アウグスト・トゥヴェステン
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アウグスト・デトレフ・クリスティアン・トゥヴェステン (独: August Detlev Christian Twesten、1789年4月11日 - 1876年1月8日) はドイツグリュックシュタット生まれでベルリンで亡くなった、福音ルター派の神学者であり、キールとベルリンで神学教授を務めた。フリードリヒ・シュライアマハーの弟子であり、政治家カール・トゥヴェステンは彼の息子である。
トヴェステンは、グリュックシュタットで下士官そして後には夜警を務めた父のもとに生まれた。 当初は故郷のギムナジウムに通った。1808年にキール大学で哲学と文献学の勉強を始めたが、わずか2年後には新設されたベルリン大学に移り、神学を学んだ。そこで彼はフリードリヒ・シュライアマハーの弟子の一人となり、やがて親しい友人にもなった。 また、フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ、ルートヴィヒ・フリードリヒ・ハインドルフ、バルトホルト・ゲオルク・ニーブール、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテらの指導を受けた。
1811年に学業を終えた後、彼はハンブルクに移り個人教授や家庭教師を生業にした。ハンブルクがフランス軍に占領される前に再びベルリンへ逃れ、そこでギムナジウムで教鞭を執ったが学問の道を諦めなかった。彼はヘーシオドスに関する論文を執筆し、1813年に博士号を取得した。
1814年にはキール大学で神学と哲学の非常勤教授に任命され、聖書解釈学、論理学、教育学を担当した。ニールス・ニコラウス・ファルク、カール・テオドール・ヴェルカー、フリードリヒ・クリストフ・ダールマンという3人の若手教授とともに、政治雑誌『キール・ブレッター』を発行した。
1816年、トヴェステンはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ノルトフリースラント郡フーズムの法学者で郡長官を務めたジークフリート・ベーレンスの娘、カタリーナ・アマリア・マルガレーテ・ベーレンス (独: Catharina Amalia Margarethe Behrens) と結婚した。 結婚後5人の子どもが生まれたが、そのうち2人は生まれてまもなく亡くなり、娘アグネス (独: Agnes) は若くして亡くなった。政治家カール・トヴェステンは彼らの息子であったが、トヴェステンより先に亡くなった。 唯一の孫であるエレン・ウィルキンソン (独: Ellen Wilkinsonは) 、末娘ルーシー (独: Lucie) の娘であり、トヴェステンの教え子で伝記作家のゲオルク・ハインリツィの妻となった。
1818年、彼はボン大学から招聘を受けたが、これを辞退した。1819年にはキール大学で組織神学の非常勤教授に任命され、引き続き哲学の講義も行った。1826年にはボン大学神学部から名誉博士号を授与され、同年中にダンネブロ勲章を受賞した。
1830年にはキール大学の学長職を引き受け、1834年にはフリードリヒ・シュライアマハーの後任としてベルリン大学に招聘された。翌1835年にはベルリンの「自由討論協会)」に入会した。1841年には枢機卿会議のメンバーとなり、1852年には枢機卿会議の上級評議員 (独: Oberkonsistorialrat) に昇進した。
トヴェステンは通算6回、大学の学長を務めた。キール大学では1830年〜1831年、1850年〜1851年、1860年〜1861年、ベルリン大学では1839年〜1840年、1850年〜1851年、1860年〜1861年である[1]。
トヴェステンは1876年初頭、86歳でベルリンにて亡くなった。彼はハレ門の前にあるトリニティ墓地1の家族墓所に埋葬された。妻のカタリーナ・アマリア・マルガレーテ (独: Catharina Amalia Margarethe、1795年 – 1878年) も、2年後に同じ場所に葬られた。
漆喰で仕上げられたレンガ造りの墓壁には、大理石の銘板が6枚取り付けられており、そこには埋葬された家族の名前が刻まれている。アウグスト・トヴェステンの銘板には、故人の横顔を浮き彫りにした円形レリーフが施されており、彫刻家オットー・ガイヤーによる作品である[2]。
神学と著作
トヴェステンは、キールでの学生時代からすでに神学的合理主義を否定していた。若き教授としては自由主義的な新聞に関わり、カントについての講義も行っていた。彼にとって論理学は神学と哲学の補助学問であった[3]。
クラウス・ハルムスとは、正統的ルター派への親近性を通じて結びついていた。 ハルムスは、トヴェステンの義父の仲介によってキールに招かれた人物であり、両者の関係を表す言い回しとして「トヴェステンが聴衆を回心させ、ハルムスがその後に洗礼を授ける。 (独: westen bekehrt seine Zuhörer und Harms tauft sie alsdann.) 」という言葉が広まった[4]。ただし、トヴェステンは敬虔主義的なリバイバル運動には批判的な立場を取っていた。
トヴェステンの神学的著作は比較的少なく、彼自身は大学教育を最も重要な活動領域と見なしていた。1825年の『分析論理学概論(独: Grundriß der analytischen Logik) 』(1834年にショーペンハウアーが再刊) や、福音主義ルター派教会の教義学に関する講義は、彼の教育活動から生まれたものである。彼の主著である教義学の第1巻は1826年に初版が刊行され、1838年までに4版を重ねたが、未完のまま終わった。この著作において、トヴェステンは媒介神学者としての姿勢を示しつつ、ルター派正統主義への傾倒も見られる。
また、1844年に出版されたグネジオ・ルター派の神学者マティアス・フラキウス・イリリクスに関するモノグラフも講義をもとにしたものであり、彼の業績を高く評価している。1855年には、1610年に刊行されたルター派教義の手引書『神学命題集(Compendium Locorum Theologicorum)』をレオンハルト・フッターの名で編纂・出版した。
晩年には、師であるシュライアマッハーの講義に関する自身の筆記録を出版し、その倫理学には序文を添えた。シュライアマッハーとの書簡集は、ゲオルク・ハインリツィによって編纂・刊行された。