義
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義(ぎ)は漢字の1字。会意・形声に分類され、羊(ヨウ)と我(ガ→ギ、のこぎりの象形)から成る。神前で犠牲の羊をのこぎりで切るさまを表現していると解釈されており、転じてさまざまな意味に使用される。
角川「新字源」は「敬虔な気持ちを表し、ひいて「みち」「ただしい」意味に用いる[1]」とし、平凡社「字通」は「羊に鋸(のこぎり)を加えて截(た)ち犠牲とする、その牲体(せいたい)に何らの欠陥もなく、神意(しんい)にかなうことを義(ただ)しという」とし、説文解字には「己(おのれ)の威儀(いぎ)なり」との記載があり、また金文師キ鼎に「義(よろ)しく~すべし」の語法があり「宜」と同じ使われ方があるとし、「宜」は且(ソ、俎:まないた)の上に肉を置く形であって、神に供薦して神の意思に適うという意味であって、義と声義が通じていると解説する[2]。
義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」(広辞苑第6版)。
古代史研究者の竹内亮[3]によれば、漢字における「義」には、本来「外から来て固有ではないもの」という意味があり、義手・義足や義父母・義兄弟などの語にはこうした意味があるが、後には血縁関係にない仲間同士を結び付ける倫理を意味するようになった。更に時代が下って後漢末期に入ると「他者と共同で行う第三者のための事業」という意味も発生し、義舎・義学・義田などの無償の施設などを指す言葉としても用いられた[4]という。
仏教における「義」
キリスト教における「義」
「義」の文字(漢字)が日本語の新約聖書で採用されているのは、日本最初の完訳版である1880年(明治13年)『新約全書』で確認でき、「ただしい」「こころ」「ぎ」などの和語を充てている[5]。
キリスト教における義という訳語は、ギリシア語でΔικαιοσυνη dikaiosynee ディカイオシュネーと呼ばれるもので、罪の対立概念とされる。これは他者に対して義(ただ)しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態をいう。義しい人を義人と呼ぶ。
神によって「義とされる」(義とする:ディカイオオー)ことも同じ問題圏に属する。
真に義であるのは神のみである(「義人はいない」)が、人間は神を信じることにおいて義(ただし)さに近づくことができる。信じないことは不義と同義であるとされる。『ヤコブの手紙』によれば義しさは、神への信仰を表明することのみならず、他の人間に対する行為において現れる。
ルターは人が行動において義とされること(行為義認)を否定し、信仰によってのみ人が義とされる(信仰義認)と考え、それまでのキリスト教で行われていた苦行、断食などを否定した。
諱における「義」
義(よし)は、清和源氏、足利将軍家の武将・当主の諱において代々用いられた通字である。足利将軍家では、二代将軍・足利義詮以来、将軍は義の字を上にして、義満、義持などと名乗った。
当時、武士の社会では主君より諱の一字を受けることが家臣の栄誉と考えられており、将軍の諱も臣下たる守護大名、戦国大名に尊重された。故に各地の大名は幕府に寄進し、義の字ないし将軍の諱のうちの一字を賜った。これを一字拝領、一字書き出し、偏諱などともいった。足利義晴の時代にも、義の字を受けた武将として、大内義隆、晴の字を受けた武将に武田晴信 伊達晴宗 長尾晴景などがいる。義の字を受けようとする者は、幕府に500貫以上の献金を要し、諱の下の文字は300貫とされた。
今日でも人名において広く用いられている。