なら・シルクロード博覧会

1988年に日本の奈良県奈良市で開催された博覧会 From Wikipedia, the free encyclopedia

なら・シルクロード博覧会(なら・シルクロードはくらんかい)とは、1988年4月23日から10月23日まで奈良県奈良市で開催された地方博覧会である。愛称は「シルクロード`88」。

会場内

開催概要

奈良県は1987年に設置100周年、奈良市は1988年に市制90周年を迎えたことを記念して開催された[1]

ユーラシア大陸を東西に結ぶシルクロードは、単なる物流のルートだけでなく、宗教哲学科学技術をはじめ、現代を支える社会システムが生まれ、育て、行きかった道である。シルクロードの文化は海を越えて日本に伝わった。日本で最初の大規模な国際都市だった平城京(奈良市のルーツ)はシルクロードの終着駅であり、日本文化の原点であるとの認識[2]から、シルクロードをテーマにした博覧会が奈良市で企画された。

入場者は682万人。平城宮跡会場以外は奈良公園周辺の会場で行われた。公式マスコット鹿の「ナナちゃん」とラクダの「ララちゃん」で、イラストのほか着ぐるみも出演していた。

主催団体・主要スタッフ

展示施設

オアシス物語館
登大路会場
  • テーマ館(出展者:なら・シルクロード博協会)
  • シルクロードなら館(出展者:奈良県、奈良市)
春日野会場
  • 海のシルクロード館(出展者:なら・シルクロード博協会)
  • 中国古代科学館(出展者:近畿日本鉄道
  • キリンパビリオン(出展者:キリンビール
  • 松下館(出展者:松下電器産業
  • NTT・ふれあいと創造のパビリオン(出展者:日本電信電話・奈良支社)
  • NEC C&Cパビリオン(出展者:日本電気
  • 京セラ館(出展者:京セラ)
  • 富士通AIシアター(出展者:富士通)
  • シルクロード滾滾(こんこん)館
  • ロードサットオアシス物語館(出展者:オアシス物語館実行委員会)
  • イベント・ステージ・ビッグパオ(催事場)
  • '88なら・シルクロード博 特別記念局 (アマチュア無線局コールサイン:8J3SLK)
ふれあい回廊3階に無線局を構え、総交信局数は延べ53,988(国内:45,050、国外:8,938)を数えた。[4][5]
飛火野会場
  • 井上靖「シルクロードの足跡」(出展者:井上靖「シルクロードの足跡」事務局)
  • シャロン 宇宙・夢・旅人館(出展者:シャロン)
  • シルクロード童話館(出展者:なら・シルクロード博協会)
  • ダイワハウスそんごくう館(出展者:大和ハウス工業)
  • タクラマ館(出展者:なら・シルクロード博協会)
  • なら・いいもの・ふむふむ館(出展者:なら・シルクロード博奈良県産業館出展実行委員会)
平城宮跡会場
  • 平城宮跡資料館(既存施設)
  • 遺構展示館(既存施設)
  • 奈良市シルクロード博記念館
シルクロード・モニュメント

登大路会場と飛火野会場を結ぶ春日大社参道に、シルクロードを代表するイメージをもとに製作された計14個のモニュメントが屋外設置されていた[6]

シルクロード大文明展

既存の博物館を中心とした施設で開催された展覧会だった。シルクロード沿線10ヶ国から計649点の文物が展示された。世界初公開、日本初公開とされていた出品もあった。

シルクロード博の企画委員会で、シルクロードに関係した諸国から古代文物を借りてきて展示することが決まった。専門委員会で展示候補品目を選定し、諸外国と交渉した。当時はイラン・イラク戦争の影響で、イランに対しては交渉することすらできず、日本国内の美術館が所有する文物を借りた。イラクについては、藤井秀夫・国士館大学教授(当時)が率いていた調査隊が活動していたおかげで、予想以上の文物を借用することができたが、その搬出は、戦争の爆撃の合間をぬって実施され、開催日にやっと間に合ったようだ。アフガニスタンについても交渉が行われ、先方の承諾がいったんはとれたが、日本政府が正式に認めていない当時のアフガニスタン民主共和国政府から品物を借りてくるのは困ると日本の外務省が主張したことから、結局注視し、代わりにフランスから借りた[8]

会場計画・建築

当初、会場は平城宮跡のみを予定していたが、発掘調査の進行や文化財保護の観点から反対意見が多く、メイン会場は奈良公園へと移された。しかし、奈良公園での開催についても、樹木や芝生への悪影響による自然環境の悪化を懸念する声が上がった。そのため、地下遺構や環境の保全のため、パビリオンなどの軽量化や芝生の原状復帰が徹底された。

さらに、交通渋滞が発生し、市民生活に支障をきたすとの批判も多かったため、奈良市内においてはじめてパークアンドライド方式(マイカーを郊外の駐車場に停め、そこからシャトルバスで会場へ輸送する)が採用された[9]

奈良県は、シルクロード博の会場計画を、建築家の菊竹清訓に直接委嘱し、菊竹は「ハード・プロデューサー」の肩書を与えられた[10]。菊竹は、1970年日本万国博覧会における「エキスポタワー」、1975~76年沖縄国際海洋博覧会における「アクアポリス」など、博覧会建築の経験が豊富だった。菊竹は、シルクロード博覧会の総合プロデューサーを井上靖が担当したこと。東大寺法華堂(三月堂)は、菊竹などが掲げていた「メタボリズム」理論の増・改・移築による高度化を証拠だてるものとして、しばしば論文などで引用してきた伝統建築であること。奈良は古都であるから、日本建築の源泉である遺産が無数に遺されており、日本最初のメトロポリスが奈良だったことなどを、シルクロード博覧会の仕事を引き受けた理由として挙げていた[11]

日本のこれまでの博覧会では、基本的にメインの会場は1箇所である事例が多かったが、シルクロード博覧会は、一つのまとまった敷地を確保することができなかったことから、春日野、飛火野、登大路、平城宮跡の4つに会場を分散した。これらの会場に古代の平城京のグリッドを重ねてみると、いずれもおさまってしまい、平城京の中の会場という見方を菊竹はしていた。仮設会場だけでなく、神社仏閣、公園、博物館、美術館なども含めて、奈良の町全体で博覧会をやるという発想だった。交通機関をきちんと処理すれば、分散会場でも十分やれるのではないかと考え、入場券のシステム、巡回バスシステムなどが副次的に考えられた[12]

三菱総合研究所の調査等により、開催前の総入場者数目標は600万人と設定された[13]。単純計算で1日平均3万3千人、5月と8月のピーク時には1日平均7万8千人の来場者があり、最大停留4万2千人と予測された。4万2千人に対して1人あたり1.18㎡というこれまでの博覧会施設利用の係数を掛ければ、会場面積は合計約5万㎡となる。この中から、神社仏閣、博物館、美術館などを除いて、約半分の2万5千㎡を会場計画の基礎的な数字とした。分散会場方式は、来場者をいかに誘導するかが重要な問題となるので、奈良県庁前~平城宮跡間で無料のシャトルバスが運行された[14]

奈良はいたるところに文化財の埋設物があり、会場には多くの制限があったことから、なるべく荷重の軽い、解体組立ての膜構造でパビリオンが建設された。菊竹よりも若い建築家と一緒にパビリオンが計画された。登大路会場の「総合案内所」「テーマ館」「シルクロードなら館」は、奈良県産スギ材を原材料とした木造格子シェル構造に、テフロン膜を掛けて建設された。これらの設計は土井鷹雄アトリエが手がけたが、木造格子シェル構造自体はフライ・オットーが開発した方式で、日本では初の実施例だった[15]。オットーの母国であるドイツでもやっていない、ロボットクレーンを7台同時に使用する工法で木構造シェルが建設された。組立て期間は、当初は1か月だったが、実際には5日間で終わったようだ。

シルクロード博覧会で、広告代理店が考えた某会社のパビリオン企画案では、その会社の製品パッケージの巨大なものを2つ立てて、その間から入っていくというものだった。これに対して菊竹は、奈良は「千何百年と続いた都だ。その会社のパッケージは百年もちますか。そんな千年も続いている所に、何十年かの瞬間的なものを持ち出してくるのは無知を表明するようなもの」と批判して断ったようだ[16]。これはおそらく、博覧会場と周辺の景観との調和を懸念したものだと思われる。

菊竹は、1980~90年代ごろにおける日本の博覧会は、「現代建築をリードするというような意味をなくして、単なるお祭り、イベントになっている」との認識を持っていた。その上で、「博覧会はもっと未来に対するメッセージを持ち、イメージを社会に問いかけていくべきだと思う」「それがただ単なるお祭りか、あるいはお飾りのハードの遊びに終わってしまうとか、あるいは無意味なオブジェで終わってしまうということでは情けない」と述べていた[17]

交通機関

日野・レインボー7M (P-CH160AA改)
なら・シルクロード博シャトルバス「西遊記」塗装

シャトルバス

鉄道

入場料金

  • 大人 2,500円
  • 高校・中学生 1,400円
  • 小学生 1,000円
  • 幼児(4歳以上) 400円

平城京跡会場の入場は無料。

テーマ曲

閉幕後の存置施設

博覧会のために建設された施設の多くは仮設の膜構造であり、閉幕後は撤去された。開催中に「海のシルクロード館」として使用されていた建物は、翌1989年に「奈良県新公会堂」として開業した。その後、「奈良公園シルクロード交流館」として使われていた建物と施設名を統合して「奈良春日野国際フォーラム 甍〜I・RA・KA〜」となった。

平城筥跡会場の展示施設として建設された「シルクロード博記念館」は、北新大池の西岸に張り出す形で地元企業が建設し、奈良市に無償譲渡された。館内では、平城宮の模型や発掘成果が展示されていた。博覧会が開催された1988年度には約32万人が訪れたが、その後は減少と増加を繰り返し、2005年に休館した。2010年に開催された平城遷都1300年祭ではボランティアセンターとして利用され、奈良マラソン実行委員会の事務局としても貸し出されたが、根本的な再生案を見つけることができないまま、2013年に解体された[18]。この跡地に「平城宮いざない館」が建設された。

脚注

外部リンク

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