朴正煕暗殺事件

1979年に韓国・ソウル特別市で発生した殺害事件 From Wikipedia, the free encyclopedia

朴正煕暗殺事件(パク・チョンヒあんさつじけん)は、1979年10月26日大韓民国ソウル特別市で、朴正煕大統領車智澈大統領府警護室長が金載圭大韓民国中央情報部部長によって殺害された事件である。韓国では起きた日付から「10・26事件」(ハングル: 10・26 사건[5]、また発生した場所から「宮井洞事件」とも呼ばれている。

標的 朴正熙
日付 1979年10月26日
19時40分[1]
攻撃手段 拳銃による銃撃
概要 朴正熙暗殺事件, 場所 ...
朴正熙暗殺事件
暗殺された朴正煕
場所 大韓民国の旗 韓国ソウル特別市鍾路区宮井洞
標的 朴正熙
日付 1979年10月26日
19時40分[1]
攻撃手段 拳銃による銃撃
攻撃側人数 8人
武器 ワルサーPPK[2]
S&W M36[3][4]
死亡者 朴正熙含む6人
負傷者 3人
犯人 金載圭
対処 犯人を捜査・逮捕
刑事訴訟 犯人のうち6人が死刑
テンプレートを表示
閉じる
ハングル 박정희 대통령 암살 사건
漢字 朴正熙大統領暗殺事件
発音 パㇰチョンイ テトンニョン アㇺサㇽ サ(ー)コン
日本語読み: パク・チョンヒだいとうりょうあんさつじけん
概要 朴正煕暗殺事件, 各種表記 ...
朴正煕暗殺事件
各種表記
ハングル 박정희 대통령 암살 사건
漢字 朴正熙大統領暗殺事件
発音 パㇰチョンイ テトンニョン アㇺサㇽ サ(ー)コン
日本語読み: パク・チョンヒだいとうりょうあんさつじけん
RR式 bakjeonghui daetongnyeong amsal sageon
MR式 pakchŏnghŭi taet'ongnyŏng amsal sagŏn
テンプレートを表示
閉じる
ハングル 10・26사건
漢字 10・26事件
発音 シビリュク サ(ー)コン
日本語読み: シビリュクじけん
概要 10・26事件, 各種表記 ...
10・26事件
各種表記
ハングル 10・26사건
漢字 10・26事件
発音 シビリュク サ(ー)コン
日本語読み: シビリュクじけん
ローマ字転写 sibiyuk sageon
テンプレートを表示
閉じる
ハングル 궁정동 사건
漢字 宮井洞事件
発音 クンジョンドン サ(ー)コン
日本語読み: クンジョンドンじけん
概要 宮井洞事件, 各種表記 ...
宮井洞事件
各種表記
ハングル 궁정동 사건
漢字 宮井洞事件
発音 クンジョンドン サ(ー)コン
日本語読み: クンジョンドンじけん
RR式 gungjeongdong sageon
MR式 kungjŏngdong sagŏn
テンプレートを表示
閉じる

背景

大韓民国中央情報部(KCIA)部長の金載圭朴正煕大統領の古い友人で、5・16軍事クーデターに参加しなかったものの、朴大統領との良好な関係を保ちつつ軍の要職を歴任し、予備役入りして政治家に転じた後も要職を務めた後、KCIA部長に就任して腹心の一人となった。しかし、反体制派弾圧政策に携わる一方で民主化について度々言及し、朴大統領に「学生運動の弾圧が生ぬるい」としてしばしば叱責されるなどその関係が悪化していた。

また、これと並行して金は車智澈大統領府警護室長との勢力争いを繰り広げていた。車は傲慢な振る舞いで政権の内外で恐れられた一方、朴大統領の信任厚い腹心の一人でもあり、金とはライバル関係にあった。車は金との関係は良くなく[注 1]。加えて車は金との闘争の一環で私設情報隊を運営するなどKCIAの職責を侵害する振る舞いを見せた上、金が率いるKCIAが行っていた野党新民党金泳三の総裁就任に対する阻止工作を警護室長としての立場を利用して妨害し[注 2]、金は工作に失敗した上に車にその責任を負わされてしまった。

1979年、呪術師の崔太敏は宗教団体「大韓救国宣教団」を「セマウム奉仕団」に改称し、朴大統領の娘の朴槿恵を総裁にすえ、自身は副総裁に就いた。金載圭は崔太敏にまつわる横領14件、詐欺1件、弁護士法違反11件の計44件3億1,700万ウォンに達する不正事実を調べ上げ、朴大統領に報告した。崔太敏を処罰する動きが出ると、朴槿恵は父親に対し泣いて崔太敏の無実を訴え、金載圭は朴大統領の面前で朴槿恵から質問を浴びせられた。歴代の情報部長の威力や権力に比べ、金載圭のそれは最弱体に転落していった[6][7]

同年10月16日、釜山大学東亜大学の学生3000名余りが釜山市内でデモを行い、これに市民が合流した。釜山におけるデモは政府によって鎮圧されるも、10月20日、釜山に隣接する馬山市において、慶南大学学生と市民による大規模デモが発生した(釜馬民主抗争)。これらのデモの対応において、穏健策ではなく、車が提唱した強硬策が朴大統領に採用された。金は朴大統領の後継者争いから脱落したと見做されるようになった。

10月25日、青瓦台に閣僚らが集まり安全保障会議が開かれた。情報部対北政策局長の玄鴻柱は釜馬民主抗争の総括報告を行った。原因分析中に「長期政権云々」との箇所があったことから、朴大統領は報告が終わると「事前にしっかり情報活動をしていないからあんなに広がったのだ。今回の釜馬事態について情報部や内務部等の情報機関は深く反省しなければならない」と厳しくなじった[8]

朴は情報部長など政権中枢部の交替を計画し始めた。法務部長官の金致烈や駐米大使の金溶植などが次期情報部長の候補に挙がった。10月24、25日頃、車智澈は親しい者に「こんど情報部長を替えるよ」と壮語した[8]

事件

10月26日午前 - 午後

10月26日午前、金載圭は、この日に行われる挿橋川防波堤の竣工式に自身も出席したい旨を大統領府警護室に伝えた。警護室長の車智澈は金の提議をはねつけた。朴大統領はヘリコプターで竣工式に向った。大統領府秘書室長の金桂元と車智澈は朴に随行した[9]

16時頃、金載圭はKCIA本部の執務室で、車智澈から「18時から宮井洞で『大行事』がある」と電話を受けた。「大行事」は大統領と女性2名、警護室長、情報部長、秘書室長が参席する集まりを意味していた[10]。16時25分頃、KCIA儀典課長の朴善浩(パク・ソノ)は車智澈から大行事の連絡を直接受け、歌手の沈守峰と大学生兼モデルの申才順を急いで呼び出した。朴善浩は17時20分頃、プラザホテルで申才順に会い、車に乗せ、10分後には内資ホテルで沈守峰と会った[11]

朴大統領はソウル特別市鍾路区宮井洞(クンジョンドン)にあるKCIA所有の安全家屋(略称:安家)[注 3]で情報部長ら最側近とときおり宴会を行っていたが、1974年8月15日に発生した文世光事件で妻の陸英修を失った後はそこへ女性を頻繁に呼ぶようになった。KCIAの儀典課長の任務はいつからか、大統領の酒席行事に女性を調達し「性上納」することに変質していった。宴会に集められた芸能人や女子学生はさらに選抜され、安全家屋で朴の性接待をさせられた。「大行事」は月2、3回の頻度で開かれ、朴と女性1人が会う「小行事」は月7、8回の頻度で開かれていた[14][15][16][17][18]

17時頃、金載圭は宮井洞の情報部本館に着き、2階の事務室に上がった。金庫からワルサーPPKを取り出し、故障がないのを確かめ、書架のうしろに隠した。17時10分頃、金桂元が事務室に現れた[19]

10月26日夜

金載圭が犯行に使用したワルサーPPKS&W M36[2][3][4]

10月26日18時5分頃、宮井洞の安全家屋の宴会場で、朴大統領を迎えた「大行事」の晩餐が始まった[20]。出席者は朴のほか、車智澈金載圭金桂元。席上、朴大統領が金載圭に対して、反政府学生らが釜山のアメリカ文化館を占拠した事件(釜馬民主抗争)について責任を追及すると、車智澈も追従して、KCIAの無能振りを叱責した。叱責は長時間に及んだ。

18時50分頃、歌手の沈守峰と大学生兼モデルの申才順が入出し、朴の両側に座った[11]。19時のテレビニュースで挿橋川防波堤の竣工式が映し出され、会話はしばし中断された[11]

19時、一息ついた儀典課長の朴善浩は食堂横の待機室に行き、警護室警護処長の鄭仁炯(チョン・イニョン)と警護副処長の安載松(アン・ジェソン)と気楽に雑談を交わした。鄭仁炯とは海兵隊幹部候補生の同期だった。オリンピックの射撃選手である安載松は海兵隊の後輩だった[11]

19時10分頃、金は中座した。敷地内にあるKCIA事務所に行き、書架に隠していたワルサーPPKをズボンのヒップケットに差し込んだ[11][2]。金は旧館前の芝生で朴善浩とKCIA部長随行秘書官の朴興柱(パク・フンジュ)を呼び寄せた。朴興柱は陸軍大佐であったが前年から金の随行秘書官を兼務していた。金は二人に対し、銃声が聞こえたら控え室の大統領府警護員(車の部下)を射殺するよう指示した[11][17]。ほどなくして金は晩餐会場に戻った。

19時20分頃、竣工式に関するニュースが終わると朴大統領はテレビを消させた。沈守峰は待機室からギターを持ってきて「その時その人」と「涙に濡れた豆満江」を歌い、車智澈を指名した。車は数曲歌った[21]

再び政治の話が始まると、KCIAの失態に話が及んだ。19時40分頃、金は「閣下、こんな虫けらのような奴を連れて、政治がちゃんとできますか?」と叫び[注 4]、車に向けてワルサーPPKを1発発砲した。右手首に貫通銃創を負った車は室内のトイレに逃げ込んだ。これを見た朴大統領が「何をしている?」と叫んだところ、金は「おい、お前も死んでみろ」と言い[22]、立ち上がりながら向かい側の朴大統領の胸元を撃った[1]。朴大統領は音もなく横に倒れた。金は逃げた車に向けてさらに引き金を引いたが不発だった。

待機室にいた朴善浩、鄭仁炯、安載松は銃声を聞き、互いに顔を見合わせた。朴善浩は素早くS&W M36を抜き、鄭と安を狙って「殺し合うのはよそう」と叫んだ。朴は流血を避けたいと考えたが、安が銃を抜くと安に発砲、拳銃に手を伸ばした鄭に対しても発砲し、2人を射殺した。このとき室内の電気が消えた。銃声を電線のスパイク音と勘違いした地下室の配電工が電源を切ってしまったためであった[23]。朴興柱もほかのKCIAの2人とともに待合室に侵入、残っていた警護員のうち2人を射殺し[24]、別の警護員1人と料理人、運転手の3人を負傷させた[25][26]

晩餐会場を出た金は朴善浩からS&W M36を借りると再び会場に戻った[1][4]。まず棚を盾にしようとした車の腹部に1発銃撃して致命傷を与え、そして朴大統領の側頭部にとどめとして1発銃撃した。朴大統領は病院に搬送されたが、19時55分に到着した際にはすでに絶命していた[27][28]。金桂元、沈守峰、申才順の3人は難を逃れた。

この日の宮井洞には、金の招待によって陸軍参謀総長鄭昇和大将が大統領一行とは別に訪れていた。しかし、大統領の接待をしなくてはならなかった金は、部下である第二次長補の金正燮に、宴会場とは別の部屋で鄭の相手をさせていた。金は、自分が射殺犯であることを隠して鄭のもとを訪れ、鄭や朴興柱らを伴って現場を離れたが、自らの牙城である南山のKCIA庁舎ではなく陸軍本部に向かい、鄭昇和陸軍参謀総長に戒厳令の布告を迫った。しかし、軍上層部にそれほどのパイプもない金の説得は無為に終わった。

事件後

緊急国務会議で逮捕令が出され、10月27日0時40分に金載圭は大統領殺害犯として国軍保安司令部により逮捕された。憲法第48条の規定に基づき、崔圭夏国務総理は大統領権限代行に就任した。崔圭夏は27日午前4時をもって済州道を除く全国に非常戒厳令を布告した。戒厳司令官に鄭昇和陸軍参謀総長を任命した[29]

朴正煕の訃報は、北朝鮮との対峙を続けている韓国では防衛上の見地からすぐには報じられず、その結果アメリカでの報道が先行したため、アメリカに友人・知人がいる韓国人は、いち早く大統領の死を知ることとなった。

捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した国軍保安司令官の全斗煥陸軍少将によって進められた。この事件により、国軍保安司令部の司令官で戒厳司令部合同捜査本部長に任命された全斗煥と、参謀総長兼戒厳司令官の鄭昇和が政府の実権を掌握した。

11月26日、金載圭は軍法会議に起訴された。

朴正煕の後任となる第10代大統領には、大統領権限代行となった崔圭夏が統一主体国民会議での選挙によって選出され、12月6日に就任した。崔圭夏は大統領権限代行を務めていた時より、早期の憲法改正及び大統領直接選挙による民主化を国民に約束しており、実際に大統領緊急措置の一部解除やそれによる政治犯釈放、金大中の自宅軟禁解除などを実施し、これにより「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが到来することとなる。

しかし合同捜査本部長としての権限を活用し、政権の実力者としてその権勢を徐々に増していく全斗煥を、あくまでも軍の中立性を保とうとする鄭昇和は快く思わず、加えて全斗煥を中心とする軍内秘密結社「ハナフェ」が軍内の主要役職を独占していることを問題視して解体しようとしたことで、全斗煥と対立していくこととなる。こうした状況に対し、全斗煥らハナフェのメンバーは先手を打つことを決めた。

12月12日夜、全斗煥やその同期である盧泰愚などのハナフェ・メンバーは首都警備司令部第30警備団司令部に集結して軍事反乱を開始し、鄭昇和は事件当時現場に居ながら事実確認をしなかったことが弱みとなって大統領殺害の共犯容疑をかけられ、合同捜査本部に逮捕されてしまう。

軍部に疎く非常事態の収拾能力を持たなかった崔圭夏はこの動きを黙認せざるを得ず、翌1980年にかけて全斗煥らハナフェを中心とした「新軍部」になし崩し的に実権を奪われ、第四共和国体制の終焉、第五共和国体制の成立へと繋がっていった。

1979年12月、共犯容疑をかけられた金桂元死刑を宣告されたが[30]、翌1980年、管轄官確認過程で無期懲役に減刑された(1982年に刑執行停止で釈放)。

1980年1月28日、金載圭は内乱目的殺人および内乱未遂罪により死刑判決を受けた。同年5月24日にソウル拘置所で絞首刑に処された。

事件関係者

朴正煕と陸英修の墓

宴席の出席者

  • 朴正煕 - 大韓民国大統領。
  • 車智澈 - 大統領府警護室長。
  • 金載圭 - 韓国中央情報部長。大統領と警護室長を射殺。のちに絞首刑。
  • 金桂元 - 大統領府秘書室長。事件目撃者。共犯容疑で逮捕。
  • 申才順 - 大学生、モデル。事件目撃者。
  • 沈守峰 - 歌手。事件目撃者。

被害者

  • 朴正煕…大統領。金載圭によって頭部、胸部に被弾、死亡。
  • 車智澈…警護室長。金載圭によって射殺。
  • 鄭仁炯…警護室警護処長。朴善浩によって射殺。
  • 安載松…警護室警護副処長。朴善浩によって射殺。
  • 金容太…警護室特殊車両運行係長。死亡。
  • 金鏞燮…警護室警護員。死亡。
  • 朴相範…警護室随行係長。重傷。
  • 李ジョンオ…中央情報部宮井洞安家料理士。重傷。
  • 金勇南…中央情報部宮井洞安家運転士。重傷。

犯人

30名を越える大弁護団が結成され、ロサンゼルスや国内の大学で助命運動が起こった。処刑後は、当局により墓碑の建立も禁じられた。

  • 金載圭 - 中央情報部長。主犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 朴善浩 - 中央情報部儀典課長。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 朴興柱 - 中央情報部部長随行秘書官。陸軍大領(大佐)。共犯。1980年3月6日銃殺刑。唯一の現役軍人だった彼のみ軍法で裁かれ、他の共犯者よりも早く刑が確定、執行されている。
  • 李基柱 - 中央情報部宮井洞安家警備班長。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 柳成玉 - 中央情報部儀典課長車運転士。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 金泰元 - 中央情報部宮井洞安家警備員。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 劉錫述 - 同上。共犯。懲役3年。
  • 徐永俊 - 同上。共犯。不起訴。

共犯容疑をかけられた人物

  • 金桂元 - 大統領府秘書室長。終身刑を宣告されたが、1982年に執行停止で釈放、1988年2月に特別赦免・復権で刑執行が免除されて公民権を回復した。
  • 鄭昇和 - 陸軍参謀総長(陸軍大将)。事件後戒厳司令官を兼任するが、全斗煥らハナ会メンバーによる粛軍クーデターにより共犯容疑をかけられ逮捕。1980年に軍法会議にかけられて懲役10年を宣告された他、大将から二等兵に降格させられた上で予備役編入させられるが、執行猶予で釈放された。その後名誉回復がなされ、階級も戻されている。
  • 金正燮 - 中央情報部第二次長補。

殺害動機

釜馬民主抗争の収拾に対する政権内部の軋轢などが事件を引き起こした原因の一つとされている[31][32]

金載圭本人は裁判において「民主主義回復のための革命」である旨の動機を述べた[33]。同じく殺害された車智澈警護室長については「率直に言うと、ついでにやっただけで...」と述べた。

車智澈は国軍指揮体系や行政指揮体系を無視し、軍団長級の中将を警護室次長につけ、師団兵力を警護室に配置させることを国連軍司令官と陸軍参謀総長に要求した。さらに戦車とヘリコプター、重火器を備えた第30警備団4個大隊を麾下に置いた[34]。朴正熙は車からの提案を受け入れ、放任した。金載圭が車の越権行為をとがめると、車は「閣下がすなわち国家だ」と述べ、自身の地位を守ろうとし、朴は車の前で金をたびたび叱責した[34]。当時の国軍による事件調査報告では、車に対する不満、職務を満足に遂行できていないことへの大統領からの叱責などにより、自らの地位が脅かされることを恐れた末の、個人的な恨みによる犯行とされた。

1980年1月28日、金は死刑判決を受けるが、この日自身の弁護士に対し、「崔太敏崔順実の父親)の不正疑惑、崔太敏と朴槿恵の関係性についての報告を朴大統領が聞き入れなかったこと」が殺害原因の一つであると話した。そして控訴審でもその旨を主張した[35][36][37]

当時、韓国政府は極秘裏に核兵器開発計画を進めており、アメリカ政府の怒りを買っていた(当時のカーター政権と朴政権との関係は様々な問題で最悪の状況だったと、後に金桂元は雑誌のインタビューで証言している)。このため、暗殺にアメリカ中央情報局(CIA)が関与したとする見方もある[要出典]。いずれにしても、朴大統領の暗殺によって韓国の核兵器開発計画は挫折した。

関連作品

ストーリーに朴正煕暗殺事件を取り入れた作品として、映画『民族と運命朝鮮語版英語版』や『ユゴ 大統領有故』『大統領の理髪師』『1979世界大血案(日本未公開)』、ドラマ『第4共和国』『第5共和国』がある。また、粛軍クーデターを描いた『ソウルの春』は、朴正煕暗殺事件直後、大韓民国陸軍陸軍本部に将官達が緊急招集され、国務総理から朴正煕の死を告げられる場面から始まる。

他に小説・漫画『気分はもう戦争』(矢作俊彦、漫画:大友克洋)にも朴正煕の暗殺シーンのコマがある。『ジェネシスを追え』で知られるスティーヴ・シャガンの小説『円環 ザ・サークル』は、米国情報機関の関与を絡めたスリラーだった。

2020年には、金忠植によるノンフィクション「実録KCIA『南山と呼ばれた男たち』」を原作に、イ・ビョンホン主演による映画『KCIA 南山の部長たち』が韓国で公開された(ただし、内容については事実を基にしたフィクションとしている)。

2024年8月14日、暗殺事件被疑者の裁判を、唯一の軍人被告(朴興柱がモデル)の弁護を担当した弁護士を通じて描く『大統領暗殺裁判 16日間の真実朝鮮語版』が公開された(こちらも事実を基にしたフィクションという扱い)[38]

2026年5月20日、ドキュメンタリー映画『1026: 새로운 세상을 위한』(「1026: 新しい世界のための」という意味)が公開された。一部再現ドラマを含む[39]

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI