アサン (伊爾根覚羅氏)
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生涯
アサンの父アルタシ(Altasi)は、ヌルハチが建州女真の統一事業を開始した初期に、「七村人口」を率いて後金へ帰順した。この時、アサンおよびその弟のアダハイ(Adahai)、ジルガイ(Jirgai)、ガライ(Garai)らも同行した。アルタシは後にヌルハチの従姉を娶り、愛新覚羅家の婿て、額駙(efu)となった。アサンはヌルハチの次子であるダイシャンの配下に置かれ、軍務に従事した。しかし当初ダイシャンに重用されなかったため、弟たちおよび息子たちを率いて明へ逃亡した。ヌルハチは甥のアミンを派遣して追撃させ、その過程でアサンの息子二人が戦死した。最終的にアサンとアダハイのみが明領へ入ったが、まもなく自ら帰還した。ヌルハチに離反の理由を問われた際、アサンは「自らの一族が帰順したのは戦功を立てて立身出世するためであり、雑役に従事するためではない」と答えた。その後、ヌルハチは彼を近侍として側近に置いた。1621年の遼陽攻略戦で戦功を挙げ、世襲の二等軽車都尉に封じられた[1]。
ホンタイジの治世には十六大臣の一人となり、正白旗旗主を補佐して軍政事務を担当した。また、モンゴル・バリン部討伐に従軍して功績を挙げ、丙子の乱では軍を率いて義州を攻略・陥落させた。しかし、弟アダハイが罪により処刑されると、アサンは再び明への投降を企てたものの失敗した。ホンタイジはこれを赦免した[1]。その後の十余年間、アサンは清軍の主要指揮官の一人として明、李自成の大順政権、張献忠の大西政権、およびチャハル部との諸戦役に参加した。特に1630年の永平の戦いおよび1637年の皮島攻略戦では、自ら先頭に立って城壁を登り武功を挙げた。1645年には豫親王ドドに従って南京へ進軍し、南明の弘光帝捕縛にも参加した[2]。
戦功により当初は三等公に封じられたが、1646年にシャマンの讒言を信じて部下を処罰したため爵位を剥奪された。翌1647年に一等子として復爵されたものの、間もなく病没した[3]。長男セヘ(Sehe)が爵位を継承した。また、別の息子クワジャは額駙となり、ホンタイジの第六皇女を妻とした[4]。