アイク&ティナ・ターナー
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1956年、16歳のアンナ・メイ・ブロック(後のティナ・ターナー)は、彼女の母親、姉妹と同居するために故郷テネシーからセントルイスに移住。
アンナは彼女の姉妹と共に夜な夜なナイトクラブに通い詰め、そのうちのひとつでザ・キングス・オブ・リズム(The Kings of Rhythm)のメンバーとしてステージに立つアイクと出会う。
バンドが聴衆をステージに上げて歌わせているのを見て彼女も果敢にステージに上がり、「アイ・ノウ・ユー・ラヴ・ミー・ベイビー」(I Know You Love Me Baby)をB.B.キングバージョンで歌い上げた。
今も彼女のトレードマークとなっている、喉をきしませる独特の歌い方はアイクを感動させ、仲間内で「リトル・アン」と呼ばれていた少女はバンドのバッキング・シンガーとして雇い入れられた。
ある日、バンドのメインボーカリストがレコーディングに現れなかった際、アイクはアンナを抜擢。当時アイクとの子供を身ごもっていた妊娠8カ月のアンナは「ア・フール・イン・ラヴ」(A Fool in Love)を彼女のボーカルでレコーディングした。
当初はその場限りのつもりであったアイクは、彼女のボーカルを聞いた後、アンナを前面に立ててプッシュしていくことを決め、彼女の芸名をティナに変えて、彼の姓であるターナーを付け加えティナ・ターナーを誕生させた(当時アイクはまだ別の女性と結婚していたが)。
彼はグループ名もザ・キングス・オブ・リズムからアイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューに変えた。
スターダムへ
「ア・フール・イン・ラヴ」はアイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューのファーストシングルとして1960年冬にリリース。ビルボードのホットR&Bチャートの2位、アメリカン・ポップ・シングル・チャートの27位にまで達するヒットとなり、2人は一躍全米クラスの知名度を得る。翌1961年にリリースした、ローズマリー・マッコイ作のセカンド・シングル「イッツ・ゴナ・ワークアウト・ファイン」(It's Gonna Work Out Fine)は、前作に続きホットR&Bチャートの2位、アメリカン・ポップ・シングル・チャートの14位にまで上昇した(この曲にはバックグラウンド・ボーカルとして、一発屋のデュオミッキー&シルヴィアのミッキーが協力している)。 この曲で、2人のコンビは早くも初のグラミー賞ノミネートという快挙を成し遂げる。
1962年の3枚目のヒット「プア・フール」(Poor Fool)も38位まで上昇。しかしながら、彼らの人気を後押ししたのはチャートアクションのみならず、一連のエキサイティングなショウによるところも大きかった。彼らは『シンディグ!』(Shindig!)、『ハリウッド・ア・GoGo』、『アメリカン・バンド・スタンド』などのテレビ上にも積極的に露出し、ティーンエイジャーたちを熱狂させた。1960年代の半ばまでにアイク&ティナ・ターナー・レビューは国民的人気を獲得した。
1966年、フィル・スペクターのフィリーズ・レコードと契約。「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」(River Deep – Mountain High)をレコーティング(アイクは録音に参加せず、ティナの単独レコーディング[注釈 1])。アメリカではBillboard Hot 100の88位までしか上がらずスペクターを失望させたが、イギリスで3位まで上昇する大ヒットとなり、これがきっかけとなってローリング・ストーンズの1966年と1969年のアメリカ・ツアーのサポートアクトに抜擢され、2人は国際的スターへの足がかりをつかむ。
1969年には、ブルース色の強い「オウタ・シーズン」(Outta Season)と、アルバート・キングのカバー「ザ・ハンター」(The Hunter)のリリースでより大きなチャートアクションを獲得。ティナはアルバム『ザ・ハンター』からの「ボールド・ソウル・シスター」(Bold Soul Sister)でグラミー賞ベストR&B女性ボーカルに2度目のノミネートを受ける。
1970年、『エド・サリヴァン・ショー』に出演、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのカバー「プラウド・メアリー」と「ボールド・ソウル・シスター」を披露した。「プラウド・メアリー」は1971年春にシングルとしてリリースされ、ポップシングル・チャートで4位まで上昇し、アメリカのチャートにおける過去最高位を記録、1972年にグラミー賞を獲得した。