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ビル・ワイマン

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ビル・ワイマン(Bill Wyman, 1936年10月24日 - )は、イングランド出身のロックミュージシャンベーシスト音楽プロデューサー

出生名 ウィリアム・ジョージ・パークス
生誕 (1936-10-24) 1936年10月24日(89歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン ルイシャム
概要 ビル・ワイマン, 基本情報 ...
ビル・ワイマン
ビル・ワイマンズ・リズム・キングスのミデルブルフ公演にて(2009年1月)
基本情報
出生名 ウィリアム・ジョージ・パークス
生誕 (1936-10-24) 1936年10月24日(89歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン ルイシャム
ジャンル ロック
ブルース
職業 ミュージシャンベーシスト音楽プロデューサー
担当楽器 ベース, ピアノ, ヴォーカル, ギター
活動期間 1962年 - 1993年
1997年 - 現在
レーベル ローリング・ストーンズ・レコード
アトランティック・レコード
A&Mレコード
Victor
Proper Records
BMG
ロードランナー・レコード
Koch Records
Edsel Records
共同作業者 ローリング・ストーンズ
ビル・ワイマンズ・リズム・キングス
クリフトンズ
公式サイト www.billwyman.com
著名使用楽器
Framus Star Bass
Vox Teardrop bass
Fender Mustang Bass
スタインバーガー
Travis Bean
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1962年から1993年までロック・バンドローリング・ストーンズベーシストだったことで最も有名である。ソロ活動においてもヒット曲を送り出している。

ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第23位に選ばれている[1]

来歴

生い立ちと黎明期の活動

ワイマンはレンガ職人の父・ウィリアム・パークス(1914〜?)と母・モリーとの間に生まれる。出生名はウィリアム・ジョージ・パークス(William George Perks)。1本の歯ブラシを家族全員で使い回さなければならないほど暮らしは貧しかった。父・ウィリアムは仕事にあぶれることが多く、6人兄妹の長男である彼を度々折檻した[2]

ストーンズのメンバー中、唯一[注 1]戦前に生まれたワイマンは戦時中の記憶も鮮明に残っており、空襲から逃れるために防空壕に逃げ込んだり[3]同級生を空襲で亡くしたりといった経験もしている[4]。少年時代は成績優秀で、1947年に地元でも有数のグラマースクール奨学金をもらって進学した[5]。在学中にクラリネットピアノのレッスンを受けたり、聖歌隊で歌うなどの経験もしている[6]。しかし14歳頃から落ちこぼれるようになり、何に対しても反抗的になってしまった[7]1953年3月に父・ウィリアムが自分の稼業である賭け屋の仕事を手伝わせるために彼の意思を無視して勝手に退学届けを提出したので、結局グラマースクールを中退させられてしまう[8]

少年時代の音楽の趣味はリズム感のあるもので、ゆったりとした曲は好きではなかった[9]1951年レス・ポールマリー・フォードの「How High the Moon」が発表されるとたちまち夢中になり、この曲がきっかけでギターの音に惹かれるようになった[10]1953年7月には祖母にも協力してもらい、初めてのレコードとレコード・プレーヤーを購入する。買ったレコードはポールとフォードの「The World Is Wating For The Sunshine」だった[11]

1955年1月、18歳になると徴兵され、希望した空軍(RAF)に配属された[12]。イギリスにおける徴兵制度1960年に廃止されたため、ストーンズのメンバーで兵役を経験したのは彼一人[注 2][13]である[14]。同年7月には当時西ドイツオルデンブルク基地に配属される[15]。ここの自動車輸送部門のサッカーチームで、ステージネームの由来であるリー・ワイマンと出会っている[16]。基地内ではラジオを聴くことが許されており、彼はエルヴィス・プレスリーに参っていた[17]

1958年2月に除隊。復員後は食肉輸入業社に就職した[18]1959年10月、一人目の妻であるダイアン・モーリン・コイと結婚[19]1960年12月、音楽が趣味である職場の仲間に影響され、中古のエレキギターを買い、仲間達とポップグループを結成する[20]。グループ名も決めないうちに1961年1月に初めてのステージを踏み、当時の最新ヒット曲を披露した[21]。やがてグループ名をクリフトンズ(The Cliftons)と決め、セミプロバンドとして活動を本格化させる[22]。同年8月、妻ダイアンと訪れたダンスホールで演奏していたバロン・ナイツというバンドのベースの音に衝撃を受け、ギターからベースへの転向を決意。当初は手持ちのギターにベースの弦を張ろうとしたが失敗し、中古のベースを購入している[23]。クリフトンズはクラブなどで定期的にギグをこなしていたが、プロモーターからまともに出演料が支払われないことによる財政難や、主要メンバーが脱退したことが要因となり、1962年秋頃には解散状態となった[24]

ローリング・ストーンズ加入

左からワイマン、ストーンズの初代ギタリストであるブライアン・ジョーンズ(1965年5月)

同年12月初旬、クリフトンズのバンドメイトだったトニー・チャップマン(Tony Chapman)から、「ローリング・ストーンズというバンドのベースが空席だから入らないか」と誘いを受ける[24]。チャップマンは同年6月にクリフトンズのメンバーには内緒でストーンズにドラマーとして加入していた[25]。ワイマンはまずイアン・スチュワートを紹介され、12月7日、リハーサル中だったストーンズのメンバーと初めて対面する。第一印象ではミック・ジャガーは気さくだったがキース・リチャーズブライアン・ジョーンズはよそよそしかった[26]。だが彼が自分の大きなアンプを持ち込むと状況が一変した。当時ストーンズは小さなアンプしか持っておらず、リチャーズは「あんな大きなスピーカーは初めて見た」とその時の興奮を語っている。またワイマンが飲みものやタバコを奢ると、飢えていた彼等は飛びついてきた。この気前のよさが彼をストーンズに加入させる一押しとなった。ただしスチュワートは「ビルがアンプをいくつか持っていたからグループに入れたっていう話はまるっきり嘘じゃない。だけどとにかくビルは上手かったんだ」と、あくまで演奏技術を買われての加入だったことを強調している[27]

メンバーは揃ったが、ジャガーたちはチャップマンのドラマーとしての技量に疑問を抱いていた。彼のドラミングはリチャーズから「曲のはじめと終わりでスピードが3倍速くなるか4倍も遅くなるか」と酷評されるほどであった[28]1963年1月、ストーンズは複数のバンドを掛け持ちしていたチャーリー・ワッツの引き抜きに成功し、チャップマンに解雇を宣告した。ワイマンは激怒したチャップマンに共に辞めようと持ちかけられたが、それを断わりストーンズに残ると宣言した[29]。彼は後に「チャーリーが入った途端、俺は前よりもベースが上達した」と語り[30]、チャップマンも「チャーリーの方が俺よりもずっと上手い」と素直に認めている[31]

同年1月10日、ワイマンはストーンズ加入後初めてのマーキー・クラブでのギグで、英空軍時代の友人リー・ワイマンの姓を芸名として使用した。彼は「リー・ワイマン」と紹介され、以降ミュージシャンとしては本名のウィリアム・パークスを名乗らないことにした[32]

ストーンズのメンバーとして

ストーンズ時代の初期(1965年6月)

1963年5月にストーンズはレコード・デビューを果たす。妻子のいたワイマンはデビュー後もしばらく会社勤めを続けていたが、ストーンズの活動との並行に限界を感じ、同年8月までに退職しプロのミュージシャンに転向した[33]。またファンクラブ会報のプロフィールに1941年生まれと記載して、年齢を5歳若くごまかした[34]。この偽りの設定は1969年に妻ダイアンとの離婚をプレスに報じられた際に本当の年齢が明かされるまで守られた[35]1964年6月に改姓届けを出してワイマンを本名にした

最年長で寡黙なイメージのワイマンは「サイレント・ストーン」と渾名された。ストーンズは当初からジャガー、リチャーズ、ジョーンズの「はね回り組」と、ワイマンとワッツの静的なリズム組に分かれており、ワイマンも著書で「俺は自分が"パフォーマンス組"でないと思ってたし、音楽がきちんとしていれば満足だ。それが本来のベーシストの役割だ」と綴っている[36]。だが初代マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムの戦略によりバンドがジャガー/リチャーズと他の3人とで分け隔てられて主導権が前者に握られ、3人の立場はより軽んじられるようになってしまった。メンバー間の格差はクリエイティブな面のみに留まらず収入の面にも表れ、ストーンズの内部には極めて不公平な勢力図が出来上がっていた[37]。ワイマンは一度、メンバー間の所得格差を是正すべくジョーンズとワッツに自分たちの権利を守ろうと持ちかけ、ミーティングでオールダム、ジャガー、リチャーズに印税を均等に分けるよう交渉した。しかし折衝している途中でジョーンズとワッツが援護をあきらめたので、結局自分一人がジャガーたちからの罵倒を浴びるだけに終わった[38]

ワイマンのストーンズに対する発言には冷めたものが多く、「ロックを始めた頃はせいぜい2、3年、長くて5年ぐらいしか続けないだろうと思ってた。それに金のためにやってたんだ」と発言した[39]。そんな彼をジャガーはやる気がないと批判し[40]、プロデューサーのジミー・ミラーも「ビルが自分からアイデアを出すことは少ない」とインタビューで語ったことがあるが、彼はこれを否定し「俺はいつだって曲の構成にはアイディアを出してきた。ベーシストとしても別の面でもだ」と主張している[41]

1967年、アルバム『サタニック・マジェスティーズ』で初めて彼の書いた曲「イン・アナザー・ランド」が採用され、自らリードボーカルを担当した。同曲はビル・ワイマン名義でシングルカットされ[42]、全米チャートで87位にランクインしている。ストーンズの楽曲で彼の名が作者としてクレジットされているのは、同曲と1975年の未発表曲集『メタモーフォシス』に収録された「ダウンタウン・スージー」(録音は1969年)のみである。

ソロ活動

ストーンズ時代の中期(1975年)

ストーンズでの不遇を解消するかの如く、彼は精力的にソロ活動を行った。彼は既に1960年代から他のアーティストのプロデュースを手がけていた。1964年ピーター・バーデンスミック・フリートウッドが在籍するチェインズ(The Cheynes)[43]のプロデュースおよびシングルB面曲「Stop Running Around」を提供した[44]のが最初のソロでの仕事だった[45]。1965年にはジ・エンド(The End)をプロデュースしてデビューさせ、1枚のシングルをスペインで4位につけるヒットを送り出している[46]。さらにジ・エンドの元メンバー3名が1969年に結成したTucky Buzzardのアルバムのプロデューサーも務めた。

1974年、初のソロアルバム『モンキー・グリップ』を発表。ストーンズのメンバーで最初にソロでスタジオアルバムを制作した。全曲で自らボーカルを取り、ゲストにストーンズとも関係の深いレオン・ラッセルドクター・ジョンベティ・ライトといったアーティストを迎えた[47]。同アルバムは全英39位にランクインした。2年後の1976年には2枚目のソロアルバム『ストーン・アローン』を発表。総勢40名以上という前作以上に豪華なゲストを迎えた意欲作だった。周囲からの評判も上々だったが、レコード会社がまともなプロモーションを行わなかったこともあり[47]、チャートの100位以内には届かなかった。以降、しばらくソロ活動から遠ざかる。

1980年、再びソロ活動に着手する。自宅のレコーディングスタジオで電子音楽の実験を始め、出来上がった音源を映画プロデューサーのジャック・ウィナーに持ち込み、イギリス映画『エメラルド大作戦英語版』(Green Ice)の音楽として採用された[48]サウンドトラック盤は同映画が公開された1981年ワイマンの名義で発表された

曲が次々生まれてくる好状況に、彼は3枚目のソロアルバムの制作を開始。ソロ活動のためにA&Mレコードと契約を結ぶ。映画『エメラルド大作戦』のサウンドトラックに提供したインストゥルメンタル「Si Si」に歌詞をつけた「シー・シー・ロック・スター」は全英14位という大ヒットとなる。これはストーンズのメンバーのソロシングルの中でも最大のヒットである[49]1982年、「シー・シー・ロック・スター」を収録した3枚目のソロ作『ビル・ワイマン(旧邦題:カム・バック・スザンヌ)』がリリースされ、全英55位を記録。第2弾シングルの「A NEW FASHION」も全英37位にランクインした。ストーンズとは違う一面をみせた彼の作品は、多くの人々の注目を集めた[49]。同年には単身で来日。ストーンズに加入する前にフェイセズのメンバーとして来日したロン・ウッドを除いて、ストーンズのメンバー中最初に来日した人物となった[50]

ストーンズ時代の後期(1989年6月)

1983年、元フェイセズのロニー・レーンが提唱した『ARMSコンサート』(ARMS Charity Concerts[注 3]にワッツと共に参加。エリック・クラプトンジェフ・ベックジミー・ペイジ3大ギタリストと共演を果たす。1985年、ARMSのためのチャリティー・アルバム『Willie and the Poor Boys』を発表。ワッツやペイジ、ポール・ロジャースアンディ・フェアウェザー・ロウケニー・ジョーンズリンゴ・スターといった豪華なゲスト陣が参加した[51]

1985年、ストーンズが使ってきたモービル・ユニットの所有権を取得し、ユニットを新人バンドに無料で提供する「AIRSプロジェクト」を実施した[52]

1992年、4枚目のソロ・アルバム『スタッフ』を日本限定でリリース。これがストーンズ在籍時に制作した最後のソロアルバムとなった。

ストーンズ脱退と以後の活動

ワイマンは1970年代よりストーンズ脱退を示唆するような発言を度々行っており、1980年のインタビューでもはっきりと「俺はストーンズからリタイアする。他にやりたいことがあるんだ」と宣言している[39]。1980年代半ばにジャガーとリチャーズが衝突してストーンズの活動が停滞すると、普段は不満を外に漏らすことの少ない彼もこの時ばかりはジャガーに対し公然と批判の声を上げた[53]1989年、二人の仲が改善してストーンズが復活した後も、彼の気持ちだけは元には戻ってはいなかった。

1991年、シングル「ハイワイアー」のプロモーションビデオ撮影に無断欠席し、これにジャガーが見切りをつける形となり、脱退が決定的となる[54]1992年暮、ストーンズがヴァージン・レコードと新規契約を結ぶ際に彼はついにサインせず、正式に脱退が決まった。リチャーズやワッツは最後まで彼を説得し、ワッツは「何度も頼んだが気持ちは変わらなかった」と悔しさを吐露しているが[55]、ジャガーは「仕方ないね。新しいベーシストを探さないと」と気にも留めなかった[56]。以後、ストーンズは正式なベーシストを置かず、ダリル・ジョーンズをサポートメンバーに据えて現在に至る。

彼は2013年のインタビューで、脱退を決意したのは1990年の日本ツアーであったことを打ち明けている。その理由について「40年も飛行機に乗っていて、ぞっとするような瞬間も相当経験してきて、日本ツアーでもう飛行機に乗りたくないと決意したんだ。最後のヨーロッパツアーでは僕だけ陸路で移動してたんだよ」と説明している[57]。しかし1990年のツアー終了後に上梓した自伝『ストーン・アローン』には、脱退の決意を窺わせるような記述は見当たらない。ストーンズを脱退したことへの後悔は「全くない」という[58]

ビル・ワイマンズ・リズム・キングス(2009年1月)

しばらくの沈黙の後、1997年ビル・ワイマンズ・リズム・キングスを結成。元ストーンズのミック・テイラージョージ・ハリスンエリック・クラプトンといった豪華ゲストを迎えて[59]R&Bやオールディーズ、スタンダードナンバーのカバーを中心に活動している。これまでに発表した5枚のアルバムのうち、『Groovin' 』(2000年)が全英52位、『Double Bill』(2001年)が全英82位にランクインしている。

2012年、ストーンズの元メンバーで1985年に病没したイアン・スチュワートに捧げられたアルバム『ブギー・4・スチュ』[60]に参加し、3曲でベースを弾いた。この内Watchin The River Flowではストーンズのメンバー4人と21年ぶりにレコーディングで共演した。さらに同年11月に行われたストーンズの50周年記念ライヴでゲストとしてストーンズのステージに立ち、1990年以来、実に22年振りにメンバーと演奏した[注 4]。だがわずか2曲しか参加できなかったのが不満だったと明かし、たった2曲のために渡米する気はないとして[61]、12月のアメリカ公演、さらに2013年から始まったワールド・ツアーには参加していない[注 5]

2015年、全曲新作のオリジナルアルバムとしては32年ぶり[注 6]となる『Back to Basics』を発表。

2016年3月8日、Twitterにて前立腺癌罹患を公表[62]

2019年、彼の人生とキャリアを描いたドキュメンタリー映画『ザ・クワイエット・ワン』が公開された[63]。監督はオリバー・マレー。

2023年、ストーンズの18年ぶりのオリジナル・アルバム『ハックニー・ダイアモンズ』にゲストとして1曲で参加して、11年ぶりに共演した[注 7]

音楽スタイル

演奏

フラマス「5-150 Star Bass」ビル・ワイマン・モデル

ワイマンのベース演奏はソロや派手なフレーズとは無縁だったものの、ワッツと共に「ロック界で最もまともなリズムセクション」と評された[64]。彼は二十歳を過ぎてギターを始めてからベースに転向するという珍しい経歴を持つが、本人は「ベースは俺の性格にも外見にも合っている」と語っている[65]

1967年からは曲によってはリチャーズやミック・テイラーなど他のメンバーにベーシストを代わられてしまうケースもあった。『メイン・ストリートのならず者』(1972年)と『山羊の頭のスープ』(1973年)に至っては、収録曲のうち半数以上で彼以外の人物がベースを弾いている。この理由について本人は1981年のインタビューで以下のように説明した。

俺達はよく互いのパートを代わることが多いが、ベースは代わりが利き易いんだ。チャーリーの代わりは難しい。ミックやキースのパートは奴らが不在でも翌日にオーバーダブできる。でもリズム・トラックはベースとドラムを一緒に録らなきゃならない。だから俺がいようがいまいが、ベーシックトラックを録るには誰かが俺のパートをやらなきゃならないという点で、俺は不利なんだ。誰かが俺のパートをやってしまったら、もう後から差替えは出来ないしね。ビル・ワイマン [66]

ワイマンは自分のパートを録り終えたら他のメンバーが残っていても帰ってしまうことが多かった。その理由を「他の奴の邪魔になるからさ。口出しする奴が多いとろくなことにならない」としている[67]。ただし「悪魔を憐れむ歌」では、彼がスタジオにいたにもかかわらずリチャーズがベースを弾いていた[注 8]。代表曲の一つである「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」のベースもリチャーズが弾いており[68]、ワイマンはオルガンを担当している。曲や歌詞を覚えるのは早かった[69]ため、他のメンバーがベースを弾いた曲でもステージでは難なくそれを再現して見せた。ベースを弾く時は、ネックを垂直に近い角度までに立てて構える。「ネックでスポットライトを遮って客席の女の子の顔が見えやすくなるようにしている」と答えたことがある[70]が、本音かどうかは定かではない。

彼は2010年のインタビューで「私がいた頃はもっと危険で、ゆるい感じの演奏をしていた。今はクリック・トラックに合わせて演奏しているみたいで、機械的だ」と、近年のストーンズを批判している[58]ボブ・ディランは「ストーンズはもう終わってる。ビルがいなければただのファンク・バンドだ」と彼の必要性を指摘している[71]HOUND DOG鮫島秀樹は音楽誌の「ルーディーズクラブ」に寄稿していた連載コラムにて、サポート・メンバーとしてワイマンの後任を務めるダリル・ジョーンズをワイマンよりテクニックのある凄腕のベーシストと認めつつも、ローリング・ストーンズのベースにはワイマンのほうが合っている。と評価している。

元々マルチプレーヤーで、ベースの他にも様々な楽器を担当した。ジョーンズほどではないにせよ、ピアノやギターはもちろん、オートハープヴィブラフォン、「ルビー・チューズデイ」ではリチャーズと二人がかりでコントラバスも演奏した。「ヘヴン」(1981年のアルバム『刺青の男』収録)ではドラムス以外の全楽器を一手に引き受けている。

ストーンズ初期の頃はジョーンズと共にバッキングボーカルを担当しており、1stアルバムのクレジットにも表記されている。本人は「俺はあまり歌いたくなかった」としているが[72]、自作曲の「イン・アナザー・ランド」やソロ作品では自らリードボーカルをとっている。

作曲

上記の通り、ストーンズの全曲中ワイマンの名が作者としてクレジットされているのは「イン・アナザー・ランド」と「ダウンタウン・スージー」の2曲である。彼は自分の曲がほとんど採用されないことについて「ストーンズにあった曲を書かないからな」と語っている[67]。彼は元々ジャガーやリチャーズ、ジョーンズほどのブルース狂ではなく、ストーンズ加入時には「一晩中12小節のブルースなんかやってられるか」とメンバーに意見したこともある[73]。しかしジャガーやリチャーズ同様、チャック・ベリーには強く影響されており、ベリーが主演した映画『ロック・ロック・ロック』(1956年)で「あれほど感動したのは人生で一度きり」というほどの感銘を受け、以降熱心なファンになった[74]

彼によれば、この2曲以外にも、自分やジョーンズは曲のインスピレーションとなるリフやアイディアを多数提供してきた。しかしそれらはクレジットされることはなかった[37]。特に有名な例が「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」で、彼はこの曲の源泉となるリフは自分が作ったと主張している。しかし当時はそれを強く主張しなかったために、今日までこの曲のクレジットはジャガー/リチャーズのままとなっている[75][注 9]。このことを初めて打ち明けたのは1980年だったが[67]、自著「ストーン・アローン」の発表で世間に広く知られることとなった。だがジャガーもリチャーズも彼の主張を否定している[要出典]

人物

現実的で慎重な性格であり、自著にも「俺は整った人生が好きだし、物事をきちんとしておくことが好きだ」と綴っている[76]。ジョーンズは「ビルは誰も知らない新しい顔を常に持ってる男だ。酒はメンバー中一番弱いね。それに一番わかり難い男だ。俺はグループの中でも一番自由奔放で、ビルは正反対のタイプだ。常識派って言うのかな」と語っている[77]。1967年から彼と17年間同棲していたアストリッド・ルンドストロムも「ビルは冷静さを巧みにコントロールして、いつでも感情を抑制していた。人の好き嫌いを表に出さず、彼にいらいらさせられることはまったくなかった」としている[78]

その慎重さから、ドラッグを一切やらなかった[79]。しかしこれが他のメンバーからのからかいの的となってしまい、自分の誕生日パーティーでジャガー、リチャーズ、ミック・テイラーに騙されて、ハシシ入りのケーキを食べさせられ体調を崩したことがある。この経験から一層ドラッグをやるまいという決心が固くなった[80]フランスに移住していた1970年代前半[注 10]は開放感からマリファナに手を出していたものの、ヘロインコカインのようなハード・ドラッグは避けていた[79]1977年トロント滞在中にホテルで禁断症状に襲われたリチャーズを救うため、ロン・ウッドと二人で私服警官の目をかいくぐりヘロインを調達して来た。彼は「こんなことはこの時の1度だけだが、あの時のキースには絶対必要だったのだ」と告白している[81]。麻薬はやらない一方、かなりのヘビースモーカーで、17歳から始めた煙草は1990年の時点で一日約30本も吸っていた[82]2009年になって禁煙した[83]

子供の頃から日記を詳細に書き続け、ストーンズの記録係としても知られた。その日記を元に「ストーン・アローン」や「Rolling with The Stones」といった自伝を数冊出版している。また運動神経が良く、バックギャモン卓球クリケットでプロを相手に勝利したり[84]、演奏中にスモーク弾が投げられた時、それが爆発する前に足で消し止めたこともある[85]。多趣味でも知られ、天文学写真、アマチュア考古学や金属探知も嗜む。フランスに移住していた頃には画家のマルク・シャガールと友人となり[86]、1984年には詩人のアンドレ・ヴェルデ(André Verdet)がシャガールを訪ねて行なったインタビューの写真を撮影して出版[87]に協力した[88][89]。1989年にはロンドンのケンジントンにレストラン「スティッキー・フィンガーズ」を開店するなど、経営者としての顔も持つ[82]

ストーンズのメンバーとの関係

左はミック・ジャガー(1982年6月)

自著に「同じグループのメンバーでなかったらストーンズの連中を友達にすることはなかっただろう」[76]と綴っている。特にリチャーズとは全く反りが合わず、'70年代の頃はほとんど口をきかなかった[90]。本人曰く「あの男は俺とは何もかもが対照的だからね。ストーンズであることを除けばほとんど共通点がないよ。ミックと一緒になってあいつを避けたりもしたね」[67]。その後リチャーズとはウッドの仲裁で仲直りした[91]。彼にはジョーンズが一番の友達で[92]、彼はジョーンズの解雇に最後まで反対した。

彼はジャガー/リチャーズと自分達との処遇の格差について強い不満を訴えていた。彼ら二人には自分が妻子持ちであることさえも馬鹿にされ[93]、「奴らは自分と意見や趣味が異なる人間を受け入れられず、仲間でない人間を敵と考える。実に子供じみている」[94]と批判している。

他のメンバーが自分に合わせてくれるなど望むべくもないため、彼は息子の誕生日でさえも仕事を優先してスタジオに行った。しかしそういうときに限って他のメンバーが来ないということがあり、激怒した彼は以降、時間が来るとスタジオでの仕事からもさっさと帰り、メンバーとの付き合いも止めてしまった[94]

脱退後はストーンズとのメンバーとは何の確執もなく社交的な付き合いを続けているが、ジャガーから伝記を書くために自分の過去について言及していいか尋ねられた際にはきっぱり断っている[95]。また「ストーンズはもう止めるべきだ」とも発言している[96]

女性関係

地味な印象とは裏腹に実はジャガーも顔負けの性豪で、2000人以上の女性と寝たという逸話がある。自伝『Rolling with The Stones』には、認知済み・認知していない子供が複数いることが書かれている。ツアー先ではよく、ホテルの外を取り囲む女の子を窓から吟味して、指名した女の子をルームサービスのごとく部屋に連れ込ませていた。この役割をやらされていた運転手兼ボディーガードのトム・キーロックは「ビルが本当に興味があったのは音楽ではなく女の子だ」としている[97]。本人も「一人の女に忠誠を誓うなんて真っ平だ」とはっきり宣言している[98]。初体験は19歳の時だった[99]

最初の妻であるダイアンとは1959年に結婚、第1子となるスティーブンは1962年3月に生まれた[100]。ダイアンはストーンズのメンバーとは打ち解けられず、陰口を言われたこともあった[101]。彼の多忙と不貞が重なり、夫婦生活は1967年には崩壊していた。彼は「スティーブンのために一緒にいたようなもの」と自著に綴っている[102]。ダイアンとはスティーブンの養育権をめぐって争いとなり、裁判の結果彼が養育権を獲得し、1969年10月に正式に離婚した[35]

ダイアンとの関係が実質的に終わっていた1967年より、スウェーデン人のアストリッド・ルンドストロムとの交際を始める。ルンドストロムは1983年までの全てのストーンズのツアーに同行しており、グループの内情についても詳しかった。彼女は当時のグループの様子について「ストーンズの雰囲気はくつろいでいて楽しいなどと言うことは決してできない。常にどこかしら緊張感が張り詰めていた」と語っている[78]。彼女はスティーブンとの関係もよく、フランス移住後のワイマンを献身的に支えた[103]。だが彼がマリファナを始めると彼女も影響を受け、さらに彼が手を出さなかったコカインやヘロインにはまってしまい、これが破局の一因になった[104]。二人は17年間事実婚状態にあったが、結局1983年に別れた[49]。結婚に至らなかった理由について、彼は彼女が優柔不断だったことを挙げたが、彼女は「ビルの不貞が私の中毒の引き金になった」と主張している。別れたあとの二人の関係は良好だという[104]

2人目の妻で34歳年下のマンディ・スミスとは1984年に出会っている[82]。出会ったとき彼は13歳のマンディを20歳ぐらいだと思った[105]。彼の完全な一目ぼれで、問題があることは承知していたが感情が理性を超えてしまったという。二人は途中で大喧嘩をしてしまい、1986年7月に1度別れるが、同年8月に二人の関係をタブロイド紙がすっぱ抜いた[106]。マスコミからは反論できないことをいいことに事実とは違う記事を沢山書かれ[107]、さらにストーンズもジャガーとリチャーズの仲違いで解散の危機にあり、彼は最悪の状態にあった[108]。しかしこの間も二人は密に連絡を取り合っており、ストーンズが再始動した1989年二人は寄りを戻し、コンサートツアーが始まる前の6月に結婚した[109]。披露宴にはストーンズのメンバー全員が出席した[110]。だが結婚生活は長くは続かず1991年に離婚、慰謝料は約8億円にもなった[111]

離婚後の1992年のインタビューで今後の予定について聞かれると「結婚してバカスカ子供を作る」と答え[112]、宣言どおり1993年には、現在の妻である女優のスザンヌ・アコスタと再婚。3人の子供を授かった[113]

ディスコグラフィ

  • モンキー・グリップ - Monkey Grip(1974年)
  • ストーン・アローン - Stone Alone(1976年)
  • グリーン・アイス - Green Ice(1981年)
  • ビル・ワイマン - Bill Wyman(1982年)
  • ウィリー & ザ・プアー・ボーイズ - Willie & The Poor Boys(1985年)
  • スタッフ - Stuff(1992年)
  • ストラッティン・アワ・スタッフ - Struttin' Our Stuff(1998年)
  • エニウェイ・ザ・ウインド・ブロウズ - Anyway The Wind Blows(1999年)
  • ダブル・ビル - Double Bill(2001年)
  • グルーヴィン - Groovin(2001年)
  • ジャスト・フォー・ザ・スリル - Just for a Thrill(2004年)
  • バック・トゥ・ベイシックス - Back To Basics(2015年)

著書

脚注

参考文献

外部リンク

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Timelines

Top Qs

Fact Checks