龐師古

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龐 師古(ほう しこ、生年不詳 - 897年)は、末の軍人。もとの名は従。本貫曹州南華県[1][2]

経歴

中涓として朱全忠に従い、その側近を離れなかった。朱全忠が汴州に駐屯し、宣武軍を整備して、馬500頭を得ると、師古は偏将となった。陳県の援軍に赴いて秦宗権を破り、戦功を重ねた。龍紀元年(889年)、朱珍が罪を得て処断されると、師古は都指揮使に任じられた。淮水を渡り、廬寿に軍糧を補給し、滁州を攻め、天長を破り、高郵を下した。淮水沿岸を転戦し、いたるところで勝利した。ほどなく朱友裕に代わって軍を率い、徐州を攻め落とし、感化軍節度使の時溥の首を斬って朱全忠に献上した。軍を移して兗州を討ち、中都に入り、梁山に寨を築いた。天平軍節度使の朱瑄の軍を破り、塁下まで追撃した。さらに泰寧軍節度使の朱瑾を清河で破った。汶陽の征討に従い、朱瑄・朱瑾と晋将の史儼児の連合軍と故楽亭で戦い、勝利して凱旋した[1][2]

乾寧4年(897年)1月、師古は諸軍を統率して鄆州を討ち、これを攻め落とした。朱瑄を捕らえて朱全忠に献上し、推薦されて天平軍節度留後となった。ほどなく武寧軍節度使に転じ、検校司徒を加えられた。8月、葛従周とともに淮水を渡り、楊行密を討った。11月、師古は清口に寨を築いた。寨の土地が低かったので、ある人が移すよう勧めたが、師古は聞き入れなかった。まもなく淮南の兵が上流の水の手を切ってくると警告する者がいたが、師古は怒って兵を惑わす者としてこれを斬った。瞬く間に師古の軍はぬかるみの中に飲み込まれ、淮南軍に襲撃されて敗れた。師古は陣没した[3][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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