さねとうあきら
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- 1935年
- 1941年
- 1945年
- 1946年
- 1948年
- 新制中学に入学。学生服姿の教師ともに天皇の戦争責任について白熱のディベートをするなど、民主教育の先駈けとなる授業を受ける。「演劇部」に入部して、多様な才能を結集する「綜合芸術」の魅力にとりつかれ、その後の人生を決定づけた。
- 1951年
- 早稲田大学高等学院に入り、1954年、早稲田大学第一文学部演劇科に進学するも、アカデミックな大学の雰囲気になじめず、地域で中学時代の仲間を集めて演劇研究会を作り、木下順二の民話劇などに取り組む。そのかたわら、「子供会」を巡演する人形劇活動で、観客の子らと一体になった芝居づくりに力を入れていた。
- 1958年
- 早稲田大学を中退。草創期の戦後児童劇を牽引していた劇団「仲間」に演出部実習生として入団、全国縦断公演に参加する中で、反応が素直で感受性の鋭い子供らを、あえて「観客」に選んだ児童劇を、男子一生の仕事とする決意を固めた。
- 1961年
- 1963年
- 仙台シティバレエ団から「創作民話バレエ」の台本を委嘱され、すでに着手していた創作民話劇の構想を生かし、『石楠花姫』(木下忠司作曲)を書き下ろす。山鬼と盲目の村娘との愛のロマンで、後年さねとう民話の代表作『べっかんこオニ』の原型となった。その後、60年代いっぱい、テレビの教育番組の脚本や文化映画のシナリオを書くかたわら、企画担当の文芸部員として、そのころ人材輩出して活気のあった「創作児童文学」などを読み込み、子供の読書傾向を見極めて、劇団のレパートリーに反映させる役割を担う。この経験が、後に児童文学者に転身するのに役立った。
- 1970年
- 1972年
- 2月、初めての創作民話集『地べたっこさま』が、理論社より刊行された。日本児童文学者協会新人賞、野間児童文芸賞推奨作品などを受賞。続いて『ゆきこんこん物語』(理論社)『なたねおりひめ』(ポプラ社)など、矢継ぎ早に発刊。無辜の民衆を前提とする木下順二や斎藤隆介の創作民話と対峙して、誤りも犯せば条理にも反する等身大の民衆像を呈示、創作民話の新たな方向性を開拓した。
- 1973年
- 1974年
- 1975年
- 非力ながらも必死に戦争に参加した疎開学童を主人公に、先次大戦の戦争責任に迫った『神がくしの八月』(偕成社)を発刊。戦争を素材とした「現代創作民話」というべき新たなジャンルを開拓した。
- 1977年
- 1979年
- 1985年
- 10年の歳月をかけて構想・執筆してきた大長編『東京石器人戦争』(理論社)を発刊。人類(文明)と地球(大自然)を対峙させ、現代人の生き方を根本的に問い直す壮大なテーマが評価され、サンケイ児童出版文化賞を受賞。その後、四半世紀に及ぶ絶版状態を脱して、2010年に復刻再版された。
劇作の分野では、1973年、大阪の劇団2月で『ゆきと鬼んべ』を上演したのを皮切りに、泰西名作が幅をきかす関東圏と違い、創作劇の上演が比較的自由だった関西圏を活躍の場に選んだ。優れた児童文学の脚色に長け、安藤美紀夫・原作の『でんでんむしの競馬』を三部作にして劇団2月で上演した。とくに第二部の『ウメコがふたり』(1976年)は、戦時中の子供の視点で「天皇」を見つめた傑作として注目され、後に東京芸術座により1980年、1986年、2003年と、足かけ20年にも及ぶ長期公演となる。またオペラ台本『べっかんこ鬼』(林光作曲・1979年 こんにゃく座)や、人形劇台本『愚直なる兵士シュベイク』(ヤロスラフ・ハシェク原作・1996年 人形劇団プーク)など、執筆ジャンルは幅広い。2004年に初演した『のんのんばあとオレ』(水木しげる原作・劇団コーロ)で斎田喬戯曲賞を受賞。
『わらいおおかみ』撤収要求事件
絵本『わらいおおかみ』(さねとうあきら文・井上洋介画)は、1973年、ポプラ社より刊行された。佐々木喜善の『聴耳草紙』に収められた「あさみずの里」と「狼石」を典拠に、作者が自由に発想した創作民話だった。
- 死助谷にあったという「どろぼう村」に、旅人が一旦迷い込んだら、生きては出られなかった。夜のうちに村人に殺され、遺体は谷間に放棄されて、狼の餌になった。ある時、この村にハンセン病の老婆がやってくるが、さすがに身ぐるみ剥ぐ気も起こらず、狼が集まってくる廃寺へ追い払う。その夜、廃寺のあたりから狼の声が聞こえ、老婆の姿は見えなくなったが、その日を境に、狼が人家を襲うようになる。怒った村人たちが、狼狩りを敢行すると、狼の巣には老婆がいて、「狼だって助けてくれたのに、人は自分を殺そうとする」と弾劾しながら、巣の中の子狼を守るため、全身に銃弾を受けて死ぬ。「お前たちは、人の皮をかぶったけだものだ!」と、その所行に哄笑を浴びせつつ……。
1974年11月、この絵本に対し福岡県の部落解放同盟田川地協子供会対策部より、作者、画家、出版社の三者に対し、即時撤収要求の書状が送られてきた。その理由は
- この物語の背景となった「地理的条件」は被差別部落と酷似している。谷間の陽もあたらない、耕作も出来ない劣悪な条件。「ひとごろし」「どろぼう」「人間の皮をかぶったけだもの」は、古来、部落民に投げかけられた言葉。
- 客観的にこの本が社会の中に与える「部落は悪」という影響ははかりしれない。死助谷の人々=部落民と想定し、死助谷の人々はおおかみより悪と強調している。
- 『わらいおおかみ』の即時撤収を要求したいが、どうか
およそ以上であった。 それに対し三者を代表して作者が「回答書」を作成、
- この作品のテーマは、村里から疎外された者同士(ハンセン病の老婆と狼)の連帯と差別への怒りを表現したもので、地理的条件が酷似しているからといって、部落民=悪人と決めつけるのには飛躍がある。
- 一人の老婆の犠牲的行為によって、殺人と略奪を生業とする村人の行いに自省が生まれ、より人間性に根ざした変革に至る過程を描いており、長年いわれなき差別に苦しんだ被差別部落の人々にこそ、深く理解されるだろうと想定して、明確な「反差別」の視点で描かれている。
- ただし「客観的な悪影響」の具体例として、部落外の一般の人々がこの絵本を読んで、「部落民=どろぼう」といった偏見を助長させてしまったら、作者としても等閑視してはいられない。それなりの措置(「撤収」を含む)をとるのにやぶさかでない
と、制作者側の立場を明らかにした上で、「即時撤収要求」については、著作者としていささか疑義があり、次の「逆質問状」を送付した。
- 出版物の撤回要求は、実質的な「発禁処分」につながるが、部落解放同盟はいかなる根拠で「表現・出版の自由」を侵す権限があるのか
- 仮に撤回要求に正統な事由があったにせよ、それは部落解放同盟中央本部によってなされるのが筋で、一支部一部会の判断で行うのは、憲法で保障された民主的権利に対する冒涜ではないのか。また著作者側との慎重な討議の後に、撤収要求は最終的措置として行使されるべきではないか。
- 『わらいおおかみ』のようなアクチュアルなテーマは、今日の児童書出版界において異端の扱いを受けて排除されやすい。部落解放同盟の撤回要求により、このような作家・作品が抹殺されるのは必定であろうが、こうした措置が部落解放運動の発展に如何に寄与するのか、あきらかにされたい
と、部落解放同盟福岡県連に回答を求めたのである。
その後、およそ10ヶ月にわたって、文書による著作者と部落解放同盟との論争は続いた。部落解放同盟福岡県連は調査団を岩手県に派遣して、伝承にある「あさみずの里」が被差別部落ではなかったか、それを突き止めるべく仔細に調べ、また著作者側も刊行物が安易に「発禁」とされるのを免れるため、部落解放同盟による撤収要求の正当性(「不当」と訴えたことは皆無だった)を確認するために、数次の督促状を送付した。 1975年9月30日、解放教育研究所の事務局長中村拡三の斡旋で、『わらいおおかみ』の作者と部落解放同盟福岡県連をはじめ関係三団体との直接討論が実現し、6時間に及ぶ真摯な話し合いによって、双方納得の行く合意が成立した。部落解放同盟側は
- 全体的討議を経ないで「撤収要求」を出したのは、遺憾であった。今後、公刊物の撤回を要求する場合は、十分な内部討議を経てからとする。
- さねとうあきら氏の創作の方向性を支持する。ただし、一般人がかりそめにも「部落=悪」と誤解しないよう、慎重な配慮を期待したい。
著作者側は、『わらいおおかみ』の「あとがき」などを工夫して、作意が曲解されぬよう十分配慮すると約束して、全面的に和解するところとなった。(「合意文書」は「解放教育」誌、1975年12月号に掲載されている)
その後、「被差別部落の現状を、肌身で理解してほしい」との要望に応え、さねとうあきらは福岡・熊本・長崎などの部落解放同盟支部を歴訪、その成果を「創作民話」の形にして、部落解放同盟機関紙「解放新聞」に連載、『猪の宮参り』(1988年 明石書店)『おおかみがわらうとき』(1997年 明石書店)『福餅天狗餅』(2005年 解放出版社)などに収めて上梓。また解放教育研究所編集の人権読本『にんげん』に「ばんざいじっさま」「ふたりのデェデラ坊」「つるの便り」等のさねとう作品が採用され、解放教育を推進する有力な教材として、広く活用された。なお、絵本『わらいおおかみ』は、論争終結後も増刷されることなく、現在は絶版になっている。