お狂言師

From Wikipedia, the free encyclopedia

お狂言師(おきょうげんし)とは、江戸時代将軍大奥大名藩邸奥向きで、私的な趣味の一環として行われていた舞踊や芝居上演に出演していた女性たちのことである。

歌川芳艶作のお狂言師を描いた浮世絵。右端の人物が後に二代目坂東三津江となる坂東京。

江戸時代、女性が歌舞伎を演じることは禁止されたが、実際には女性による芸能活動は継続していて、江戸城や諸藩の藩邸でも、外出もままならない不自由な生活を強いられていた将軍の御台所や大名の正妻のために、お狂言師による芝居上演が行われていた。お狂言師による芝居は、舞台や舞台装置、大道具、小道具などは実際の歌舞伎公演並みの本格的なもので、中でも衣装は倹約令の影響を受けないため、豪華なものが使用された。内容も歌舞伎俳優から直に教えを乞うなどして、江戸市中で流行している上演中の演目を演じるなど、やはり本格的なものであった。実際、一流のお狂言師の芝居は本職の歌舞伎俳優よりも上手いとの声もあった。

明治になって活躍の場を失ったお狂言師たちであるが、踊りの師匠となって活躍したり、女性が舞台に立つことが認められるようになったため、歌舞伎の舞台に立って活躍を見せた。

女性芸能の禁止とお狂言師

お狂言師二代目坂東三津江が熊本藩主細川斉樹の正室、蓮性院のために「梶原」を演じた際に使用した衣装。

寛永6年(1629年)、歌舞伎の女性演者など、女性が芸能に携わることが禁止された。女性演者の禁止によって美少年たちにより演じられた若衆歌舞伎が盛んになるが、その若衆歌舞伎も承応元年(1652年)に禁止される。歌舞伎に対する取り締まりと興行再開の嘆願が繰り返される中で、歌舞伎では男性が女性役を演じる女形が広まっていくようになった[1]。しかし禁令にも関わらず、芸能活動を行う女性が全くいなくなったわけではなかった。江戸時代を通じて女性の芸能禁止令がしばしば出されているが、これは実際のところ女性の芸能活動が継続していたことを示している[1]。中でも市中の劇場では女性の演者の出演は禁止されていたのにもかかわらず、将軍の大奥や大名の藩邸奥向きでは、私的な趣味世界の一環として、女性演者による舞踊や芝居上演が行われていた。このような将軍や大名の奥向きでの舞踊や芝居に出演していた女性たちのことをお狂言師と呼んだ[1]

お狂言師は、幕末期に市井の女性の踊りの師匠が、江戸城や諸大名の奥向きに出向いて舞踊や芝居を披露したとの説があった[2]。しかし延宝年間から天和年間(1673年~1684年)には、踊り師の名称で将軍家の大奥や諸大名の奥向きで踊りや物真似を披露していた女性がいたと言われており[3]、また18世紀前半から半ばにかけて活躍した浮世絵師宮川長春の作品の中にも、大名の奥向きで歌舞伎を演じる女性が描かれている[3]。そして後述のように郡山藩主引退後の柳沢信鴻は、18世紀後半にお抱えのお狂言師に本格的な歌舞伎を上演させている[4]。さらに女性演者による芸能の禁令の中には、17世紀後半の元禄年間に出された禁令では女性の踊り子の武家屋敷立ち入り禁止が命じられ、18世紀初頭の宝永年間にも女性芸能者の武家屋敷出入り禁止が命じられていることからも、江戸時代の前半期からお狂言師が存在していたと推定されている[5]

実例

柳沢信鴻

大名たちの中には熱狂的な芝居ファンがいた。安永から天明(1772年~1789年)頃までは、芝居好きの大名自ら芝居小屋に出向いて観劇することがあったと伝えられているが、その後は一座ごと借り切って藩邸内で観劇するようになった。明暦元年(1655年)に発布された法令により、大名の私邸に役者を呼び寄せて上演させることは禁止されていたが、芝居好きの大名たちは禁令に背き、秘密裏に一座ごと借り切って芝居上演を楽しんでいた[6]

芝居好きの大名の一人に柳沢信鴻がいた。信鴻の場合、一座ごと借り切って自邸で芝居を上演させるようなことはしなかったが、邸内に設置した舞台で芝居を見るために、女性たちをお抱えのお狂言師にしていった[7]。信鴻は、隠居前から女性たちの歌や踊りの実力を自ら見聞して採否を決め、安永2年(1773年)10月に息子柳沢保光に家督を譲り、隠居すると、翌11月には隠居先(六義園)でお抱えのお狂言師たちによる芝居を上演させるようになった[7]。信鴻が採用したお狂言師の中に、歌舞伎に携わる家系に生まれ、後に初代中村仲蔵の後妻となるさとという女性がいた。さとは柳沢信鴻のお狂言師を辞めた後、舞踊の志賀山流の師匠となり、その後、江戸城でお狂言師を務めたと伝えられている[8]

柳沢信鴻お抱えのお狂言師による芝居は、大奥や大名の奥向きで女性観客の前で演じられるものとは異なった面があったと考えられるが、実際の上演記録の中には5つの演目を約12時間かけて演じているものがあり、演目内容と上演時間を考えると本格的な内容の歌舞伎芝居であったと考えられる[9]

江戸城内

三田村鳶魚によれば江戸城内でのお狂言師の役割は、大奥女中の使用人であるお犬子供、お茶の間子供と呼ばれた人たちが担っていた。将軍のおひざ元である江戸城の場合、外部からお狂言師を招いて芝居を上演することは無かったといい、芸の優れた人物を採用して大奥内での芝居上演を担わせていた[10]。お犬子供、お茶の間子供は大奥女中の使用人扱いであったため、採用時に身分による制限はなかったが、実際問題として縁故採用であった[11]

江戸城内での芝居上演は、将軍の正妻である御台所のため演じられた。年間3、4回は演じられ、各回の経費は1000両を越えたと言われている[12]。芝居上演は将軍が上覧するものではなく、女性である御台所のために演じられたため、将軍が寛永寺増上寺にある歴代将軍の墓に墓参をしたり、鷹狩のため外出をしているのを見計らって開催された[12][13]。外出から将軍が帰ると、一度大奥に顔を出すのが習わしであり、外出後、芝居上演中に将軍が大奥に顔を出した場合は、いったん舞台装置を片付けて、将軍が帰った後に芝居の続きを上演したと伝えられている[14][15]

外出がままならない御台所にとって芝居上演は大きな楽しみであった[12]。芝居上演のスタッフは、午後は大奥内の勤務は免除されて芝居の稽古を行い、上演時期が近づくと午前の勤務も免除となって稽古に専念した。芸の習得のために江戸三座での芝居鑑賞も認められていて、歌舞伎役者から直に芝居を習ったりもした[12]。演目に関しては御台所の意向を確認の上で、江戸三座でリアルタイムに流行っている芝居を、実際に演じている歌舞伎俳優から直に習って上演するように努めていたが、内容的に品が無いと判断された演目は避けられた[12][15][13]

二代目坂東三津江と市川九女八

お狂言師二代目坂東三津江が熊本藩主細川斉樹の正室、蓮生院のために、 「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」で墨染桜の精を演じた際に使用した衣装。

幕末期に活躍したお狂言師に二代目坂東三津江と市川九女八がいる。二代目坂東三津江は母親の初代坂東三津江の娘であり、母娘揃って三代目坂東三津五郎の弟子であった[16][17]。二代目坂東三津江は最初、将軍徳川家斉の側室であったお美代の方に仕え、その後、加賀藩前田家高松藩松平家広島藩浅野家の3藩のお抱えお狂言師として活躍した。なお前田家、浅野家には家斉の娘が嫁いでいた。また熊本藩細川斉樹の正室、紀姫のところでも芝居を演じていて、紀姫は家斉の父である一橋治済の娘であった[16]。お抱え先の諸藩からは扶持が支給されていた[18]

1912年(大正元年)頃の約90歳の二代目坂東三津江

二代目坂東三津江の弟子のひとりが市川九女八である[16]。市川九女八の回想録によれば、幼い頃から芝居好きであった九女八は、7歳の時から家の近くに住む踊りの師匠から踊りを習っていたが、16歳の頃から二代目坂東三津江を師匠として稽古をするようになった。九女八によれば二代目坂東三津江のもとで稽古をし始めてみると、それまで10年近く学んできたことはほんの手ほどき程度のことであったことがわかり、一からやり直すように学んでいったという[19][20]。諸大名のお抱えお狂言師であった二代目坂東三津江は月に2、3回のペースで公演を行い、多忙であったため弟子は6、7名と少なかったが、実力がある弟子が揃っていた。二代目坂東三津江の指導は厳しかったが、市川九女八は大名邸での芝居で役を貰えるようになった[21][22]。九女八としてはさらに精進を重ねて自分も大名家のお抱えお狂言師になることを願っていたが、大政奉還、その後の版籍奉還によって大名自体が消滅してしまった[23]

演目のレパートリーとしては『鏡山』、『仮名手本忠臣蔵』、『道成寺』、『鷺娘』などがあったが、実際問題として要望に応じて実際の歌舞伎公演と同程度の内容のものを何でも演じなければならないため、1日だけの上演ではあったが、上演の10日以上前から稽古に励まなければならなかった[18]。ただ場所柄、あまり下世話な内容のものを演じてはならなかった[24]。一座は座主の二代目坂東三津江以下全て女性であり、お囃子、髪結いに至るまで全員女性で構成されていた[18]

上演前に一般の歌舞伎公演のような番付は作らなかったが、演目を記した手書きの番組表が作成されて観覧者に配られた[18]。上演は多くの場合夜に行われ、全部で七幕程度行われたため、終了時は深夜になることが多かった[24]。各大名家にはそれぞれ将軍家と同様に、外部からの招聘ではない邸付のお狂言師がいて時に応じて芸事を披露していたが、やはり二代目坂東三津江の力量に遠く及ばないものであり、邸付のお狂言師は二代目坂東三津江らによる上演時には姿が見えないように隠れて観劇していた[25]

また上演時はいくら芝居が面白く、出来が良くても観覧者は褒めたり拍手をすることが禁じられていた[26]。しかし芝居終了後は、実際の歌舞伎の終了後に贔屓の役者衆を出迎えるように、御殿女中たちは競うように二代目坂東三津江のことを出迎えた[27]。御殿女中たちからは着物一揃え、紅白の巻物、蒔絵の器物など、上演のお礼として渡されるものが多く、豪華な食事も提供されたが、食事については現場では食べることができなかったので持ち帰ることになっていた[28]

お狂言師の出自と境遇

上記のようにお狂言師が演じていた芝居は、実際の歌舞伎公演に引けを取らない本格的なものであり、優れた技能を持つ女性たちが、大奥や大名の奥向きで芝居の上演を行うといった形態であったと考えられている[29]。当時から一流のお狂言師は本職の歌舞伎役者よりも上手いと言われたこともあった[注釈 1][18]参勤交代制のもとで諸大名の正妻は江戸屋敷住まいが定められていて、自由度が少ない江戸屋敷暮らしの中で、お狂言師による芝居に対する需要は高かった[31]。一方、町人の娘たちにとって芸能に秀で、お狂言師として活躍することは武家奉公で活躍したとして嫁入り時のプラス材料にもなり、芸の評判によっては大名の側室となって世子を生む道が開ける可能性もあった[32][31]。また大名屋敷での芝居上演で受け取る多額の報酬も大きな魅力であった[32][33]。そのような状況下で、江戸市中の稽古場で多くの女性たちは芸を磨き[31]、また、歌舞伎関係者から直に芝居を習っていた場合もあったと考えられている[34]

一流のお狂言師は高いプライドを持っていた。市川九女八によれば二代目坂東三津江は日常生活から品性を保つ努力を怠らず、上演前は塩断ちをして身を慎んでいた。また二代目坂東三津江は結婚しないことを心に決めていて、幕末期に第一線で活躍したお狂言師の多くも男性を近づけなかったという[18]。そして二代目坂東三津江に教えを受けた市川九女八も、最期まで一途に芝居をし続けた芸に厳しい人物であった[35]

お狂言師の中にはかなりの年齢になっても活躍を続けた人物もいたが、多くの場合、3年から4年程度であり、10年勤め続けることはまれであった。お狂言師を引退後は市井の踊り師匠になることが多かったのではと推測されている[36]

舞台装置、衣装

お狂言師二代目坂東三津江が将軍徳川家斉の娘、末姫(広島藩主浅野斉粛の正室)のために芝居「時今也桔梗旗挙(ときはいまききょうのはたあげ)」を演じた際に使用した衣装。

江戸城内のお狂言師による芝居上演の場として、大奥内の通称お三の間が充てられた。お三の間は畳を外し、ヒノキの板を並べると舞台になるように設計されており、上演時には大奥の女性たちが幕引き等を務めた[15]。また舞台衣装、かつらや、大道具、小道具などは実際の歌舞伎公演並みの本格的なものが用意され、スタッフには多額のお手当金が支給された[12]。お狂言師たちは上演終了後、それらの衣装、諸道具などを拝領するならわしであった[12]

二代目坂東三津江の場合、まず楽屋に充てられた広間には鏡台などの充実した道具が並べられていたが、身分制度の制約で座布団を敷くことは許されなかった[37]。芝居を上演する舞台は、加賀藩邸、広島藩邸のものは奥行きはやや狭いものの、間口は明治期の明治座並みの広さがある大きなもので、花道などの舞台設備、大道具なども実際の歌舞伎劇場並みであった。上演時に大道具類を動かす役目は大柄の御殿女中が担い、大奥の場合と同じく、幕引き役も御殿女中が担った[26]。なお高松藩邸の舞台は加賀藩邸、広島藩邸のものよりもやや狭く、通常は畳敷きの部屋で、芝居上演時には畳を外して舞台として使用したが、舞台としての使い勝手はあまり良くなかった[26]

衣装は、舞台終了後にお狂言師に譲渡されるのが通例であった。そのため二代目坂東三津江は『道成寺』の衣装だけでも七揃え所有していたという[注釈 2][25]。二代目坂東三津江はお狂言師として使用した衣装を、1901年(明治34年)に帝室博物館に寄贈している[38]。厳しい倹約令などの規制のもとで制作されながらも、舞台衣装としての見栄えを追求している歌舞伎衣装の特徴を備えた衣装でありながら[39]、大奥や諸大名の奥向きによる庇護のもと、お狂言師として演じた際の衣装であるため、デザイン、服の素材とも手の込んだ上質な衣装である[40][39]。また江戸時代の歌舞伎衣装は上演が繰り返されるの中での消耗が激しかったと考えられ、公演終了後には次回公演用に仕立て直されることが多かったと推定されていて、現存するものは数少ないが、お狂言師の衣装という特殊な用途ではあるが、江戸時代の歌舞伎の衣装を知ることができる貴重な資料であると評価されている[注釈 3][44]

元お狂言師の明治

市川九女八

明治時代になって、これまで大奥や諸大名の奥向きで芝居を上演していたお狂言師らは、職を失うことになった。職を失ったお狂言師たちは踊りの師匠となったり、女性が舞台に立つことが認められたことによって市中の舞台に立つようになった[45][46]

踊りの師匠となった代表格が二代目坂東三津江であった。お狂言師として第一人者であった二代目坂東三津江は舞踊の坂東流の指導者となった。1873年(明治6年)に六代目坂東三津五郎は亡くなる際に、舞踊についての一切を二代目坂東三津江に委ね、事実上の坂東流の家元として弟子たちの指導に当たった[47][16]。坂東流の師匠としての指導はお狂言師時代と同様、厳しかったと伝えられていて、晩年には二代目坂東三津江の師匠であった三代目坂東三津五郎の芸を七代目坂東三津五郎に伝えた[48]。二代目坂東三津江以外にも、明治になって舞踊の師匠となっていることが確認できるお狂言師がいる[45]

明治時代になって女性も歌舞伎の舞台に立つことが認められるようになり、江戸期のお狂言師やその流れを受け継いだ女性たちが歌舞伎の舞台に立つようになった[49]。そのような中で、芝居好きであった市川九女八は歌舞伎の舞台に立つ道を選んだ[46]。九女八はまず寄席の芝居に出演し、評判になった後に本格的な歌舞伎劇場で演じるようになったが、師匠の二代目坂東三津江は九女八が舞台に立つことを快く思わなかったと伝えられている。その後、九女八は九代目市川團十郎の弟子となり、明治30年代前半頃まで著名な歌舞伎劇場で活躍した。その後、時代の流れや歌舞伎の権威が高まっていくにつれて女性の歌舞伎演者が消えていく中で、大劇場では演じられなくなっていったが、旅回りの一座に参加したり、活動写真の余興として踊るなど、最期まで舞台に立ち続けた[50]

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI