アウンシュエ
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軍歴・官歴
1919年5月19日、ヤンゴン生まれ[要出典]。1940年、ヤンゴン大学を卒業後、1942年にビルマ独立義勇軍(BIA)に参加。イギリス軍再占領後再編された国軍にも参加した。1958年にはウー・ヌ内閣の親左派路線に反発して、国軍北部軍管区司令官だったアウンシュエはクーデターを画策して、ネ・ウィン選挙管理内閣が誕生するきっかけを作った[1]。1962年3月2日、ネ・ウィンがクーデターを起こしてビルマ連邦革命評議会が成立すると、当時、南部軍管区司令官だったアウンシュエは退役を求められ、オーストラリア、ニュージーランドの大使となった。アウンサンスーチーは、アウンシュエが退役させられた理由を、ウー・ヌの連邦党が大勝した1960年の総選挙で、国軍がウー・ヌのライバルの安定AFPFLを支援したことの詰め腹を切らされたと推測している。その後、アウンシュエは、エジプト、フランス、スペインの大使を歴任し、1975年に公職から引退した[2][3]。
NLD議長として
8888民主化運動の際、アウンシュエは再び表舞台に復帰。1988年9月、国民民主連盟(NLD)に参加、中央執行委員の1人となる。そして、1989年7月20日、NLD議長のティンウーと副議長のスーチーが自宅軟禁下に置かれ、1990年総選挙に大勝した後、暫定的な議長だったチーマウンも逮捕されると、アウンシュエは新議長に就任した[3]。就任早々、アウンシュエは、国家秩序回復評議会(SLORC)が主催する制憲国民議会への参加とスーチー、ティンウー、チーマウンを党から除名する難しい選択を迫られたが、結局、党存続のために後者を選択した[4][5]。
1995年7月10日、スーチーが6年ぶりに解放されると、アウンシュエは議長職を維持したまま、実質的なリーダーの座をスーチーに返還した。スーチーが自宅軟禁中、アウンシュエは実効性のある行動を取らなかったと党内外からの批判が高まったが、スーチーは「ウー・アウンシュはNLDの結束を維持するため、そしてSLORCとの調和の取れた関係を築くために、非常に尽力した」と彼を擁護した[6]。
2003年5月、スーチーが、三度、自宅軟禁下に置かれると、アウンシュエは再び党の実質的なリーダーとなった。この間、アウンシュエは党勢を拡大することができず、国内外から大きな批判を浴びた[7][8]。
2010年の11月13日、スーチーが三度、解放されると、アウンシュエは党議長を辞任した[要出典]。