ビルマ国民軍

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ビルマ国民軍(ビルマこくみんぐん、Burma National Army, BNA / ビルマ語: ဗမာ့အမျိုးသားတပ်မတော်)あるいはビルマ国軍は、第二次世界大戦中に日本の指導下で「ビルマ国」の国軍として編成された軍事組織である。ビルマの戦いにおいて日本軍に協力することが期待されたが、枢軸国が劣勢になるとビルマ国政府に対して反乱を起こし、日本軍とも戦闘した。戦後のミャンマー軍の前身とみなされている。

ビルマ独立義勇軍

本稿では、前身であるビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army, BIA)およびビルマ防衛軍(Burma Defence Army, BDA)、反乱後に連合国指導下で活動した後身のビルマ愛国軍(Patriotic Burmese Forces, PBF, 直訳的にはビルマ人愛国者部隊)についても述べる。

沿革

ビルマ独立義勇軍

アウンサン

第二次世界大戦前、 イギリス統治下のビルマ英領インド(ビルマ)軍への現地人関与はカレン族など少数民族だけに限られていた[1]。一方、独立運動を展開していたタキン党は、1938年の1300年革命の挫折を経て、1939年頃から武装闘争を画策しており、兵器の供給先候補として中国国民党中国共産党インド国民会議が挙がっていた。1940年8月、アウンサンはタキン・フラミャイン[注釈 1]とともに、中国共産党との接触を図るべく、中国人苦力に変装して、中国人船ハイリー号(海利号)に乗り込み、ビルマを脱出、8月8日厦門に到着した。しかし、そこで日本軍憲兵に発見され、2人は東京に連れていかれた。当時、読売新聞記者・南益世と名乗ってミャンマーで諜報活動をしていた鈴木敬司大佐が、タキン党のメンバー2人が密出国した情報を入手し、アモイの日本租界の憲兵隊に事前に連絡していたのだ[2]

東京でアウンサンは、先に東京に戻って羽田飛行場で出迎えた鈴木から日本軍に協力するように要請された。当時、日本陸軍は、日本がイギリスと戦争状態となった場合のビルマ侵攻作戦を想定しており、日本軍に協力的な現地人組織の育成を図ろうとしていた[3]ナガニ図書クラブ英語版ビルマ語版から出版されていた『日本のスパイ[注釈 2]』という本で、日中戦争における日本の蛮行を知っていたアウンサンは、当初日本との協力に躊躇したが[4]、結局、鈴木に説き伏せられ、両者はタキン党が日本軍のビルマ侵攻に協力する代わりに、日本がビルマの独立を約束することで合意した。しかし、「ビルマ独立」は鈴木の独断で、参謀本部の許可を得ていなかった[2]

鈴木敬司

1941年2月1日、ビルマ独立支援の謀略を担当する特務機関として「南機関」が設立された。アウンサンは再び中国人に変装して海路でビルマに戻り、タキン党と全ビルマ学生連合(ABSU、全ビルマ学生組合連合英語版《ABFSU》の前身)から、のちに「30人の同志」呼ばれる若者たちを募り、同年3月から10月まで、当時日本軍の占領下にあった海南島で厳しい軍事訓練を受けた。南機関としては、訓練を施した彼らをミャンマーに帰国させ、ビルマ公路遮断工作をさせる計画だった。しかし、同年12月8日、太平洋戦争が勃発して日本と米英が戦争状態に入ると、謀略でミャンマーに介入する必要性が薄れ、直接ミャンマーに侵攻させる作戦が企図されるようになった。しかし、参謀本部に無断でアウンサンらにミャンマー独立を約束した手前、南機関の謀略を中止するわけにはいかなかった鈴木は、30人の同志を核にビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army:BIA)を結成することにし、南方軍総司令部とその傘下の第15軍には「日本軍を補助するミャンマー人の義勇兵」と、アウンサンらには「ミャンマー独立を達成するためのミャンマー人軍隊」と説明した[2]

そして、アウンサンらは南機関とともにバンコクに拠点を移し、在泰ミャンマー人の間から100人以上の義勇兵を募って、同年12月28日、BIAが結成された。その際、メンバーは過去のビルマの貴族の儀式に則り、指を切り、血を注ぎ、忠誠の誓いを立て、30人の同志にはそれぞれに戦闘名が与えられた。独自の階級制の下、司令官9人のうち7人は南機関所属の日本人で、最高司令官には鈴木がビルマ名ボー・モージョー[注釈 3]を名乗って就任し、アウンサンは少将の地位を与えられ司令部に配属された。日本から支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された[2]。南機関員や現地商社員の義勇兵など日本人74人も参加した[要出典]

1942年1月3日、BIAはビルマ侵攻作戦に参加し、複数のルートでミャンマーへ進軍した。BIAは、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進、一部では敗走中のイギリス軍と交戦した。映画スターのチョースウェビルマ語版(Cf.ミャンマーの映画#愛国プロパガンダ映画)とティンペ(Tin Pe)が入隊したことによりBIAは人気を博し[5]、ビルマ攻略戦終結時にはBIAの総兵力は約2万7千人に達したとされる[6][7]

しかし、その任務は戦闘よりも民衆工作に置かれ、あくまで補助的な役割だった。また、モーラミャインにBIAが入城した際[注釈 4]、鈴木との約束で独立宣言がなされることになっていたが、先に同市を占領していた第55師団はそれを許さず、それどころか、あらゆる政治活動、徴兵を禁止するという事態が生じた[8]。3月8日にはラングーンを占領し、3月25日に4500人による観兵式を行い、人々に熱狂的に歓迎されたが、やはりそこでも独立宣言はなされなかった[9][注釈 5]。南方軍総司令部および第15軍は、1941年11月20日に大本営政府連絡会議で決定された「南方占領地行政実施要綱」に従い、当面、ミャンマーには軍政を敷く予定だった[10]。日本軍の目的が明白となり、BIA内部では抗日の動きも出たが、アウンサンは現状勝機なしと判断し、BIAに戦闘経験を積ませるために、「北伐戦」と呼ばれた日本軍四個師団によるミャンマー中央部の英印軍掃討作戦に従事した[注釈 6][11][2]

ちなみにビルマ侵攻作戦の際、1942年1月から7月まで地方で権力の空白期間が生じた際、タキン党のメンバーが、全土40県のうち17県に「バホウ(ビルマ語: ဗဟို、「中央」)政府」という臨時行政府を設置して、徴税、交易の監督、治安など行政の一端を担った。しかし、一部BIAまたは自称BIAのモラルが非常に低く、彼らは町に到着すると、まず公開処刑を行って住人の恐怖を煽り、当時激増していた殺人や強盗などの凶悪犯罪を取り締まり、個人が所有する銃をすべて没収した[12]エーヤワディ地方域ミャウンミャではビルマ族のBIAが、カレン族の元英植民地軍兵士から銃を没収しようとして、両者の間で衝突が発生し、推計5000人の死者と1万8000人の避難民が発生する事件が起きた(ミャウンミャ事件[13]。結局、6月4日に日本軍が軍政を布告したと同時に、バホウ政府は解散させられ、南機関も解散となり、鈴木は日本に帰国した[14]

ビルマ防衛軍

BDA設立

軍政を敷いた日本は、元英領ビルマ首相バー・モウを首班とする自治政府の整備を進めた。同時に、日本軍は、BIAの縮小再編を進める方針を決めた。これは、民族主義者、政治活動家、農民、はては犯罪者まで紛れ込んで肥大化したBIAを規律のとれた国軍として整備する意図と、アウンサンらがビルマ人の支持を集めて日本の占領統治の妨げとなることへの危惧から、決まった方針だった[7]

1942年7月、アウンサンらに同情的だった南機関とともにBIAは解散となり、3個大隊(2800人)からなるビルマ防衛軍(Burma Defence Army:BDA)が設立され、ピンマナに本部が設置された。BDAの地位は、自治政府の下ではなく日本軍の補助部隊であり、第15軍[注釈 7]司令部に隷属した。入隊者の選別の権限を与えられたネ・ウィンは、BIAのメンバーから「偽善者」を排除するように指示したとされる。結果、BDAのメンバーのほとんどはビルマ族となり、彼らはピンマナの軍事施設で寝食を共にして、共に訓練に励み、日本語を学び、同胞意識を育んだ[15]

翌年までにBDAの兵力は8,000人にまで増え、1943年8月に日本がビルマに名目上の独立を認めた頃には、2個工兵大隊、2個対空大隊、補給輸送大隊、自動車輸送大隊、カレン歩兵大隊が増設され、兵力は1万5,000人にも上った。カレン部隊の設立は、ミャウンミャ事件で対立したビルマ族とカレン族の融和を図ることを目的としていた[16]。新兵の募集は将校たちがそれぞれの故郷に赴いて、親類縁者を頼りに行ったので、軍隊の同質性・絆はますます深まった[17]

しかしBDAは、日本軍による大規模な軍事作戦においては、小規模な部隊が前線に配属されたのみで、一度も本格的に従事したことがなかった。彼らは主にラカイン州での道路建設、ヤンゴンでの空襲対策、軍需品の製造、一般的な駐屯および警備に従事するのみで、このような扱いにBDAの将校・兵士たちは不満を溜め込んだ[18]

士官学校

1943年3月には、幹部候補養成のためにミンガラドンに士官学校(OTS、Bo Thindan Kyaung)が設立された[7]。第1期生として合計300人の士官候補生が入学したが、そのうち250人はBDAから、50人はバー・モウの推薦だった。OTSはミャンマーの若者の間で熱狂的な人気があり、翌1944年の第2期生は400人に上った[注釈 8]。BDAからの入学者の選抜はネ・ウィン以下元30人の同志のBDA将校が、以下のような試験を課して精神力の強靭さを基準に選んだ[19][20]

彼らはイェバウ(同志)の粘り強さと精神的強靭さをテストした。このテストでは、イェバウはマンダレー・ヒルの工兵・鉱夫の練兵場に整列させられ、毎朝7時から10時まで直立不動の姿勢を取るよう命じられた。その間、何人かのイェバウは膝を曲げて倒れ、他のイェバウはめまいを起こした。大隊の指揮官は、どのイェバウが粘り強く毅然としていて、どのイェバウがそうでないか、どのイェバウが姿勢を保ててどのイェバウがそうでないか、またどのイェバウが姿勢を保てないかを、絶えず観察することができた。この試験方法の一環として、兵士たちにはカレー抜きのご飯が出されることもあれば、食事がまったく出されないこともあり、試験官が兵士たちの目の前で炊いたご飯から生煮えのご飯をこぼしてみせることもあった。また彼らは王宮の堀の周囲を走り、命令に従ってライフルを100回上下に振り上げ、ワニのようにライフルを持って、棘のある藪の中や鋭い小石の上を這わなければならなかった。

しかし、OTSの7か月の訓練中は、BDAの将校たちは関与できず、教官や管理人はすべて日本人だった。無論、使用言語は日本語、朝から晩までの厳しい学習、訓練、勤務はすべて日本式で行われたが、時折、日本人教官が、ビルマの伝統に反して士官候補生の頬を平手打ちなどして、両者の関係を悪化させた[20]。ちなみに優秀な成績でOTSを卒業した者は、日本の陸軍士官学校へ留学できた(第1期生からは30人が陸士57期生に、第2期生からは40人が陸士58期生に編入)[21]。OTSの厳しい生活もやはり強い同胞意識を育み、のちに抗日蜂起を企てる抗日ネットワークも秘密裏に学校内に築かれた[20]

陸軍省

日本軍は、BDAの設立、維持、発展よいう任務を遂行するために陸軍省を設けた。当初は日本人将校が3分の2、ビルマ人将校が3分の1という配分だったが、次第に日本人要素は削減され、アウンサンとネ・ウィンが取り仕切るようになり、人材はヤンゴン大学の学生から採用した[22][23]。1944年以降はほとんど日本人は関与せず、抗日ネットワークの拠点となり、省内の印刷機を利用して抗日パフレットを作成して配布したり、BDAの強化を目的とした転勤、昇進、配置替えの人事を遂行したり、軍施設の視察や公式訪問名目でビルマ各地を訪れ、抗日運動の参加者を募ったりした。陸軍省のメンバーはOTS卒業生とともに、のちの抗日蜂起において指導的役割を果たした[24]

ビルマ国民軍

1943年11月、大東亜会議に出席したバー・モウ(向かって一番左)。ビルマ国民軍の軍服を着用している。

1943年(昭和18年)8月、バー・モウを国家元首(Naingandaw Adipadi)兼首相とする「ビルマ国」が成立。BDAは、その国軍であるビルマ国民軍(Burma National Army:BNA)に再編された。軍事担当の官庁として国防省が置かれ、アウンサンが国防相に就任し、BNA最高司令官も兼任した。

そして、インパール作戦の失敗により日本軍の劣勢が決定的となった1944年8月[25]、アウンサンは、これ以上の対日協力に意味はないと判断し、BNA、ビルマ共産党(CPB)、人民革命党英語版(PRP)の3勢力を結集して反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、当初の名称は、反ファシスト機構《AFO》)を結成した[26]。またミャウンミャ事件で亀裂が生じていたカレン族との融和を図るために、170人のメンバー全員カレン族からなるカレン大隊を1個結成し[27]、日本軍が結成したミャンマー・インド国境地帯のラカイン族からなるアラカン防衛軍(ADA)、チン族からなるチン防衛軍(CDA)とも密かに繋がり、連合軍側との協力体制も築いた。しかし、同時期に連合軍がビルマの辺境地帯で結成していたカレン族やカチン族からなる136部隊英語版との関係は緊張を孕んでいたのだという[28]

1944年12月から始まったイラワジ会戦では日本軍の戦況は著しく悪化し、1945年1月、桜井徳太郎少将が軍事顧問部長に着任すると、ついにBNAの前線投入がついに発案された。検討の結果、3個大隊3000人の派遣軍を遊撃戦や後方支援用として出動させることになり、3月17日にヤンゴンで出陣式を開催。桜井少将は、大規模な民兵の整備などを構想していたのだという[29]。しかしBNAおよびAFPFLは、すでに抗日蜂起を決意しており、これ以前に、メイッティーラ駐屯の第5歩兵大隊が、1945年2月28日に大隊長に率いられて集団脱走しており、3月8日には北部の一部の部隊が公然と反乱を開始していた[30]。そして3月27日、アウンサンは、全軍へ、バーモウ政権に対する反乱を命じ、BNAは日本軍への全面攻撃を開始した。この際、アウンサンは、指導を受けた日本人軍事顧問の殺傷は避けるよう指示していたが、徹底されなかった[31]。そして同年5月1日、ヤンゴンは解放され、数か月後、日本軍はビルマから完全撤退した[32]

ビルマ愛国軍

1945年5月、交渉の末に連合国軍の指揮下に入った旧BNAは、ビルマ愛国軍(Patriot Burma Force:PBF)と改称した。6月15日にラングーンで行われた戦勝パレードにも参加した[33]。8月の日本軍との停戦成立後、PBFはもともと連合国側だったカレン族部隊などと統合され、ミャンマー軍(以下、国軍)となった。

ちなみに30人の同志の中で、独立後の新生ミャンマー軍(国軍)に残ったのはネ・ウィン、チョーゾー、ボー・バラの3人だけである。しかし、チョーゾーは1957年、ボー・バラは1958年に退役しており、実質残ったのはネ・ウィンだけだった[34]。このようにアウンサンスーチーが「父の軍隊」と呼んだ国軍は、アウンサンが率いた国軍とはまったく異質のものだった[35]

その後、残りのメンバーの多くが反政府武装勢力に参加している[34]

  • 人民義勇軍(PVO)…ボー・ラヤウン、ボー・ターヤー
  • ビルマ共産党(CPB)…ボー・ヤンアウン、ボー・イェトゥッ、ボー・ゼヤ、チョーゾー
  • 議会制民主主義党(PDP)…ボー・レッヤ、ボー・ヤンナイン、ボー・ムアウン、ボー・セッチャー

8888民主化運動の際には、ボー・ヤンナイン、ボー・イェトゥッ、ボー・ポウンミン、ボー・タウテイン、ボー・ソーナウン、ボー・ターヤー、ボー・ムアウン、ボー・バラ、ボー・ズィンヨーの、当時存命していた30人の同志11人のうち9人がネ・ウィンを批判する声明を出した。残りの2人はネ・ウィン自身と、CPBで総司令官を務めていたチョーゾーである[36]

編制

1942年8月時点のビルマ防衛軍

総兵力は、2800人。指揮系統上、日本の第15軍兵備局に隷属する[37]

  • 軍司令部 - 司令官:アウンサン大佐
  • 歩兵大隊 - 第1-第3大隊の3個。各4個中隊と機関銃中隊から成る。
  • ビルマ幹部候補生隊 - ミンガラドン士官学校とも。
  • ビルマ国防軍指導部 - 日本の軍事顧問団

1945年3月時点のビルマ国民軍

総兵力は、約1万-1万5千人。国防省の職員として約430人[38]

装備

ビルマ国民軍の主要装備は、日本軍がイギリス軍から鹵獲して供与した小火器や対空砲だった。対空砲では、イギリス製のQF 3.7インチ高射砲の使用が確認できる。日本製兵器では、三八式歩兵銃南方軍が現地で生産した軍刀があった[38]。なお、ビルマ独立義勇軍結成前の最初期の訓練には、日本軍の関与が発覚しないよう日中戦争で鹵獲した外国製兵器が使用されていた[40]

正規の軍装は日本軍に準じたもので、日本陸軍の防暑衣などに酷似していた。日本軍との識別のため、略帽には白線が巻かれていた[38]

戦歴

ビルマ独立義勇軍として、日本軍・インド国民軍とともにイギリス軍と交戦した。ビルマ国民軍の反乱後は、日本軍と交戦した。

日本軍のビルマ侵攻作戦では、川島威伸大尉(BIAでは「中将」)率いる独立義勇軍部隊が、1942年3月6日にゲリラ攻撃で大きな戦果をあげたと称している。この日、ペグー南方のマンダレー街道で待ち伏せしていた川島兵団200人は、通りかかったイギリス軍のユニバーサル・キャリア3両を銃撃した。この戦闘で、川島兵団は、イギリス軍のウィンカム准将と中佐3名を戦死させ、このことはイギリス側の戦史でも確認できると言われる[41]

また、同じく1942年3月末に起きた、シュエダウン(プローム(現ピイ, en)南方13km)の戦闘では、平山中尉(BIAでは「大佐」)を長とする平山支隊が、日本軍と共同で比較的に大規模な作戦を行った。平山支隊は、ビクトリアポイント(現コートーン, en)から舟艇機動により、3月5日にラングーン近くに到着、さらにイラワジ川を遡上して上陸していた。平山支隊は、日本軍第33師団歩兵第215連隊第2大隊と連絡すると、シュエダウンでプローム街道を遮断した。分断されたイギリス軍は、3月29日、3個歩兵大隊や第7軽騎兵連隊の戦車30両で反撃を開始し、激戦となった。戦車に慣れていないビルマ独立義勇軍兵士は混乱を起こしつつ戦い、平山支隊長以下半数以上の隊員を失った。他方のイギリス軍は街道を突破したものの、死傷350人・戦車10両喪失などの大きな損害を受けた。バー・モウは、このシュエダウンの戦闘がビルマ独立義勇軍の兵士に軍人としての自覚と充足感を与えたと評価している[42]

脚注

参考文献

関連項目

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