1952年の松竹ロビンス

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オーナー 田村駒治郎
経営母体 田村駒(スポンサー:松竹
1952年の松竹ロビンス
成績
セントラル・リーグ7位
34勝84敗2分 勝率.288[1]
本拠地
都市 京都府京都市
球場 衣笠球場
球団組織
オーナー 田村駒治郎
経営母体 田村駒(スポンサー:松竹
監督 新田恭一
« 1951

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1952年の松竹ロビンスでは、1952年シーズンの松竹ロビンスの動向をまとめる。

この年の松竹ロビンスは、新田恭一監督の2年目のシーズンであり、このシーズン終了後、大洋ホエールズと合併したため、松竹ロビンスとしての最後のシーズンである。

シーズン開幕前

当年及び近年のシーズン成績
成績 リーグ 平均得点 打率 本塁打 本塁打率 盗塁 防御率 平均失点 開幕時監督
1952 レギュラー敗退7位34842.288.4.78新田恭一
1951 レギュラー敗退4位53575.482.5.39新田恭一
1950 日本シリーズ敗退優勝98354.737.3.82小西得郎
1949 レギュラー敗退8位52810.391.5.60石本秀一
1948 レギュラー敗退6位61745.452.4.19長谷川信義
1947 レギュラー敗退7位50645.439.3.55藤本定義
1946 レギュラー敗退7位42603.412.4.12藤本定義
1945 太平洋戦争の戦況悪化により休止
1944 レギュラー敗退5位12221.353.3.77坪内道典
1943 レギュラー敗退4位41367.532.2.08竹内愛一
1942 レギュラー敗退5位49506.495.2.28竹内愛一

シーズン開幕前、リーグは代表者会議で勝率3割を切ったチームには処罰を与えることを決定した。これは、1950年オフに西日本パイレーツが1年のみの活動を終えて西鉄クリッパーズと合併しセントラル・リーグから脱退して以来[注 1]、リーグ所属チームが奇数の7チームとなり、日程が組みにくかったことから、チームを減らすべきであるという論調が強く、弱いチームを排除することにより、チーム数を偶数に戻すことを念頭に置いた決定であったと考えられている[2]。ただし、開幕前の時点では2シーズン連続最下位、かつ前年に一度は大洋との合併が報じられた広島カープが処罰対象になるという予想が強く、広島県内でも「カープの抹殺」という見方をされていた。しかし、松竹もオーナー企業である商社の田村駒の経営が悪化し、2年前の1950年のリーグ初代王者になった時の主力選手である真田重男岩本義行大島信雄の放出を強いられて弱体化が明確になっていた。

前半戦

シーズンが開幕すると、松竹は3月21日の開幕戦(呉市二河野球場)で広島の高卒新人太田垣喜夫に完投勝利を許し、同試合を含むロード広島4連戦を1勝2敗1分とした後、続く25日の読売ジャイアンツ(巨人)戦(徳島西の丸運動場[注 2][3])を日本プロ野球(NPB)史上初の「両チーム毎回安打」[注 3][3]の末に13-11で制すると同カード3連戦を2勝1敗と勝ち越し、3月は4勝5敗1分の勝率.444とまずまずの出だしとなったものの、4月26日からの名古屋戦3連戦全敗(3タテ)を皮切りに5月5日の大阪戦(阪神甲子園球場)まで7連敗、2連勝をはさんで5月14日の名古屋戦(大阪球場)からの8連敗となり、5月24日の国鉄スワローズ戦(大阪)の敗戦により初めて勝率3割を下回った。そして29日の名古屋戦(大阪)でこれを止めた後、5月31日の大洋戦(大阪)から再び7連敗と長い連敗が続き、3度目の7連敗となった6月7日時点では48試合で12勝35敗1分、勝率.255となった。この時点で松竹は最終勝率3割達成のためには残り72試合で24勝48敗、勝率.333が必要となっていた。ただし、広島も松竹以上に敗北を重ね、同日時点で39試合8勝29敗2分、勝率.216と極度に低迷していたため、処罰によって消滅する危険性があるのはまずは広島、あるいは松竹という状況になっていた。ここで松竹は6月21日(川崎)と22日(ダブルヘッダー、宇都宮常設)の大洋戦3連勝で全勝し[注 4]、前半戦終了時点では61試合で19勝41敗1分、勝率.317となっていた。これは2年前の「水爆打線」の中核でありチームに残留していた小鶴誠の活躍が大きく、前半戦の12本塁打は前年の24本塁打に並ぶペースだった。

後半戦の失速

しかし、後半戦59試合のノルマが17勝42敗、勝率.288だった松竹は7月に国鉄や大洋に勝ち越したものの、7月26日の巨人戦(大阪)で17失点の上に大友工ノーヒットノーラン[注 5]を許す大敗を喫してからは対広島3連戦を含む7連敗となり、8月8日の大阪戦(大阪)にはエースとなっていた小林恒夫の5安打完封勝利で連敗を止めたものの、翌9日の大阪戦(大阪)から24日の巨人戦(高崎市城南)まで引き分けなしの10連敗を記録し、7月26日から8月24日までの合計で1勝17敗の惨状となった。その理由は極端な貧打で、この約1ヶ月間、松竹は4点以上取った試合が一つも無かった。小鶴は3番として試合に出続けていたが、同期間の大半を含めて32試合本塁打がなかった。その間、松竹は6位を維持していたものの、8月23日は最下位(7位)の広島に続いて松竹も2ヶ月ぶりに勝率3割を割り込んだ。8月30日の広島戦ダブルヘッダー(大阪)では第1戦に相手のエースだった長谷川良平から6点を奪い、島本和夫が9回3失点で完投して7月23日以来の勝利投手となり、チームの連敗を10、同カードでの連敗も5で止めたものの、月間成績は2勝14敗となり、試合消化の遅かった広島には月末で2ゲーム差の劣勢となっていた。

9月2日、松竹は名古屋戦(中日)で破れ、国鉄に連勝した広島に勝率でも抜かれて最下位に転落した。4日のダブルヘッダー(広島県総合)となった広島との直接対決は1勝1敗となり、その後の大洋戦をはさんで中9日、17日と18日の2日連続ダブルヘッダー(ともに大阪)となった広島との再対戦では1勝2敗1分となった。勝った2試合(4日第1、17日第1)はいずれも小林の完封勝利だった。この時期も松竹打線の貧打は変わらず、7日の大洋戦第1試合(西京極球場)では同年の盗塁王となる金山次郎が延長20回のサヨナラ三塁打を放って2-1と勝利したものの、この試合を含む同月内の12試合で3点以上取ったのは1試合しかなく、同月は3勝8敗1分、通算は106試合で30勝74敗2分の勝率.288で勝率3割を切る状況が続いた。9月28日の国鉄とのダブルヘッダー(川崎球場)では小林と島本の2枚看板を先発させたがともに敗れて5連敗となり[注 6]、試合のなかった9月30日には広島に抜かれて再び最下位へ転落した。この時点で、松竹が最終勝率3割を達成するためには残り14試合で最低でも6勝8敗(勝率.429)が求められることとなった。

「処罰」の確定

10月2日(ダブルヘッダー)と3日にはホームとなる藤井寺球場で広島との最後の3連戦が行われた。2日の第1試合では先発投手の片山博が1回の1アウトしか取れずに5安打を浴びて交代、しかも5番三塁手の三村勲が試合途中で交代して残り2試合を欠場するなどの状況となり、この試合を2-12で落とした。第2試合では3月25日以来実に103試合ぶりとなるチーム9得点の援護を受けた小林が2失点での完投勝利を収めたが、3日は杉浦竜太郎に1安打完封を許して敗れた。3連戦全体では1勝2敗となり、広島の6位確保と最終勝率3割到達に道を開くこととなった[注 7]。ただし、この時点では松竹も残り11試合を5勝6敗(勝率.455)で行けば最終勝率3割を達成できていたが、5日の名古屋ダブルヘッダー2試合(中日球場)と6日の国鉄戦(中日)、中2日開けて再び国鉄と西京極で対戦した9日の2試合と10日の第1試合で全敗し、3日の広島戦から続けてシーズン6度目の7連敗となった。これで松竹は残り5試合全勝がノルマとなり、10日の第2試合では小鶴の17号本塁打や片山博の国鉄打線を完封などで勝利したものの、最後に残ったロード下関市営球場での大洋4連戦では10月12日の第1戦で大洋のエース高野裕良に4安打で完封負けを喫し、残り3試合で最終勝率3割の可能性が消滅した。チーム最終戦となった13日の第2戦では三村が5打点を挙げ、これが本人の現役最終登板ともなった井筒研一が2年ぶりの勝利を1失点完投で飾ったが、最終成績は最終勝率3割に2勝分届かない34勝84敗2分、勝率2割8分8厘の最下位でシーズンを終えることとなった。

対戦成績では特に広島との直接対決で5勝13敗2分に終わったのが最後に響いた[注 8]。巨人とは3月と4月の3連戦を合計3勝3敗で終えたものの、最後は大友のノーヒットノーランを含めカード10連敗で4勝16敗となり、名古屋とは更に悪い3勝17敗に終わった。両チームとの対戦では、シーズン後半戦には1勝もできなかった(巨人9敗、名古屋8敗)。また、同じ関西を本拠地とする大阪戦や強豪球団の巨人戦では大阪球場が1万人を超える公式観客数を記録して賑わったが、基本的には対戦相手の人気に依存する体質が強く、特に平日開催となった9月の広島戦では大阪球場で300人(17日)と500人(18日)、10月の広島戦では藤井寺球場ではあったもののわずかに200人(2日)と120人(3日)、最後のホームゲームとなった国鉄戦でも西京極球場で2000人(9日)と500人(10日)など、チームの存亡がかかった大一番でも観客動員数が極めて少ないという不人気ぶりを脱却できず、同年から始まったフランチャイズ制による球団収入確保の恩恵が受けられなかった。

1952年の松竹ロビンスの月別勝敗表

各月内成績 各月末時点の通算成績
勝率 勝率 松竹との

ゲーム差

特記事項
3 10 4 5 1 .444 10 4 5 1 0.444 5 0.5 21-23日に広島との開幕4連戦で1勝2敗1分
4 16 5 11 0 .313 26 9 16 1 0.360 6 1.5 23日に小林恒が同月3勝目、26日-5月5日で7連敗
5 16 3 13 0 .188 42 12 29 1 0.293 6 1.0 14-28日に8連敗、24日に初めて勝率3割を割る
6 19 7 12 0 .368 61 19 41 1 0.317 6 1.0 7日にシーズン3度目の7連敗、21-22日に大洋を3タテ
7 17 6 11 0 .353 78 25 52 1 0.325 6 0.5 26日の巨人戦に大友のノーヒットノーランで敗戦
8 16 2 14 0 .125 94 27 66 1 0.290 7 -2.0 月内2勝のみ、9-24日にシーズン最長の10連敗
9 12 3 8 1 .273 106 30 74 2 0.288 7 0.0 28日に5連敗、30日に最下位転落、残14試合で6勝必須に
10 14 4 10 0 .286 120 34 84 2 0.288 7 -3.5 3-10日に7連敗、12日に最終勝率3割未満確定(残3)


大洋との合併

シーズン終了後、松竹への処罰の履行が問題となり、様々なチームとの合併案が持ち上がったが、最終的に松竹は大洋との対等合併を合意し、翌年から「大洋松竹ロビンス」と名称変更することとなった。形式的には対等合併であるものの、各種記録と球団の系譜を大洋側の存続としたことと、1955年シーズンから松竹が球団経営から撤退し、「大洋ホエールズ」に名称を戻していることから、実質的には吸収合併であり、セントラル・リーグ初代優勝からわずか2年で球団が消滅することとなった。また、赤嶺昌志の影響が強かった小鶴・金山・三村・片山の4人が揃って広島へ移籍し(赤嶺旋風)、そのまま新球団の洋松ロビンスに参加した旧松竹の選手と大きく二分される結果となった。

チーム成績

レギュラーシーズン

開幕オーダー
1 金山次郎
2 綱島新八
3 小鶴誠
4 三村勲
5 吉田和生
6 小林章良
7 宮崎仁郎
8 目時春雄
9 荻原隆
1952年セントラル・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績
1位 巨人-- 巨人-- 巨人-- 巨人-- 巨人-- 巨人-- 巨人--
2位 名古屋2.5 大洋3.0 大阪5.5 大阪3.0 大阪6.0 大阪5.5 大阪3.5
3位 大洋4.0 大阪3.0 名古屋5.5 名古屋6.5 名古屋7.0 名古屋7.0 名古屋7.0
4位 大阪4.5 名古屋5.0 大洋12.5 大洋12.5 大洋18.5 大洋21.5 大洋25.0
5位 国鉄8.0 松竹18.0 国鉄21.0 国鉄25.0 国鉄31.5 国鉄31.5 国鉄33.0
6位 松竹9.0 国鉄18.5 松竹24.5 松竹29.0 広島37.5 広島43.5 広島44.5
7位 広島10.5 広島19.0 広島25.5 広島29.5 松竹39.5 松竹44.0 松竹48.0
1952年セントラル・リーグ成績
順位球団勝率
優勝読売ジャイアンツ83370.692--
2位大阪タイガース79401.6643.5
3位名古屋ドラゴンズ75432.6367.0
4位大洋ホエールズ58620.48325.0
5位国鉄スワローズ50700.41733.0
6位広島カープ37803.31644.5
7位松竹ロビンス34842.28848.0

[1]

できごと

選手・スタッフ

オールスターゲーム1952

表彰選手

脚注

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