UNIVAC I
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UNIVAC I (UNIVersal Automatic Computer I、ユニバック・ワン)は米国で作られたビジネスアプリケーション向けとして世界初の汎用電子デジタルコンピュータ[注釈 1]。ENIACやEDVACの発明者であるジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーが中心となって設計し、彼らが設立したエッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーション(EMCC)で開発が開始されたが、資金不足に陥り、IBMに資金援助を断られ、1950年にレミントンランド[注釈 2]に買収され親会社になってもらう形で資金援助を獲得し、開発完了・製造・販売にこぎつけた。このマシンは後継機が出るまで単にUNIVACと呼ばれた[1]。UNIVACはUniersal Automatic Computer(万能自動計算機)の略。

約5,200本の真空管と18,000個のダイオード、水銀遅延線メモリを使用して構成された。ENIACと比較して真空管の本数は3分の1以下。主記憶容量は1,000語(1語=12文字)、100本の水銀遅延管で実現。プログラム内蔵方式で、演算速度は毎秒1,000語。(資料により数値にばらつきがあるが)加算時間は 525 マイクロ秒、乗算時間は 2,150 マイクロ秒などとされる[注釈 3] [注釈 4]。計算機として史上初の磁気テープ装置「UNISERVO」を入出力装置(かつ補助記憶装置)として標準装備。重量は約13トン[注釈 5]、設置面積は25平方メートル、消費電力は125 kWに達した。
1951年から1954年にかけて、総計46台が納品され、1950年代と1960年代に使われた。1号機は米国国勢調査局向けで、1951年3月31日に契約書が交され、その年の6月14日に納入式典が開催された[2][3]。
宣伝のためUNIVACを使い1952年の大統領選挙の結果予測をさせ、わずか1パーセントのサンプル調査で、誰も予想できなかったアイゼンハワーの逆転勝利を的中させ全米放送の選挙特番で言及されて知名度を上げた。
歴史(開発史)
UNIVACが設計できたのは無論、ジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーらのおかげだったが、完成・販売できたのは米国国勢調査局からの依頼と、パンチカード装置市場で2位だったレミントンランド社からの資金援助のおかげである。
- 米国国勢調査局の苦労
アメリカでは米国国勢調査(U.S. Census)が10年ごとに行われ、その集計に1890年からパンチカードとパンチカード読み取り装置を使用していたが、年々人口が増加し、1930年にすでに約1億2千万人で、パンチカード装置の改良はしたものの労働集約的作業が多く[注釈 6]、 1940年の国勢調査では人口1億3千200万人でデータ処理の負荷が増大し、調査実施日が1940年4月1日だったが総人口や州別の人口速報ですら出せたのは約9ヶ月後1941年1月で、詳細な統計[注釈 7]の集計と最終公表までには3年から5年もかかり1943年〜1946年になってしまった。
- 米国国勢調査局での汎用計算機への着目
当時の一般人では国勢調査結果公表には数年かかるものという思い込みを持っている人も多かったが、国勢調査局の内部では1940年代には「このままではいけない」という認識は共有されるようになっていた。[注釈 8]1940年代、アメリカ政府は第二次世界大戦とその事後処理にも追われ、その意味でも事務作業の効率化を図りたかった。国勢調査の調査結果公表ができた1946年にはパンチカード依存からの脱却方法の検討が行われていたが、そのころ米国国勢調査局にもENIAC(世界初の電子式汎用計算機、1946年完成)の情報が伝わってきており、ENIACならパンチカード分類機やカード集計機より効率良く集計できるかも知れぬと気付き、注目しはじめた。
- 国政調査局からEMCCへの打診、レミントンランドによる資金提供と買収
ペンシルベニア大学でENIACの開発を行ったジョン・モークリーとプレスパー・エッカートは1946年春から47年ころに大学を離れ、自分たちの会社EMCC(Eckert-Mauchly Computer Corporation) を設立しUNIVAC の開発を進めるも、資金難に苦しむようになっていた。1947〜48年頃、EMCCは米国国勢調査局から「将来の国勢調査用に電子計算機を導入したい」との打診を受ける。1948年、EMCCはUNIVAC開発のため、資金援助をIBMに打診したがIBMからは断わられてしまった(IBMは保守的で、パンチカード関連装置を改良する路線に固執していた)。 1950年、レミントンランド社が資金援助と引き換えにEMCCを買収し、レミントンランドが親会社になり資金援助する形で、UNIVAC開発を継続することができた。

UNIVACの初号機は1951年3月29日から30日にかけて正式なテストを行い合格し[4]、(3月31日付の契約書が交され)米国国勢調査局に引き渡された。6月14日には正式な納入式典が挙行された[4](だが、ほとんど報道されなかった)[4]。同局は、初号機を約1年間、工場建物内で運用した[4]。なお、米国国政調査局は、そもそもパンチカードでの集計速度が遅すぎるからUNIVACを選び、磁気テープ(UNISERVO I)のほうが高速・高容量で有望だから採用したのだった。したがってUNIVACの初期版にパンチカードの入出力機能が無くても米国国勢調査局にとっては購入に問題がなかった。国勢調査局は実験的・先進的な機関でもあり、リスクを取ってでも新技術導入に積極的だった。そしてUNIVAC I の試験運用で、大量データの集計・分析に劇的なスピード改善が見られた。
1952年には、米国空軍と米軍地図サービスに売れた。とはいえ、当初の販売台数はレミントンランドの希望よりも少なかった。
- 広告不足
政府関連機関向けの販売はともかくとして、民間企業向けに販売するためには広報・広告・宣伝が明らかに不足していた。新聞記事化すらされず、その存在が民間の人々にほとんど知られていなかった。 たとえば、初号機の国勢調査局への納入式典が行われた1951年6月14日の翌日のニューヨーク・タイムズ紙に載ったのは次の文章だった[4]。
eight-foot-tall mathematical genius, designed to meet problems of the United States Census Bureau[4](アメリカ合衆国国勢調査局の問題に対応するよう設計された、身の丈8フィートの数学の天才)
わずか2文しかない短い文章で、しかも肝心のUNIVACという名称すら記されていなかった[4]。寸法だけ強調し、性能の概要や実行可能なタスクの説明も無い。報道でこんな扱いを受けていては売れるはずがなかった。存在することも、名前もデータ処理能力も、民間人のほぼ誰にも知られていない状態なのに、民間企業に売れるわけがないのである。
- 販売推進策

まず人々に、UNIVACの存在や、その名称や、データ処理能力を知ってもらう必要があった。
宣伝のためCBSと提携して、UNIVACを1台使い1952年大統領選挙の結果を予想させた。使われたのは米国原子力委員会向けに製作した5号機で、まだ納入前で、フィラデルフィアにあるレミントンランドの工場にある状態のものを"一時的に借りる"形で使った[5]。わずか1%のサンプル調査でアイゼンハワーの逆転勝利を的中させた[6]。 事前の世論調査ではアドレー・スティーブンソンが有利とされていたが、UNIVACはアイゼンハワーの逆転勝利を予想し、CBSのスタッフはUNIVACが間違っていると確信し、UNIVACは使い物にならないと考えていた。(投票・開票日は11月4日。当時すでに"選挙特別番組"がテレビで放送されており)開票作業が進むとUNIVACの予想が正しかったことが明らかになり、アナウンサー[注釈 9]がUNIVACの能力を評価したことでUNIVACは有名になり、コンピュータに対する国民の評価も変わった[7]。これで全国的に知名度が上がった。
だがまだUNIVACには、企業への販売台数が伸びない原因となる"ハンディキャップ"があった[4]。それはパンチカードの入出力装置が付属しないことだった[4]。当時、大量の集計業務を行う組織(政府機関、保険会社、銀行、郵便局、鉄道会社、電力会社など)はデータをパンチカード形式で保有し、カード分類装置やタービュレータ(カード集計印字装置)で集計していた。高速集計させるためにカード関連装置から汎用計算機へ移行したくても、すでに大量に保有しているカード形式のデータを扱えるようにならないと購入に踏み切れない。 だが実は、エッカートは会社を設立しUNIVACの開発をしていた早い時期に、カード入出力装置の設計もしてあり、市場の需要に応じることは必然であったので、レミントンランドが親会社になって(同時に資金援助が得られ)しばらくするとカード入出力装置の開発も行われていた[4]。UNIVACで採用された手法は、パンチカードのデータを磁気テープのデータに変換する装置(Card to Tape converter)および逆の変換を行う装置(Tape to Card converter)を周辺機器として用意することであり、これを最初から付属させる契約やオプション販売が開始され[8]、それが販売上の障壁を除去した。さらに1954年にはレミントンランドの自社内に販売デモ用のUNIVACも設置し、同年は契約・納入数が伸び、納入先としてゼネラルエレクトリック(総合電機会社)、メトロポリタンライフ(保険会社)、USスチール(鉄鋼会社)、USスチールの支店、デュポン(化学系の総合メーカー)、フランクリンライフ(保険会社)、ウェスティングハウス(電機・重工業)、パシフィックミューチュアルライフ(保険会社)、シルヴァニアエレクトリック(電機会社)、コンソリデーテッドエジソン(電力・ガス・スチームを供給する公益企業)など、政府機関だけでなくアメリカの一流企業が並ぶことになり、1号機からの総計が46台に達した。
納入先
当初は国勢調査局、米空軍、米陸軍地図サービスなどの政府機関が顧客だった[1]。
国勢調査局に販売した初号機は1951年3月31日にフィラデルフィアの3747リッジアベニューにあるエッカートモークリー部門の工場で落成式を公式に開催した。マシンは非常に繊細で壊れやすく、解体・輸送・再組み立ての困難が懸念されたことから、落成式のためだけに暫定版を組み立てた物であり、本当の完成版は実際には翌年の12月まで設置されなかった[9]。この結果1952年6月に国防総省に納入された2号機の方が最初に設置(インストール)されることになった。
なおエーシーニールセンやプルデンシャル・ファイナンシャルとも契約した。EMCCがレミントンランドに買収された後、最初に設定していた販売価格では安すぎて赤字になることが明らかになり、ニールセンとプレデンシャルにキャンセルを頼まなければならなくなった。
UNIVAC Iの販売価格は当初15万9000ドルで、2~3台目が25万ドル。125万ドルから150万ドルになるまで値上げされた。最終的に46台が製造・納品された。
下の一覧は、その一部である。 UNIVACのインストール 1951-1954年[10]
| 日付 | 納入先 | 備考 |
|---|---|---|
| 1951 | 米国国勢調査局 | メリーランド州スーツランド。1952年まで出荷されなかった[11][12] |
| 1952 | アメリカ空軍 | バージニア州アーリントンのペンタゴン(米国国防総省)[13] |
| 1952 | 米軍地図サービス | ワシントンDC[14]。1952年4月〜9月に工場で稼働。 |
| 1953 | ニューヨーク大学 (原子力委員会) | ニューヨーク州ニューヨーク[15] |
| 1953 | 原子力委員会 | カリフォルニア州リバモア |
| 1953 | 米海軍 | デビッド・テイラー・モデル・ベイスン(船舶開発センター) メリーランド州ベセスダ |
| 1954 | レミントンランド | ニューヨーク州ニューヨークのセールス部門 |
| 1954 | ゼネラル・エレクトリック | ケンタッキー州ルイビルのアプライアンス部門 最初の民間企業[16] |
| 1954 | メトロポリタンライフ | ニューヨーク州ニューヨーク[17] |
| 1954 | アメリカ空軍 | ライトパターソン空軍基地、オハイオ州デイトン |
| 1954 | USスチール | ペンシルバニア州ピッツバーグ |
| 1954 | デュポン | デラウェア州ウィルミントン |
| 1954 | USスチール | インディアナ州ゲーリー |
| 1954 | フランクリン生命保険 | イリノイ州スプリングフィールド[18] |
| 1954 | ウェスティングハウス | ペンシルバニア州ピッツバーグ |
| 1954 | パシフィック・ミューチュアル生命保険 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
| 1954 | シルバニア・エレクトリック | ニューヨーク州ニューヨーク |
| 1954 | コンソリデーテッド・エジソン | ニューヨーク州ニューヨーク |
- 寄贈先
UNIVAC Iは大学にはかなり高額だったが、レミントンランドランドはUNIVAC Iを1956年にハーバード大学へ、1957年にペンシルベニア大学へ、1957年にオハイオ州クリーブランドのケース産業大学へ寄贈した。
- 1960年代での使用
より高性能のコンピュータが販売される時代になっても、一部のUNIVAC Iは使われ続けた。ケース産業大学のUNIVAC Iは1965年もまだ現役で稼働していたが、後継のUNIVAC 1107に置き換えられた。国勢調査局は1963年までに2台を所有しており、1台目は12年間、2台目は9年間稼働した。レミントンランド社も1968年までニューヨーク州バッファロー2台を所有していた。保険会社のライフ&カジュアルティ・オブ・テネシーは1970年まで13年以上使用した。
技術詳細
ハードの主な特徴

UNIVAC Iは約5,000本の真空管を搭載し[注釈 10]、重量は16,686ポンド(7.5トン)[19]、消費電力125kWで、2.25MHzのクロックで動作し1秒あたり約1,905個の命令を実行できた。プロセッサとメモリユニットを搭載したセントラルコンプレックスの部分だけで4.3m x 2.4m x 2.6mの大きさがあった。システム全体では35.5m²(382 ft²)の設置面積を必要とした。
メインメモリ

メインメモリは12文字の1000ワード。数字は11桁の10進数で、これに正負の記号がついた。10ワードの水銀遅延メモリを100チャンネル組み合わせて1000ワードを実現していた。入出力バッファはそれぞれ60ワードで、10ワードの水銀遅延メモリを12チャンネル組み合わせていた。スペアとして10ワードの水銀遅延メモリが10チャンネルあった。アップグレード版ではさらに追加された7チャンネルで7本の水銀タンクの温度を制御し、さらにもう1チャンネルが10ワードのYレジスタとして用いられた。合計で126チャンネルの水銀遅延メモリがあり、7つの水銀タンクがMT、MV、MX、NT、NV、NX、GVの背面に装備された。各水銀タンクは18本の水銀チャンネルに接続された。
10ワードの水銀遅延ラインチャンネルは次の3つのセクションで構成される。
- 水銀の列にあるチャンネル。送受信を担う水晶圧電素子が両端に装備されている。
- 中間振幅ケース。水晶圧電素子に接続され、アンプ、検出器、遅延補償などの回路があり、水銀タンクのケースに取り付けられている。
- 循環ケース。カソード・フォロワ回路、パルス発生器、リタイマ、水晶の伝達を制御する変調回路があり、入力・消去・記録のスイッチ回路・ゲート回路がある。水銀タンクの隣に設置されている。

命令とデータ
命令セットは6桁の英数字で、1ワードに2つの命令が含まれる。加算は525 µs、乗算は2150µsで処理される。オーバードライブと呼ばれる非公式の改造により条件付きながら4桁の命令を1ワードに3つ詰め込むことが可能だった(後述するIngermanのUNIVACシミュレータもこの改造に対応している)。

数字は内部的にXS3(3増し符号)によるBCD2進化10進数で、1桁は6ビットあり、英数字コードの数字がそのまま使用され、エラーチェック用に1ビットのパリティビットがあり、11桁の符号付き整数を扱えた。1~2個の例外的な命令を除いてマシン語には2進数を用いず、文字のバイナリは2進数表現であったものの、プログラマとしてはUNIVACは10進数機だった。数値演算中に数字以外の文字がデータ中に現れた場合、マシンはその文字をそのままスルーして出力し、キャリーフラグの値はその時点でリセットされて失われた。なおUNIVAC Iの加減算回路は、無視記号を-3、スペース( )を-2、マイナス記号(-)を-1、アポストロフィ(')を10、アンパサンド(&)を11、左括弧(()を12の数値として扱うことがあった。
入出力

オペレータ・コンソールの他には、最大10台のUNISERVOテープドライブ、レミントンランドの電子タイプライター、テクトロニクスのオシロスコープだけがUNIVAC Iに接続できた。UNISERVOは市販品としては世界初のコンピュータ用テープドライブだった。1インチに128ビットのデータ密度で(実測転送速度は秒間7200文字)、磁性メッキ加工を施したリン青銅テープだった。UNISERVOはまたUNITYPERが出力した1インチ20ビットのテープを読み書きすることもできた。UNITYPERはタイプライターからテープに出力する独立した装置で、プログラミングや簡単なデータ編集に用いられた。UNIVACはテープの正方向と逆方向の読み書きが可能で、CPUの命令と完全に対応しており、ソートやマージなどのデータ処理を非常に高速に行えた。パンチカードからテープに変換する独立した装置で作ったテープからデータを大量に入力し、結果を別のテープへ出力し、別の独立した装置でテープのデータをプリンタに印刷した。オペレータコンソールには10進コードのスイッチが3列あり、搭載された1000ワードのメモリから好きなデータを選んでオシロスコープに表示できた。水銀遅延メモリはデータを2進数の列で記憶しており、かなりの忍耐力は求められるが、プログラマやオペレータは好きなメモリの値をスコープに継続して表示させることができ、その内容を読み取ることが可能だった。コンピュータに接続したタイプライターにより、プログラムのブレークポイントの設定、チェックポイントの設定、メモリダンプの設定などに通常は使われた。
運用の流れ
UNIVAC Iには通常は複数の周辺機器を併用した。一般的には、磁気テープを読んで連続用紙に印刷するプリンター、パンチカードを読んでイメージデータを磁気テープに書き込むカード・テープコンバータ、磁気テープを読んでパンチカードの束を生成するテープ・カードコンバータなどが使われた。UNIVACにはオペレーティングシステムは付属していなかった。オペレータがUNISERVOにテープをセットするとプロセッサの回路が自動的にこれをロードした。入力データと出力データのテープを適当に設定してプログラムを実行した。出力されたデータは外部のプリンタに渡される。または次のデータ処理の入力として使われる一時データとなり、カード・テープコンバータが出力した別のデータに従って更新される。水銀遅延メモリは、水銀の温度によって音速にばらつきが生じるため、水銀タンクの温度が非常に厳密に管理されていた。停電が発生すると温度が安定するまで数時間かかることがあった。
信頼性
エッカートとモークリーはデジタル論理回路の信頼性について確信を持っておらず、当時は得られる情報も限られていた。UNIVAC Iは計算回路を並列で接続して結果を比較する設計だった。実際には設計した回路の信頼性は高く、故障した部分だけがエラーを生じた。真空管の信頼性を管理するために対策が講じられていた。主力の真空管である25L6は機械に組み付ける前に大量に熱を加えて慎重にテストした。製造された真空管の半分が破棄されることはよくあることだった。技術者はテストに合格した加熱済みの真空管を、メモリ再循環アンプなど、故障を簡単に確認できる場所に設置した。ある程度の使用に耐えた成熟したゴールデン真空管を確保しておき、故障の確認が困難な場所で用いられた。突入電流や熱による真空管へのストレスを低減するため、全ての真空管のフィラメントに電力が行き渡るまで、約30分かけてコンピュータを起動した。これにより数日から数週間の連続稼働時間(MTBF)を達成した。
一方、UNISERVOにはリールからキャプスタンまでの間にテープの張力を保つのに真空カラムではなくバネと糸を用いていた。これらはよくあるエラーの原因だった。
改良版
改良版のUNIVAC II(英語版)も開発・製造された。UNIVAC IIではメインメモリ(2000ワード)や磁気テープ外部記憶装置のバッファメモリ(60ワード)が磁気コアメモリとなり、磁気テープの記録密度は250ppi(pulse per inch)の倍密度だった。内部レジスタは超音波を結晶中で反射させその遅延時間を利用していた。1ワードは7ビットの12桁で、通常の機械命令語はその半分の6文字で構成していた。
- 英語版項目 en:UNIVAC IIを参照。
日本でも東京電力が第29号機を輸入し昭和36年~昭和43年まで、主に従量電灯計算など大量データ処理に使用された。