アカディ
カナダ東部の旧名
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アカディ(仏: Acadie、英: Acadia)は、カナダ東部の沿海州を中心に、フランス語を話すアカディ人が居住する地域の総称であり、明確な行政上の境界を持たない文化的・歴史的地域である。アカディーとも表記される。アカディ人が暮らす共同体の集合とされ、一つの「民族(ナシオン)」と見なされる[2]。その範囲は、おおむねニューブランズウィック州の北部と東部、プリンスエドワードアイランド州・ノバスコシア州・ケベック州に点在する諸地域、さらにアメリカ合衆国メイン州の北部などを含むとされる。ニューファンドランド・ラブラドール州のフランス系住民も、この定義に含められることがある[3]。
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アカディ人の民族旗(1884年制定) | |
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アカディの主要な地域と集落 | |
| 現地語名 |
Acadie(フランス語) Acadia(英語) |
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| 主な地域 | ニューブランズウィック州北部・東部、ノバスコシア州、プリンスエドワードアイランド州、ニューファンドランド・ラブラドール州の一部、メイン州北部など |
| 人口 | 約50万人(アカディ系)[1] |
| 言語 | フランス語、英語 |
| 標語 |
L'union fait la force (団結は力なり) |
| 賛歌 | 『アヴェ・マリス・ステラ』 |
| 記念日 | 8月15日(聖母被昇天) |
歴史的なアカディは、1604年にヌーベルフランスの一部として建設されたフランス植民地であり、先住民ミクマクの土地の上に成立した。1713年にグレートブリテン王国に割譲された後、1755年から1763年にかけて住民が強制移住させられる「大動乱」(アカディ人追放)を経験し、その領域は解体された[4][5]。流刑から帰還したアカディ人は、カトリック教徒とフランス語系の制度を排除する差別的な法制度の下に置かれたが、19世紀後半の「アカディ・ルネサンス」を通じて自らの歴史と文化を再構築し、1881年の第1回アカディ民族会議以降、民族旗・賛歌・祭日などの民族的象徴と独自の諸制度を整えていった[6]。
今日のアカディは固有の政府を持たず、アカディ民族協会(SNA)が対外的な代表機関(フランコフォニー国際機関の参加等)の役割を担う。文化面ではアントニーヌ・マイエに代表される文学、活発な音楽シーン、モンクトン大学を中心とする教育・研究網が知られ、5年ごとに開催されるアカディ世界大会(世界アカディアン会議)は世界中のディアスポラを結び付ける最大の行事となっている[7]。
名称
「アカディ」の名は、1524年にフランス王フランソワ1世に仕えたイタリア人探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが「アルカディア(Arcadia)」の形で初めて用いたとされる。本来は現在のデラウェア付近の大西洋岸を指した呼称で、樹木の美しさが古代ギリシアの詩人たちが理想郷として描いたアルカディア地方を思わせたことに由来する。16世紀から17世紀初頭にかけて、この名は地図製作者によって海岸沿いに北方へと移され、1620年代までには現在の沿海州を指す呼称として定着した[8]。一方、一部の歴史家は、ミクマク語で「野営地」を意味する algatig、あるいはマリシート=パサマコディ語に由来するという説を唱えている[4]。
住民は英語で「アケイディアン(Acadians)」、フランス語で「アカディアン(Acadiens)」と呼ばれ、日本語では「アカディ人」「アカディア人」「アカディアン」などの表記が併用されている[2]。
定義と範囲
アカディには法的に定められた境界が存在せず、その範囲の捉え方は論者によって異なる。地理学者アドリアン・ベリュベは1979年に、アカディの領域認識を次の4つに分類した[3][9]。
- 歴史的アカディ - 1763年まで存在したフランス植民地アカディの領域。今日の沿海州にメイン州東部とガスペ半島を加えた範囲にほぼ相当する。
- 系譜的アカディ - アカディ人追放の難民とその子孫が住む全ての土地。ルイジアナ州のケイジャン地域(アケイディアナ)、ケベック州、ニューイングランド、フランス本国などを含む。
- 実効的アカディ - 大西洋州のフランス系コミュニティの総体。最も一般的に受け入れられている定義であり、本項が主に扱う範囲である。
- 展望的アカディ - 人口が最も集中するニューブランズウィック州内のアカディ人地域のみを指す最小の定義。アカディ州構想の基礎となる考え方である。
最も一般的な第3の定義によれば、アカディの中核はニューブランズウィック州の北部から東部にかけて三日月状に広がる地域である。具体的には、マダワスカ郡、レスティグーシュ郡、アカディ半島を擁するグロスター郡、ケント郡、そしてモンクトン・ディエップ・シェディアック・メムラムクックなどを含むウェストモーランド郡中部である[10]。
ノバスコシア州では、南西部のクレア(サント・マリー湾地域)とアーガイル、ケープブレトン島のシェティキャンプ周辺とマダム島などにアカディ人地域が点在する[11]。プリンスエドワードアイランド州では西部のプリンス郡(エヴァンジェリン地域、ティグニッシュなど)が中心であり、ニューファンドランド・ラブラドール州では西海岸のポール・トー・ポール半島が主要なフランス語系地域である[3]。このほか、ケベック州のマドレーヌ諸島やガスペ半島の一部、メイン州北部のマダワスカ地方もアカディと結び付けて語られることが多い[12]。
地理
自然
アカディの領域はアパラチア山脈の北端部に位置する。最高峰はニューブランズウィック州のカールトン山(標高817メートル)で、これは沿海州3州を通じての最高地点でもある[13]。ケープブレトン島には標高500メートル級の台地が広がる一方、プリンスエドワードアイランド州は全体に低平である。主要な河川には、シャルール湾に注ぐレスティグーシュ川とネピシギット川、セントローレンス湾に注ぐミラミシ川、ファンディ湾に注ぐプチコディアック川とセントジョン川がある[8]。
気候
気候は大西洋の影響で和らげられた湿潤大陸性気候であり、冬は長く積雪が多い。暖流のメキシコ湾流と寒流のラブラドル海流がぶつかる海域では、しばしば濃い霧が発生する。沿岸では時に激しい暴風が吹き、1959年のエスキュミナック災害ではノーサンバーランド海峡の漁民35人が暴風雨で命を落とした[14]。
歴史
先住民とフランス植民地時代
この地域には数千年前から先住民が暮らしており、紀元前500年頃までにはミクマクやマリシートの文化が形成されていた。ミクマクはこの土地を「ミクマキ」と呼んだ[4]。1534年にジャック・カルティエがミクマクと接触した後、1604年にピエール・デュガ・ド・モンがサミュエル・ド・シャンプランらを伴ってサント・クロワ島(現メイン州)に入植し、フランス植民地アカディが建設された。最初の冬に壊血病で多数の死者を出したため、植民地は翌1605年に現ノバスコシア州のポール・ロワイヤルへ移された[4][5]。
入植者は主にポワトゥー・サントンジュ・オニスなどフランス西部から渡来し、ファンディ湾岸の塩性湿地を「アボワトー(aboiteau)」と呼ばれる独自の堤防・水門技術で干拓して農地を広げた。先住民との通婚も行われ、両共同体の間には概して良好な関係が築かれた[4][15]。17世紀後半にはポール・ロワイヤルから分かれた住民がボーバサンやグラン・プレなどの集落を建設した。アカディは英仏間の争奪の的となり、17世紀を通じて何度も占領と返還を繰り返した[4]。
イギリス統治とアカディ人追放
1713年のユトレヒト条約により、アカディ本土は「ノバスコシア」としてグレートブリテン王国に割譲された。フランスはイル・ロワイヤル(ケープブレトン島)にルイブール要塞を建設して対抗し、アカディ人の多くは英仏どちらにも与しない「中立」の立場を取り続けた[4][16]。しかし英仏対立が深まる中、1755年、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスはボーセジュール砦を陥落させた後、イギリス国王への無条件の忠誠宣誓を拒んだアカディ人の追放を開始した[5][17]。
1755年から1763年にかけて、アカディ人はニューイングランド諸植民地、イギリス、フランスなどへ強制的に移送され、家屋や農地は焼き払われた。逃亡して先住民の下に身を寄せた者や、ケベックやサンジャン島(現プリンスエドワードアイランド州)へ逃れた者も多かったが、サンジャン島も1758年にほぼ無人化された。この「大動乱(グラン・デランジュマン)」の期間に、病気・難破・飢餓などにより多数のアカディ人が死亡した[17][4]。追放されたアカディ人の一部は後にルイジアナへ移り、その子孫は今日「ケイジャン」として知られる[16]。この悲劇は、アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが1847年に発表した物語詩『エヴァンジェリン』によって世界的に知られるようになった[5][18]。
帰還と再定住
1763年のパリ条約の後、亡命先からの帰還が始まったが、肥沃な旧アカディ人の土地にはすでにニューイングランドからの入植者が定住しており、アカディ人が大きな集団で再定住することは法律で妨げられた。このため帰還者は、旧植民地アカディの周縁部、すなわち現在のニューブランズウィック州沿岸部、ノバスコシア州南西部(サント・マリー湾)、ケープブレトン島(シェティキャンプ)、プリンスエドワードアイランド州西部などに新たな村々を築いた[17][15]。1785年以降には、セントジョン川下流域をロイヤリストに明け渡したアカディ人がマダワスカ地方に入植した。再定住の過程では教会の存在が決定的に重要であり、聖堂の建設や司祭の着任が共同体の定着を示す指標となった[4]。
アカディ・ルネサンス
19世紀前半のアカディ人社会は生存の確保に追われ、独自の制度をほとんど持たなかった。フランス語系の学校も新聞も専門職階級も存在せず、唯一のフランス語系制度であるカトリック教会の聖職者もケベックやフランスから派遣されていた[1]。転機となったのは19世紀後半である。1854年にフランソワ=グザヴィエ・ラフランス神父がメムラムクックに初のフランス語系高等教育機関を開設し(後のサン・ジョゼフ大学)、1867年には初のフランス語新聞『ル・モニトゥール・アカディアン』がシェディアックで創刊された[1]。
1881年、メムラムクックで第1回アカディ国民大会が開かれ、約5,000人が参加した。この大会では、フランス系カナダ人の祝日である6月24日(サン=ジャン=バティストの日)ではなく、聖母の被昇天の祝日である8月15日をアカディ独自の国民祭日とすることが決定され、アカディ人がケベックとは異なる独自の民族であるという自己認識が示された[6]。1884年にプリンスエドワードアイランド州ミスクーシュで開かれた第2回大会では、マルセル=フランソワ・リシャール神父の提案により、フランス三色旗の青地に聖母マリアを表す金色の星(ステラ・マリス)を配したアカディの旗と、聖母賛歌『アヴェ・マリス・ステラ』を国歌とすることが採択された[6][19]。同時期にアカディ国民協会の前身組織が設立され、1912年にはエドゥアール・ルブランが初のアカディ人司教に任命された[1]。
20世紀
20世紀前半、アカディ人社会はカナダの工業化・都市化の波に組み込まれ、多くの人々がモンクトンやニューイングランドの工業都市へ移住した。世界恐慌期には、外国資本に支配されていた漁業からの自立を目指す協同組合運動(アンティゴニッシュ運動)が漁民の間に広がった[1]。両大戦においてアカディ人は戦争協力に参加する一方、徴兵制には反対した[4]。
1960年代は大きな転換期となった。ニューブランズウィック州では、アカディ人として初の州首相となったルイ・ロビショーが「機会均等計画」と呼ばれる大規模な社会改革を実施し、1963年にはモンクトン大学が創設された。1969年には同州が公用語法を制定し、カナダで唯一の公式に英仏二言語を公用語とする州となった。同じ頃、モンクトン大学の学生運動に象徴される異議申し立ての時代が始まり、その様子はミシェル・ブローらのドキュメンタリー映画『Acadie, Acadie !?』(1971年)に記録された[1]。1970年代にはアカディ党が結成され、ニューブランズウィック州北部にアカディ州を創設する構想も提起された[3]。
現代
1980年代以降、各州でフランス語教育権の整備が進み、ノバスコシア州やプリンスエドワードアイランド州、ニューファンドランド・ラブラドール州にフランス語教育委員会が設置された[4]。1993年にはカナダ権利自由憲章第16.1条によりニューブランズウィック州の英語系・フランス語系両共同体の平等が憲法上明記された。2003年にはカナダ国王の名において、アカディ人追放がもたらした損害を認める王室宣言が発布され、7月28日が「大動乱記念日」に定められた[20]。1994年にはモンクトンを中心に第1回アカディ世界大会が開催され、世界中に散らばるアカディ人のディアスポラの再結集が始まった[7]。2012年には、アボワトーによる干拓農地と追放の記憶の象徴的な場として、ノバスコシア州の「グラン=プレ」がユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[21]。
人口
カナダ百科事典は、国勢調査で自らを「フランス系」や「カナダ人」と申告した人々を含めれば、カナダにはアカディ系の人々が少なくとも50万人おり、その多くがケベック州、ニューブランズウィック州、ノバスコシア州、プリンスエドワードアイランド州、ニューファンドランド・ラブラドール州に居住すると推計している[1]。州別に見ると、フランス語を母語とする住民の割合はニューブランズウィック州で約3分の1、ノバスコシア州とプリンスエドワードアイランド州でそれぞれ数%である[11][22]。
人口動態は地域によって大きく異なる。マダワスカ地方やアカディ半島のようにフランス語話者が95%を超える地域では同化率が1%未満と低い一方、プリンスエドワードアイランド州のようにフランス語話者が少数派の地域では英語への同化が著しく進んでいる[23]。ニューブランズウィック州においても、出生率の低下と英語系中心の移民受け入れにより、フランス語を母語とする住民の人口比は1951年の約35.9%から2016年には約32.4%へと漸減している[23]。
アカディの領域内には先住民のコミュニティも存在し、ミクマクやマリシートの保留地がアカディ人地域に隣接ないし内包されている[15]。
言語
アカディで話されるフランス語の主要な変種はアカディ・フランス語であり、17世紀のフランス西部方言の特徴を色濃く残すことで知られる[2]。マダワスカ地方ではケベック・フランス語の影響が強い「ブラヨン(brayon)」と呼ばれる変種が話される。モンクトン周辺では、フランス語と英語が高度に混交した「シアック」が話されており、フランス語の一方言と見るか独立した言語と見るかについて議論がある[1]。
宗教
政治
アカディは固有の立法府や政府を持たず、住民は各州および連邦の政治制度に参加する。1881年設立のアカディ国民協会(SNA)が、4つの大西洋州のアカディ人団体を束ね、国内外においてアカディ人を代表する非政府組織として活動している[19]。ニューブランズウィック州はカナダ唯一の公式二言語州であり、フランス語系住民は教育・保健などの分野で独自の制度的網を有する。同州ではアカディ系の州首相も複数誕生しており、連邦レベルでもロメオ・ルブランが1995年にアカディ人として初のカナダ総督に就任した[1]。アカディ人地域をまとめた州を創設する「アカディ州」構想は、1970年代のアカディ党の主張以来、現在に至るまで断続的に議論の対象となっている[3]。
フランス・ケベックとの関係
アカディは行政を持たないが、フランス語圏の国際ネットワークの中で一定の対外的存在感を持つ。SNAはフランコフォニー国際機関の関連会合に参加するほか、フランス政府・ケベック州政府およびサンピエール・エ・ミクロンの団体と協力協定を結んでいる[19]。
経済
文化
民族的象徴

アカディの民族的象徴の多くは、1880年代の会議で制定された。
- アカディ人の民族旗 - 1884年のミスクーシュ会議で採択。フランスへの帰属を示す三色旗に、アカディ人の守護聖人である海の星の聖母を金色の五芒星で加えたもの。マルセル=フランソワ・リシャール神父の発案による[6]。
- 民族歌『アヴェ・マリス・ステラ』 - 同じく1884年に採択された聖母賛歌。長らくラテン語で歌われてきたが、1994年にSNAが公募した結果、ジャシント・ラフォレストによるフランス語詞が加えられた[19]。
- 祭日(8月15日) - 1881年のメムラムクック大会で、聖母被昇天の祝日が国民祭日に定められた。2003年以降はカナダ連邦政府も公式に「アカディ民族祭日」として承認している[6]。
- 標語 - 「L'union fait la force(団結は力なり)」。
- タンタマール(tintamarre) - 8月15日に住民が鍋・笛・クラクションなどを打ち鳴らしながら街頭を練り歩き、アカディ人の存在を世に示す騒音行進。1955年、アカディ人追放200周年に際してモンクトンで初めて行われ、以後アカディ各地の8月15日の祝祭に欠かせない伝統として定着した。カラケットのタンタマールは特に大規模なことで知られる[24]。
文学
アカディ文学は長い口承伝統の上に築かれている。文字による文学が本格化するのは19世紀後半の国民大会期以降で、1960年代までは民族主義的な主題が支配的だった[1]。ロングフェローの『エヴァンジェリン』は、アカディ人自身が自らの歴史を再発見する契機となり、建国神話的テクストと位置付けられている[18]。
現代アカディ文学を代表する作家はアントニーヌ・マイエであり、アカディ・フランス語の独白劇『ラ・サグイヌ』(1971年、女優ヴィオラ・レジェの名演で知られる)や、追放されたアカディ人の帰還の旅を描いた長編小説『荷車のペラジー』(1979年)で知られる。後者によりマイエは北アメリカの作家として初めてゴンクール賞を受賞した。『荷車のペラジー』には大矢タカヤスによる日本語訳がある[25]。1972年にはモンクトンに出版社エディシオン・ダカディが設立され、エルメネジルド・シアソン、フランス・デーグルら多くの作家を世に送り出した[1]。
音楽
音楽はアカディ文化の中で特に存在感の大きい分野である。伝統音楽の継承に加え、1970年代以降はエディット・バトラーやアンジェル・アルスノーがアカディの歌をフランス語圏全体に広めた。マリー=ジョー・テリオ、ヒップホップ・グループのラジオ・ラジオ、フォーク・ロック歌手のリサ・ルブランなど、シアックやアカディ・フランス語で歌う現代のアーティストも、ケベックやフランスで広く受容されている[1]。歌曲「Évangéline」は、非公式の第二の民族歌として広く親しまれている。
映画
アカディの映画製作は、カナダ国立映画庁(ONF/NFB)の活動を契機に発展した[1]。先駆者であるレオナール・フォレストに続き、フィル・コモーらがドキュメンタリーと劇映画の両分野で活動してきた。アカディ社会を描いた作品としては、前述の『アカディ、アカディ?!?』(1971年)が特に著名である[1]。
料理
アカディ料理は、入植期の質素な食材を生かした家庭料理を特徴とする。代表的な料理には、鶏肉とジャガイモの煮込みスープに団子を浮かべた「フリコ」、すりおろしたジャガイモの生地で豚肉を包んで茹でた「プティヌ・ラペ」、すりおろしジャガイモと肉を合わせて焼く「ラピュール(râpure、ラッピーパイ)」、挽肉を詰めたミートパイ「パテ・ア・ラ・ビアンド(pâté à la viande)」などがある[26][27]。
行事
- アカディ世界大会(Congrès mondial acadien、CMA) - 世界中のアカディ人のディアスポラを集めて5年ごとに開催される大規模な祭典。家族・同姓親族の再会集会、コンサート、学術会議などが約2週間にわたり行われる。第1回は1994年にモンクトンとニューブランズウィック州南東部で開かれた。以後、ルイジアナ州アカディアナ(1999年)、ノバスコシア州(2004年)、アカディ半島(2009年)、ニューブランズウィック州北西部・メイン州北部・ケベック州にまたがる地域(2014年)、ニューブランズウィック州南東部とプリンスエドワードアイランド州(2019年)、ノバスコシア州南西部のクレアとアーガイル(2024年)で開催されてきた。2029年大会はシャルール湾地域での開催が予定されている[7][28]。
- ジュー・ド・ラカディ - 1979年から毎年開催される大西洋州のフランス語系青少年のための総合スポーツ大会。
- カラケットのアカディ祭 - 1963年から毎年8月にカラケットで開かれるアカディ最大級の文化祭。8月15日の大タンタマールで最高潮を迎える[24]。
メディア
アカディの主要メディアには、1984年創刊の日刊紙『ラカディ・ヌーベル』(カラケット)と、カナダ放送協会のフランス語部門による「ラジオ・カナダ・アカディ」(モンクトン)がある。前者は、1887年から1982年まで刊行されたアカディを代表する新聞『レヴァンジェリン』の閉刊後の空白を埋めるべく創刊された、ニューブランズウィック州唯一のフランス語日刊紙である[29]。このほか各地に共同体ラジオ局が存在する。
教育
高等教育の中心は1963年創設のモンクトン大学であり、モンクトン・エドマンストン・シッパガンの3キャンパスを持つカナダ最大の英語圏外フランス語大学である。1983年にはコモン・ローをフランス語で教育する法学部が、2006年には医学教育課程が設置された[4]。ノバスコシア州クレアにはサンタンヌ大学がある。初等・中等教育では、4州すべてにフランス語系の教育委員会が設けられている[11]。
観光
アカディの歴史と文化を伝える施設や史跡は、地域の観光資源としても重要である。ニューブランズウィック州カラケット近郊のアカディ歴史村は、1770年から20世紀半ばまでのアカディ人の生活を実物の建物と扮装した案内人によって再現する野外博物館である。ブクトゥーシュには『ラ・サグイヌ』の世界を再現したテーマパーク「ル・ペイ・ド・ラ・サグイヌ」がある。ノバスコシア州では、世界遺産「グラン=プレ」内のグラン・プレ国定史跡が追放の記憶を伝える巡礼地となっているほか、ポール・ロワイヤルの復元施設やルイブール要塞の復元も主要な観光地である[21]。プリンスエドワードアイランド州ミスクーシュには、旗と国歌が制定された第2回国民大会の地にアカディ博物館が建つ[27]。