Richard Davis (bassist)
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| リチャード・デイヴィス Richard Davis | |
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1987年のデイヴィス | |
| 基本情報 | |
| 生誕 | 1930年4月15日 |
| 出身地 |
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| 死没 | 2023年9月6日(93歳没) |
| ジャンル | |
| 職業 | ミュージシャン |
| 担当楽器 | コントラバス |
| レーベル | |
| 公式サイト |
www |
| 旧メンバー |
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リチャード・デイヴィス(Richard Davis、1930年4月15日 - 2023年9月6日)は、アメリカのジャズ・ベーシスト。サイドマンとして参加した著名なアルバムには、エリック・ドルフィーの『アウト・トゥ・ランチ』、アンドリュー・ヒルの『ポイント・オブ・ディパーチャー』、ヴァン・モリソンの『アストラル・ウィークス』などがある。特に『アストラル・ウィークス』については、評論家のグリール・マーカスが『ローリング・ストーン・イラストレイテッド・ヒストリー・オブ・ロックンロール』の中で「リチャード・デイヴィスは、ロック・アルバム史上最高のベースを弾いた」と評している[1]。
1930年4月15日、イリノイ州シカゴに生まれる。母親は出産時に亡くなり、ロバートとエルモラ・ジョンソン夫妻に育てられた[2]。デイヴィスはベースの演奏に惹かれるようになり、家族のボーカル・トリオでベース・パートを歌うことから音楽の道をスタートした[3]。高校でウォルター・ダイエットの下でコントラバスを学び、シカゴ・ユース交響楽団(Youth Orchestra of Greater Chicago)のメンバーとして、1947年11月14日にシカゴのオーケストラ・ホールで行われた同楽団の初演に参加した。高校卒業後は、ヴァンダークック音楽大学に通いながら、シカゴ交響楽団のルドルフ・ファスベンダーにコントラバスを師事した。
経歴
大学卒業後、ダンス・バンドで演奏活動を行う。1950年代初頭にソニー・ブラウント(後に前衛的なオーケストラの革命児、サン・ラとして知られる)と出会い共演。その後、芸術的にも商業的にも成功を収めていたピアニスト、アーマッド・ジャマルのトリオで1年間活動した。アーマッド・ジャマルは、キャリアの初期からデイヴィスの後押しをした。その繋がりからピアニストのドン・シャーリーと出会い[4]、1954年にシャーリーと共にニューヨークへ移住。1956年まで共演を続けた[4]。その後、ソーター=フィネガン・オーケストラで演奏を始め、1957年にはサラ・ヴォーンのリズムセクションに加入し、1960年まで彼女と共にツアーやレコーディングを行った[4]。
1960年代を通じて、デイヴィスは様々な音楽シーンで引く手あまたの存在となった。この時期、エリック・ドルフィー、ジャッキー・バイアード、ブッカー・アーヴィン、アンドリュー・ヒル、エルヴィン・ジョーンズ、カル・ジェイダーらのバンドで活動した[4]。1966年から1972年にかけては、サド・ジョーンズ/メル・ルイス・オーケストラのメンバーを務めた[4]。また、ドン・セベスキー、オリヴァー・ネルソン、フランク・シナトラ、マイルス・デイヴィス、デクスター・ゴードン、ジョー・ヘンダーソン、そしてアーマッド・ジャマルとも共演している[5]。
数々の画期的なジャズ・プロジェクトに参加し、多大な貢献を果たしている。特筆すべきは、大胆な形態と構造を持つエリック・ドルフィーのアヴァンギャルドの傑作『アウト・トゥ・ランチ』や、当時10代であった天才ドラマー、トニー・ウィリアムスのデビュー・アルバム『ライフ・タイム』における演奏である[6]。エリック・ドルフィーとの活動は、デイヴィスのベーシストとしての表現の幅をを広げる契機となった。ドルフィーの音楽は、それまでサラ・ヴォーンのバンドで取り組んでいたスタイルとは異なるものであったが、彼は自分が正しい場所にいるとを確信していたという。
1964年、リズムが複雑に入り組んだアンドリュー・ヒルの『ポイント・オブ・ディパーチャー』に参加。デイヴィスは自身の音楽性を発展させていく中で、チャールズ・ミンガスからも多くのインスピレーションを得た。1968年のヴァン・モリソンの『アストラル・ウィークス』では事実上の音楽監督を務め、即興演奏を行うアンサンブルを牽引してアルバムの制作を主導した。プロデューサーのルイス・メレンスタインは、デイヴィスを「このアルバムのソウル」と表現している。『アストラル・ウィークス』における彼のベースラインは、その感情的な深さから批評家たちに称賛され、このアルバムを名盤の地位へと押し上げた[7]。
1970年代にはポップスやロックのミュージシャンともレコーディングを行い、ローラ・ニーロの『スマイル』、ブルース・スプリングスティーンの『アズベリー・パークからの挨拶』および『明日なき暴走』に参加した。またキャリアを通じて、イーゴリ・ストラヴィンスキー、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズ、レオポルド・ストコフスキー、ガンサー・シュラーといった指揮者たちと共にクラシック音楽の演奏も行っている[5]。
主な共演歴
1964年、トニー・ウィリアムスのデビュー・アルバム『ライフ・タイム』に参加し、その革新的なアプローチを披露した。また、フランク・シナトラの『Watertown』(1969年)、ポール・サイモンの『Something So Right』(1973年)をはじめ、1975年に発表された数々の名曲(ブルース・スプリングスティーンの「Meeting Across the River」、ローラ・ニーロの「Smile」、ジャニス・イアンの『17才の頃』など)で演奏している。ポップスやロックへの貢献にとどまらず、1966年から1972年までサド・ジョーンズ/メル・ルイス・オーケストラの創設メンバーおよびレギュラーとして参加した。また、ビル・リーが率いるニューヨーク・ベース・ヴァイオリン・クワイアの一員としても活動した[2]。
1980年代後半には人種問題の解決を目指す団体「Institute for the Healing of Racism」のマディソン支部を設立し、自宅で集会を開いた。1990年代には、ピアニストのジョン・ヒックス、ドラマーの中村達也と共に、一連のポスト・バップ・トリオのレコーディングにも参加している[8]。2000年5月、多様性へのオマージュとして日本で録音した『The Bassist: Homage to Diversity』(キングレコード)をリリース。その後、同レーベルにおける第2作となる『So In Love』も発表している[9]。その後も演奏とレコーディングを定期的に続け、2001年には『The Bassist: Homage to Diversity』(パルメット・レコード)として再びリリースされた[10]。2009年3月18日から22日にかけては、伝説的なサックス奏者のフレッド・アンダーソンが経営するシカゴのクラブ「ベルベット・ラウンジ」にて、アンダーソンの80歳の誕生日(3月22日)を祝う記念イベントに出演した[11]。
教育活動
1977年、ウィスコンシン大学マディソン校において、ベース(クラシックおよびジャズ)、ジャズの歴史、コンボ・インプロヴィゼーションの教授に就任した[12]。この背景には、フリーランスのミュージシャンとしての重圧から退きたいという事情と共に、次世代を指導し、インスピレーションを与えたいという強い願望があった。
自身がベースを理解する上で影響を受けた多くの先人たちを挙げ、次のように語っている。「ジミー・ブラントンやオスカー・ペティフォード、ミルト・ヒントンなど、過去の偉大なプレイヤーを聴いた。彼らが何をやっているのかを知りたかったんだ。彼らと同じように弾きたいわけじゃなかったが、僕のルーツはそこにある」[13]。
同大学における約40年に及ぶ教員生活では、クラシック・ベース、ジャズの歴史、即興演奏の指導に注力した。1993年には、若い音楽家たちの音楽的成長を支援するため「Richard Davis Foundation for Young Bassists(リチャード・デイヴィス若手ベーシスト財団)」を設立した[9]。
1998年には多文化理解に焦点を当てた「Retention Action Project (R.A.P.)」を立ち上げたほか、マディソン市内に「Institute for the Healing of Racism」の支部を設立し、多様性への意識啓発活動を推進した[14]。
2016年に同大学を退職した[15]。
死去
栄誉・受賞歴
生涯を通じて、その演奏と次世代のエンパワーメントへの尽力により数々の賞を受賞した。1967年から1974年まで『ダウンビート』誌の国際批評家投票で最優秀ベーシストに選出された。また、卓越した指導力を称えられ、ドナ・シャララ学長からヒルデール賞を授与されている。1998年には、マディソンのエッジウッド大学から人文学の名誉博士号を授与された[18]。2000年には、マディソン・ロータリー・クラブからマンフレッド・E・スワルセンスキー人道賞を受賞した[19]。
- 最優秀ベーシスト、『ダウン・ビート』誌 国際批評家投票(1967年 - 1974年)
- NEAジャズ・マスターズ(2014年)[20]