ひばり号
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ひばり号の重量は450kgで、運転速度は0.5m/sであった。傾斜長75mで東横百貨店の本館と別館の間を結んでいた。別館の屋上に降りることはできず、別館に到着すると逆向きに戻っていく往復のみの運用となっていた[2]。
ひばり号の色はカラー写真が残っていないため判然としないが、1951年の朝日新聞には「黄と赤のゴンドラ」、同年の読売新聞には「オレンジと黄色」と表現されている。また、当時の乗車切符に描かれたひばり号は朱色で表現されている。なお、当時の写真を見比べると微妙にデザインが変化しており、何度か塗りなおされたと考えられる[2]。
内部は片側6人掛けで、定員が子供12名であった[3]。本館の屋上と別館の屋上に大きく高低差があったため、傾いたゴンドラで運行されていた。そのため内部の床は階段状となっていた[4][3]。
背景
日本の索道

日本における索道は、1890年(明治23年)に足尾銅山、細尾峠に開通した「細尾索道」が最初である。これは貨物を運ぶためのもので旅客用ではなかった。ひばり号のような都市での旅客用索道は、1912年(明治45年)に大阪で通天閣とルナパークの白塔を結んで架設されたものが最初である[5]。これ以降、日本での索道は主に山間部で建設され、市街地のものは東北産業博覧会での架空ケーブルカーのように、博覧会会場のような特殊な場所に限られていた[6]。
日本娯楽機の創業者、遠藤嘉一

日本娯楽機を創業した遠藤嘉一は、1899年(明治32年)に岐阜県揖斐郡に生まれた。岐阜中学校を中退した後、職を転々、弟から勧められた医療器具卸商を始め、1922年(大正10年)には大阪の天王寺に弟、妻と共に「遠藤商店」を開業した[7][8]。夫馬信一は、近くのルナパークのロープウェイが1921年(大正9年)までは確実に存在していたことから、遠藤がここではじめてロープウェイと出会ったかもしれないと推測している[7]。
遠藤は、妻に避妊具のゴム製品を販売させるのは憚られると考え、人を介さずに販売できるゴム製品自動販売機を自作した[9]。これをもとに1924年(大正13年)に看板兼菓子自動販売機「正ちゃん」を制作、これは当時の人気漫画「正チャンの冒険」のキャラクターを無断使用したものであった[9][10]。江崎グリコや森永製菓、新高製菓などが同機を購入、遠藤は東京に販路を拡大した[9]。このヒットの背景には、1923年(大正12年)の関東大震災で商店の屋根に取り付けられていた看板が落下し多数のけが人を出したことがあった。商店は看板を壁にかけるようになったが、人目を惹きにくくなったため、よく目立つ「正ちゃん」が重宝されたという[9][11]。
日本娯楽機の創業
自動販売機がヒットした遠藤は、次にアミューズメント業界へと参入、1928年(昭和3年)に兄と共に「株式会社日本自動機娯楽機製作所」、後の日本娯楽機を設立した。1929年(昭和4年)には当時最先端のアミューズメント施設であった宝塚新温泉に自作の自動木馬「第一号木馬」を二台納入することに成功、これが遠藤が最初に制作したアミューズメント機器となる[12]。
スポーツランドのゴンドラ「航空艇」
1931年(昭和6年)、百貨店の松屋が浅草への進出を図って東武鉄道との間に建物賃貸借契約を締結した。松屋は浅草進出の戦略として直営大食堂とレジャー施設の「スポーツランド」を基軸に据えた。屋上遊園地の発祥は諸説あるものの、このスポーツランドは、常設の屋上遊園地としては最初期のものに当たるとされている。そのスポーツランドの運営に携わったのが日本娯楽機の遠藤であった[12]。当初は大人向けの機器を中心としていたが苦戦したため1932年1月に子供向けの施設に転換、これが功を奏し行列ができるようになった[13]。

1932年(昭和7年)6月25日、松屋のスポーツランドに屋上を往復するロープウェイ、「航空艇」が営業を開始した。これはひばり号と同様に往復のみの運行であった。安全上の理由からか、架設は日本娯楽機ではなく、玉村勇助が足尾銅山から独立して立ち上げた玉村式索道株式会社が担当した。夫馬は、今まで自作遊具を手掛けてきた遠藤にとって、航空艇が他社の製品であったことに対する心理的葛藤を指摘し、この時の「自作」への渇望が、その後のひばり号建設における原動力になったと分析している[14]。
大型遊具への進出

1940年(昭和15年)、遠藤は東京都杉並区の大宮八幡園に、高さ19メートル、走路37メートルの自身初の大型遊具「ウォーターシュート」を建設する[15]。中藤保則は、遠藤が大型遊具に参入した背景として、飛行塔などの各地の遊具施設を手掛けた土井万蔵との交流、取引先の宝塚新温泉で導入された大型遊具を見たことなどから刺激を受けたのではないかと推察している[16]。
宝塚新温泉のロープウェイ
太平洋戦争がはじまると、遠藤は事業の縮小を余儀なくされ、ウォーターシュートも含め各地の遊具の解体が主な仕事となった[17]。トラックを所持していた遠藤は軍の勧誘で輸送隊に入隊、軍需製品の点検などの仕事に従事した[18]。
終戦後の1950年(昭和25年)6月、宝塚新温泉にアトラクションとしてロープウェイが架設された。架設を担当したのは本格索道メーカーの安全索道であった。夫馬は、遠藤がこの頃の宝塚新温泉と関わりを持っていた確たる証拠はないものの、戦前の自社カタログに宝塚新温泉の名前があることなどから、遠藤が航空艇に続くロープウェイとの二度目の出会いを果たし、安全索道からロープウェイのノウハウを吸収した可能性を指摘している[19]。
歴史
東横百貨店の開業
1927年(昭和2年)、渋谷駅に東京横浜電鉄の東横線が開通する。東横線渋谷駅の二階には直営食堂の東横食堂を開業、通勤客などに好評を博し、その人気から店舗の拡張や売店の開店が行われた。この食堂はすでに成功していた大阪の梅田阪急食堂をモデルとしたものだった[20]。東京横浜電鉄の五島慶太は、食堂の成功と当時の渋谷駅周辺に商業施設が不足していたことを理由に百貨店の建設へと動き出した[21]。1933年(昭和8年)に百貨店の建設が開始、1934年(昭和9年)に地下1階、地上7階建ての東横百貨店が竣工した[22]。
東急百貨店によれば、戦前には屋上にゴーカートなどが設置されており、屋上遊園地の原型はこの時点ですでに存在していたという[23]。
玉電ビル(東横百貨店別館)

玉川電気鉄道は渋谷を拠点に鉄道事業を展開していた会社である。東横食堂の成功を受け、玉川電気鉄道も玉電食堂を開業した。玉電も東京横浜電鉄と同様に百貨店を建設する構想が持ち上がり、食堂などが入った「玉電ビル」建設構想へと発展した。1938年(昭和13年)に玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に買収、合併されたが、玉電ビル建設計画は受け継がれた[24]。
合併前年の1937年(昭和12年)より玉電ビルの建設が開始され、1938年(昭和13年)6月時点で基礎工事がほぼ完了した[25]。しかし、日中戦争の長期化で物資の統制がかかるようになり、特に臨時資金調整法、鉄鋼統制令の影響を受けて、当初の7階建ての計画を4階まで建設したところで工事は中断された[26]。実際には場所によって2階建てや3階建ての部分が混在しており、建物全体の高さは一定ではなかった。ひばり号が傾いて運行されていたのはこれが原因であった[27]。
戦災と復興
1941年(昭和16年)には太平洋戦争が勃発、戦火の拡大に伴って各地の遊園施設は次々に閉鎖に追い込まれた[17]。1945年(昭和20年)5月25日から26日の山の手大空襲では東横百貨店が炎上したが、6月6日より地下での営業を再開している[28]。
終戦後に屋上遊園地が復活し始めたのは1949年頃とされる。1949年(昭和24年)4月2日の朝日新聞には、新宿三越支店に初めて屋上遊園地が復活するとの記事が掲載されている。同じ紙面には東横百貨店の屋上遊園開園の広告があり、この頃に東横百貨店の屋上遊園地が開業したとみられる[29]。遠藤が開業当初からかかわっていたのかは定かでないが、1951年(昭和26年)時点で屋上遊園地の運営は遠藤に任されている[30]。
ひばり号の登場

ひばり号が記録上に最初に登場するのは1951年(昭和26年)4月27日の毎日新聞である。この記事によれば、「去る2月から700万円の予算で建設中」とあり、この時点では5月5日から運行を開始する予定であった[30]。6月6日の朝日新聞の記事では、「このほど、やっと黄と赤のゴンドラの取付けまでこぎつけた。」とあり、6月初旬にはロープウェイとして形になっていたとみられる[30]。この記事には「陸運局の許可があり次第、6月20日ごろより開通」とあったが、山手線の上空を通過することから当時の国鉄が待ったをかけ、金網を張るなどの対応で開業延期を余儀なくされた[2][3]。7月18日の読売新聞には25日から試運転が開始されるとあり、実際の開通は8月20日、あるいは25日までずれこんだ[2]。
開業後のひばり号は児童を中心に絶大な人気を博し、乗車待ちの行列が常態化する盛況を呈した[31]。連日午後3時頃には乗車券の販売が打ち切られるほどの活況を見せ、絵本の題材や映画のロケ地として採用されるなど、多方面に波及した[4][31](後述)。俳優の井上順は、幼少期に家族と数回訪れたものの、いずれも長時間の待ち時間を理由に乗車を断念したというエピソードを語っており、当時の混雑状況と、乗車できないまま撤去された「幻のケーブルカー」としての印象を回想している[32]。
ひばり号の撤去
児童から絶大な人気を集めたひばり号であったが、開業からわずか約2年でその姿を消すこととなった。
早期撤去の直接的な要因は、玉電ビルの増築を伴う再開発計画である。1952年(昭和27年)春、東京急行電鉄の五島慶太は、玉電ビルの増築計画を含む「渋谷再開発事業」の調査を建築家の坂倉準三に依頼している。これにより、ひばり号の開業からわずか1年後には、将来的な撤去が実質的に決定づけられていたこととなる[33]。
現存する資料のうち、運行が確認できる最後の記録は1953年(昭和28年)3月21日付の新聞記事である。一方、同年10月28日には玉電ビル増築工事の地鎮祭が行われており、同月に撮影された工事資料写真では、ケーブルは残存しているものの運行は停止している様子が確認できる[34]。
これらの点について夫馬は、児童からの人気の高さを考慮すれば夏休み前に運行を停止したとは考えにくく、同年8月末から10月初旬頃まで運行を継続していたのではないかと推察している[34]。
増築工事の内容は、地上4階建てであった玉電ビルを、地上11階建てへと大幅に拡張するものであった。1953年(昭和28年)10月末に着工し、翌1954年(昭和29年)11月15日に東急会館として竣工した。東急会館は「東横百貨店新館」として開業したのち、「東急百貨店東横店西館」となった[35]。
撤去後
ひばり号が設置されていた東横百貨店は、1967年(昭和42年)に名称が東横百貨店から東急百貨店に改称されている[36]。2013年(平成25年)に東館が閉館し、屋上遊園地のちびっこプレイランドも閉園、この閉園でニチゴが運営する屋上遊園地は0となった[37][注釈 1]。東館の跡地には渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエアが建設された。2020年(令和2年)には残る西館、南館も閉館することとなり、東急百貨店東横店の歴史を振り返る企画展示が行われた。そこにはひばり号を再現したフォトスポットも設置された[38]。
2022年(令和4年)10月、バーチャル空間でのイベント「バーチャル渋谷 au 5G ハロウィーンフェス 2022」が開催され、そのコンテンツの一つとして「ひばり号」が再現された。利用者はゴンドラに乗車し、バーチャル上の渋谷を展望することが可能であった。また、当時の運賃である10円にちなみ、乗車人数1人につき10円を渋谷区へ寄付するチャリティ企画もあわせて実施された[39]。
創作作品での扱い
映画「東京のえくぼ」

動くひばり号を撮影した唯一の映像として1952年の松林宗恵監督の映画『東京のえくぼ』がある。多忙な会社の社長が、新任の秘書に連れられて庶民の暮らしを満喫するという内容であり、その中でひばり号に乗車するシーンが1分ほど収められている。松林のアルバムによれば、作中の二人でブランコで漕ぐシーンは撮影初日に東横百貨店屋上で撮影したものとあり、ひばり号のシーンも初日に撮影したとみられる[4]。
絵本
1952年頃発行の絵本、『ます美の幼児保育絵本「のりもの」』には、明らかにひばり号を意識したロープウェーのイラストが描かれている[40]。1953年の絵本『ひばりのえほん「のりもの」』の渋谷を描いたイラストにもひばり号の姿が見られる。
2016年の西野亮廣の絵本「えんとつ町のプペル」の舞台は渋谷をイメージしており、ひばり号も作中に登場する。同作の映画化では、主人公のルビッチがえんとつ掃除に向かう際にひばり号を使用している[41]。
