わたしはある
旧約聖書および新約聖書の語句
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私は有る(わたしはある、ヘブライ語: אֶהְיֶה[a]、古希: ἐγώ εἰμί[b]、英: I am)は、旧約聖書および新約聖書に登場する言葉である。この言葉はキリスト教徒によって、神学的に重要な意味を持つと考えられている[1][2]。

この言葉はヘブライ語旧約聖書では出エジプト記3章14節で、「אֶהְיֶה(ehyeh、エヘイェ、わたしはある)」、または「אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה(ehyeh asher ehyeh、エヘイェ・アシェル・エヘイェ、わたしは有って有る者)」という形で、神の名として示される。
また、この言葉はギリシア語新約聖書では四つの福音書で、「ἐγώ εἰμί(egõ eimi、エゴー・エイミ、わたしはある)」という形で、イエスが自己言及する際に用いたことが、複数の箇所で記されている。
文法的分析
ヘブライ語
ヘブライ語: אֶהְיֶה(’ehyeh)という語は、הָיָה(hayah)「存在する」という意味の動詞の一人称単数未完了相(imperfective)である。聖書ヘブライ語の動詞は現在・過去・未来の時制ではなく、完了・未完了の相(aspect)を基本として区別する[3][4]。したがって、この動詞の未完了相は「わたしはある(I am)」と「わたしはあるだろう(I will be)」の両方の意味を持つ[5]。
ヘブライ語: אֲשֶׁר(’ăšer)という語は関係代名詞である。英語は that または who など。
ヘブライ語: אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה(’ehyeh ’ăšer ’ehyeh)は、「わたしはある」「わたしは有って有る者」「わたくしはわたしである」などと訳すことができる。この言葉を、七十人訳聖書は「ἐγώ εἰμι ὁ Ὤν」(egō eimi ho Ōn、私は存在する者である)、欽定訳聖書(KJV)は「I Am that I Am」、新国際版聖書(NIV)と標準英語訳聖書(ESV)は「I Am who I Am」と訳している。日本語訳聖書では、口語訳が「わたしは、有って有る者」、新共同訳が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と訳している。
ギリシア語
古代ギリシア語: ἐγώ(egō)という語は、一人称単数代名詞の主格形であり、意味は「私は…」である。古代ギリシア語の動詞は語尾変化のみで主語を特定できるため、通常この代名詞は省略される。敢えて egō を置くことは、「私が…」という強調を意味する。英語は「I」。
古代ギリシア語: εἰμί(eimi)という語は、「存在する」という意味の動詞 εἰμί の現在・能動態・直説法・一人称単数形であり、意味は「私は存在する」「私は〜である」。英語は「am」。
存在動詞と繋辞
存在動詞(〜がある)と繋辞(〜である)は、ある観点からは厳密に区別されるが[6][7]、別の観点からは、両者の過度に厳格な区別が本質的な理解を妨げるとされることがある[8]。
また、テクストに補語が現れておらず、単に「egō eimi(I am)」と見えていたとしても、直ちに無条件に絶対的な存在動詞として解釈できるわけではなく(「私はある、存在する者である」と訳すことができるわけではなく)、特定の補語が省略されている可能性もある(質問や期待に対する回答として「私がそれです」という、より日常的な意味で述べられている可能性)。これらの区別は文脈に応じてなされる。ところで、両者が意図的に重ねられている(神においては本質的に同じである)とする立場もある。
旧約聖書本文
燃える柴
| 口語訳 | 新共同訳 |
|---|---|
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。 |
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 |
| —出エジプト記3章13–15節(口語訳、強調引用者) | —出エジプト記3章13–15節(新共同訳、強調引用者) |
申命記
しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。[注 3]—申命記32章39節(新共同訳、強調引用者)
イザヤ書
わたしの証人はあなたたち。わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。[注 4]—イザヤ書43章10節(新共同訳、強調引用者)
新約聖書本文
イエスとサマリアの女
並行箇所:なし(ヨハネ福音書独自の内容)
女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである(Ἐγώ εἰμι, ὁ λαλῶν σοι)。」—ヨハネ4:25–26(新共同訳、強調引用者)
湖の上を歩く
並行箇所:マタイ14:22–33、マルコ6:45–52、ヨハネ6:16–21。
夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない(Θαρσεῖτε· ἐγώ εἰμι, μὴ φοβεῖσθε.)」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。—マルコによる福音書6章47–52節(新共同訳、強調引用者)
自然界に対する支配の権威を示す場面とされる。
神殿での問答
並行箇所:なし(ヨハネ福音書独自の内容)
| TCGNT | 和訳 |
|---|---|
ἐὰν γὰρ μὴ πιστεύσητε ὅτι ἐγώ εἰμι, ἀποθανεῖσθε ἐν ταῖς ἁμαρτίαις ὑμῶν. |
「…なぜなら、『わたしはある』ということを信じないならば、あなたがたはそれらのあなたがたの罪のうちに死ぬであろうからだ。」 |
| —(引用者強調) | —ヨハネによる福音書8章24節 |
Ὅταν ὑψώσητε τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου, τότε γνώσεσθε ὅτι ἐγώ εἰμι … |
「あなたがたが人の子を高く上げるとき、『わたしはある』ということをあなたがたは知るであろう。…」 |
| —(引用者強調) | —ヨハネ8:24 |
Ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν, πρὶν Ἀβραὰμ γενέσθαι, ἐγώ εἰμι. |
「まことにまことに(アーメン、アーメン)わたしはあなたがたに言う、アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」 |
| —(引用者強調) | —ヨハネ8:58 |
上3つは、イエスが神殿の境内で、仮庵祭(ヨハネ7–8章)のときに、イエス自身が何者であるかということについて「ファリサイ派の人々」や「ユダヤ人たち」と問答を行った際に語った言葉である。イエスが「アブラハムが生まれる前からわたしはある」と言ったとき、「ユダヤ人たち」は石を取り上げてイエスに投げつけようとした(ヨハネ8:59参照)。彼らは、イエスの言葉が冒涜的であると考えた。ヨハネ福音書8章は、石を投げようとする人々(姦通の女に対して)で始まり、石を投げようとする人々(イエスに対して)で終わっている。
弟子の足を洗う
並行箇所:なし(ヨハネ福音書独自の内容)
| TCGNT | 和訳 |
|---|---|
Ἀπ᾽ ἄρτι λέγω ὑμῖν πρὸ τοῦ γενέσθαι, ἵνα, ὅταν γένηται, πιστεύσητε ὅτι ἐγώ εἰμι. |
「今のうちに、それが起こる前に、わたしはあなたがたに言う。それが起こったとき、「わたしはある」ということをあなたがたが信じるようになるために。」 |
| —(引用者強調) | —ヨハネ13:19 |
上の言葉は、イエスが弟子の足を洗う場面で、イエスが弟子たちに語った言葉である(ヨハネ13章前半)。この言葉の直後に、イエスは弟子たちに対して、弟子たちの一人がイエスを裏切ろうとしていると告げる。
終末の徴
イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』(Ἐγώ εἰμι)と言って、多くの人を惑わすだろう。—マルコ13:5–6(新共同訳、強調引用者)
メシアの僭称者の出現を警告する箇所である。
イエスの逮捕
…それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである(Ἐγώ εἰμι)」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである(Ἐγώ εἰμι)」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい(Εἶπον ὑμῖν ὅτι ἐγώ εἰμι· εἰ οὖν ἐμὲ ζητεῖτε, ἄφετε τούτους ὑπάγειν)。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした[注 5]」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。—ヨハネ18:3–8(新共同訳、強調引用者)
最高法院で裁判を受ける
並行箇所:マタイ26:62、マルコ14:61–64、ルカ22:70。(ヨハネ18:12–14。)
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです(Ἐγώ εἰμι)。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。—マルコ14:61–64(新共同訳、強調引用者)
解説
初期教父
アンブロシウス(紀元340–400年頃)は『信仰の解説』(Expositio fidei)3巻で、「わたしはある」という言葉(ヨハネ8:58)を、単にアブラハムに関連するものとしてではなく、アダム以前から存在するという意味を含んだ言葉として解釈した。その理由は、聖書が神の永遠性を示すのが慣例だからである、というものである[9]。
ヨハネス・クリュソストモス(349–407年頃)もまた『ヨハネ福音書注解55講話』で、「わたしはある」という言葉に神学的な意味を見出している。すなわち、「アブラハムが生まれる前から私はあった」と言わずに、「アブラハムが生まれる前から私はある」(ヨハネ8:58)と言ったのは、時間を超越した存在を指し示すためである[10]。
カトリック
現代のカトリックの学問では、福音書に多く見られる「わたしはある」という表現は、神現(英: theophany)に関係すると考えられる。湖の上を歩く場面での「恐るな、私はある」(ヨハネ6:20など)という言葉は、一つには「私である」という物語上の意味があり、もう一つには「嵐に揺れる波の上をイエスが穏やかに歩み、弟子たちを安全に対岸へと導いた」という、より高次の神秘的な意味がある[11]。
現代の福音派
プロテスタントの注解書では、ヨハネ福音書の「わたしはある(エゴー・エイミ)」は、イエスの神性を暗黙のうちに示しているとしばしば述べられる。これは、エゴー・エイミが、出エジプト記3章14節の「わたしはある、わたしはある」(ehyeh asher ehyeh)と強く関連していると想定されるためである[12]。この理由により、英語の注解書は「I am」を「I AM」と大文字で表記することがある。これは欽定訳聖書などの英語聖書がテトラグラマトン「YHWH」を「LORD」(「主)と大文字で表記しているのに準じている。このような表記はカトリックの注釈書にも見られる[13]。
(なお、英語聖書および日本語聖書は、ヘブライ語聖書のエロヒムを God「神」、アドナイを Lord「主」、ヤハウェ(YHWH)を LORD「主」(太字等)と訳している。)
神学的解釈
燃える柴
燃える柴の箇所における神の名「ehyeh asher ehyeh(I AM that I AM)」(出エジプト記3:14)は、次のように解釈されうる。
カトリック
教会博士のアウグスティヌスとトマス・アクィナスは、出エジプト記3:14の「存在」を、 羅: Esse ipsum subsistens(自存的存在)すなわち神自身と同一視し、形而上学において、あらゆる存在を最高度の完全性において規定する「純粋現実態」(羅: actus purus)とした。それは「その本質とその存在が同一であるよう存在」であり、アウグスティヌスによって直観され、トマスによって定式化された[16][17]。
その他の見解
関連する聖書箇所
補語を伴うもの

ヨハネによる福音書では、補語を伴う形でイエスの本質が表現されている箇所が7つ見られる。
- 「わたしが命のパンである[注 6]。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。…」(ヨハネ6:35、新共同訳)
- 「わたしは世の光である[注 7]。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12、新共同訳)
- 「わたしは門である[注 8]。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ10:9、新共同訳)
- 「わたしは良い羊飼いである[注 9]。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。…わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている[注 10]。」(ヨハネ10:11, 14、新共同訳)
- 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」[注 11](ヨハネ11:25–26、新共同訳)
- 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。…」[注 12](ヨハネ14:6、新共同訳)
- 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。[注 13]…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。…」[注 14](ヨハネ15:1, 5、新共同訳)
ヨハネの黙示録
| TCGNT | 和訳 |
|---|---|
Μὴ φοβοῦ· ἐγώ εἰμι ὁ πρῶτος καὶ ὁ ἔσχατος καὶ ὁ ζῶν, καὶ ἐγενόμην νεκρός, καὶ ἰδού, ζῶν εἰμι εἰς τοὺς αἰῶνας τῶν αἰώνων. |
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者であり、生きている者であり、死に至った者であり、見よ、私は世々にわたって生きている。」 |
| —(引用者強調) | —ヨハネの黙示録1:17–18 |