢力均衡が形成されていた。特に高句麗は東北アジアにおいて独自の勢力圏を維持し、中国王朝との間で互いの勢力を認めながら共存していた[30]。
しかし、隋による中国統一は従来の国際秩序を大きく変化させる出来事となった。隋は中国を中心とした一元的な国際秩序の構築を目指し、突厥と陳を征服した後、次の対象として高句麗への圧力を強めた。隋は高句麗の独自の勢力圏を認めず、服属を要求した。また、隋の影響力が東北アジアへ拡大すると、高句麗に属していた契丹や靺鞨の一部も隋側へ離反するようになった[30]。
こうした状況の中で、高句麗は隋への服属を受け入れるか、独自の勢力圏を守るため対抗するかという選択を迫られ、後者を選択した。したがって、高句麗と隋の戦争は、従来の多元的な勢力均衡を維持しようとする勢力と、中国中心の新たな国際秩序を構築しようとする勢力との対立であった[30]。
概要
第1次遠征
598年、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃した。隋の文帝楊堅は、30万の大軍で陸海両面で高句麗に侵攻したが、周羅睺が率いる海軍は暴風に遭い撤退した。陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。
第2次遠征
煬帝の治世、朝鮮半島をめぐり隋と高句麗との関係が緊張した611年、煬帝が塞北を巡幸した際、突厥支配地の楡林で高句麗の使節に出くわした。煬帝に同行した国際通の政治家、黄門侍郎裴矩は、高句麗は元来、周代に箕子が封じられ、漢四郡を置いた中国の領土であるが、高句麗王は藩属国の礼を守っておらず、先帝も征服を試みたが失敗した、として高句麗攻撃を進言して煬帝に朝鮮半島領有の必要を説いて次のように言った[31][32]。
612年正月、隋の煬帝は、113万の大軍で高句麗に侵攻した。高句麗の将軍の乙支文徳は、隋軍の内情を探るため、降伏すると見せて隋軍の陣に入り、補給に問題があることを知ると、脱出して高句麗軍に戻った。乙支文徳は焦土作戦を取りながら偽装退却を続け、宇文述が率いる隋軍を深く引き入れ、補給線を延びきらせた。乙支文徳は、薩水(清川江)で、疲労と補給不足に陥った隋軍を包囲してほとんど全滅させた。これを韓国では、薩水大捷という。隋の大軍のうち、帰ることが出来たのは、わずか数千人だったという。
第3次遠征
613年、隋の煬帝は再び高句麗に侵攻したが、隋の国内で楊玄感が反乱を起こしたため、隋軍は撤退した。
第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる戦争で疲弊していたため、楊玄感に内通し高句麗に亡命していた斛斯政を隋の将軍の来護児に引き渡した。隋も国内が乱れていたため和議を結んだ。高句麗は和議の一つであった隋への朝貢を実行せず、これに隋は激怒し再度の遠征を計画したが国内の反乱のため実行することはできなかった。
結果
615年、煬帝は再び高句麗遠征を計画したが、中国各地で反乱が発生し、勢力を回復した突厥の脅威も高まったため、遠征計画は中止された。すでに隋帝国は高句麗遠征の失敗と国内の混乱によって衰退しており、618年に煬帝が殺害されると、隋は事実上滅亡した[30]。
一方、戦争の期間中、新羅と百済は外交的には隋に高句麗遠征を要請するなど支援する姿勢を示したものの、実際の戦争の展開では積極的に介入せず、情勢を見守る立場を取った[30]。
十年以上にわたる高句麗と隋の戦争が終結した後、高句麗征服の失敗は隋帝国崩壊の主要な要因の一つとなった。その後、中国は再び分裂と混乱の時代に入り、モンゴル高原の遊牧勢力も勢力を回復した。そのような状況の中で、高句麗は独自の勢力を維持し続け、朝鮮半島では三国間の対立が続いた[30]。
高句麗勝利の原因
高句麗の勝利は、軍の規模ではなく、綿密な計画、堅固な防衛体制、そして地形を効果的に利用した戦略によって成し遂げられた。高句麗の山岳地帯は敵軍の大規模な進軍を制限し、隋軍を狭い谷や河川沿いの経路へ誘導したため、伏兵による攻撃を受けやすくした。乙支文徳は野戦で決戦を挑むのではなく、敵軍を疲弊させた上で、隙が生じた時に反撃を行う戦術を用いた[33]。
一方、隋は圧倒的な兵力と大規模な補給作戦に依存したが、長期間にわたる遠征を支えることはできなかった。長大な補給線、過酷な環境、飢餓や疫病、指揮系統の混乱によって軍は弱体化し、煬帝による度重なる遠征は国家財政を圧迫して国内の反乱を招いた。その結果、618年に煬帝が江都で宇文化及による反乱の中で殺害され、隋はまもなく滅亡した[33]。
高句麗の嬰陽王が乙支文徳に軍の指揮を委ねたことは、高句麗の抵抗を象徴する出来事となった。後世の朝鮮側史料である『三国史記』には、乙支文徳の戦略的功績や隋軍を嘲笑する詩が記録されている。隋の遠征失敗は、戦略的現実を欠いた帝国的な過信の危険性を示し、小国であっても優れた指導力と地形への適応によって強大な勢力に対抗できることを示した。しかし、中国勢力による高句麗征服の試みは終わらず、後に唐が再び高句麗への遠征を行うことになる[33]。