アジズ・エル=シャワン

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死没 (1993-05-14) 1993年5月14日(77歳没)
 エジプト カイロ
職業 作曲家
アジズ・エル=シャワン
Aziz El-Shawan
生誕 1916年5月6日
エジプトの旗 エジプト カイロ
死没 (1993-05-14) 1993年5月14日(77歳没)
 エジプト カイロ
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家

アジズ・エル=シャワン(Aziz El-Shawan 1916年5月6日 - 1993年5月14日)は、エジプト作曲家20世紀の同国を代表する作曲家のひとりである。

カイロに生を受けた。カイロのセント・ジョゼフ=ラサールで中等教育までを受け、同校では商業学習に関する高等ディプロマを取得している。ヤン・クベリーク門下のドイツ人ヨーゼフ・フォン・アウベルフォンから私的にヴァイオリンを学んでいたエル=シャワンは、学校の合唱部と楽隊に加わりクラリネットホルンを演奏した。アウベルフォンが彼のための奨学金を確保したことでベルリンの音楽院で学べることになったが、息子が音楽のキャリアを関心を示したことに父からの反対があった。さらに事故のために左手の指の1本の自由が利かなくなってしまったエル=シャワンは、ヴィルトゥオーソヴァイオリニストになる夢を諦めざるを得なかった。その後、彼はイタリア人のメナートとロシア人のオルロヴィツキーの下でピアノ音楽理論和声作曲管弦楽法を学ぶ。2人とも国際都市カイロに居住して職を持つ欧州の音楽家、音楽教師のコミュニティに属する人物だった。

エル=シャワンは複数の事務職を経験したが、中でも重要なのがフィリップス社の海外部であり、そこで彼はレコードの生産部門を立ち上げた。1952年から1967年にはカイロのソビエト文化センターのセンター長を務める。この職にあったおかげで1956年にモスクワへの出張が叶い、同地ではアラム・ハチャトゥリアン指揮するモスクワ・ラジオ交響楽団により彼の初期作品の一部が演奏された他、国営のメロディア社からLPレコードが発売された。LPで発表された楽曲には管弦楽のための幻想曲(1945年)、交響詩『‘Atshan Ya Sabay』(1946年)、序曲『‘Antara』(1947年)などがある。また、彼は当時活躍していた作曲家たちと面識を得ており、著名なところではロシアのドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906年-1975年)、アルメニアのアラム・ハチャトゥリアン(1903年-1978年)、アゼルバイジャンウゼイル・ハジベヨフ(1885年-1948年)、カラ・カラーエフ(1918年-1982年)、フィクレト・アミロフ(1922年-1984年)が挙げられる。セルゲイ・ラフマニノフロシア5人組の影響に加え、エル=シャワンはこうした西アジア、中央アジアの作曲家の作風を伝統音楽に触発された現代音楽のモデルとして捉えていった。1954年にカイロにおいて彼の初期作品の一部が初演されることになるが、当時はまだ国営のカイロ交響楽団が創設される前の時代であったため、演奏は彼が自ら雇った私設管弦楽団によりアメリカン大学カイロ校英語版のEwart記念ホールで行われたのであった。

1960年にカイロを訪れたハチャトゥリアンはエル=シャワンの作品を耳にするとすぐにモスクワ音楽院で学ぶよう招待し、これに応じたエル=シャワンは1967年から1969年にかけてソビエトの首都で暮らし、学ぶことになる。1968年には彼の交響詩『Abu Simbel』とピアノ協奏曲がハチャトゥリアンの指揮、モスクワ・シネマ管弦楽団、Alexander Bakhtchievの独奏で行われた。この2作品は同年にメロディアからLPレコードで発売されており、1972年にはエジプト文化省英語版からも頒布された。カイロに戻ったエル=シャワンは作曲に専念し、他には文化省の映画、劇場、音楽部会の相談役(1969年-1976年)や、アラビア音楽研究所の作曲と管弦楽法の教授(1970年-1993年)を務めた。1970年代には東ドイツで過ごし、同地でバレエ『イシスとオシリス』がライプツィヒ・オペラ管弦楽団により振付と録音の機会を得た。しかし、計画されていたバレエの初演はエジプトと東ドイツの政治的関係悪化により実現しなかった。

エル=シャワンは1993年にカイロで没している。

音楽

エル=シャワンの創作期は3つの時期に分けられる。第1期(1945年頃-1955年)には室内楽曲、交響詩『‘Atchan Ya Sabay』、交響曲第1番、オペラ『‘Antara』、2つの映画音楽が書かれた。第2期(1955年-1965年)には大規模作品が生まれており、特にピアノ協奏曲、交響的絵画『Abu Simbel』、独唱者と合唱のための4つの愛国的カンタータ、交響曲第3番、複数の室内楽作品が書かれた。第3期(1966年-1993年)にはバレエ『イシスとオシリス』、アラビア語で書かれた初めてのオペラである『Anas Al-Wugud』、オマーン交響曲、多数の室内楽曲が作曲された。

カイロ交響曲楽団は定期的にエル=シャワンの作品を演奏している。加えて、ロンドン交響楽団が1984年にマスカットでオマーン交響曲を演奏、録音している。彼のオペラ『Anas Al-Wugud』は1996年にカイロ・オペラハウスで初演されており、以降複数のシーズンで取り上げられている。

エル=シャワンは西洋の調性音楽を「国際的音楽語法」と捉え、その枠組みの中にエジプトの音楽イディオムを構築していった。彼の作風は旋法的な趣を添えた抒情的な旋律を中心とすること、付加される伝統的音楽からの霊感、そして半音階的な和声法を特徴としている。声楽作品においてはアラビア語の音要素による表現の可能性が探られている。オマーン交響曲において、エル=シャワンはオマーンの伝統音楽のリズムと旋律の特徴を取り入れることにより、自らの音楽表現の幅を拡張している。

作曲家、教育者としての活動に加え、エル=シャワンは一般読者に向けた音楽鑑賞に関する書籍を4冊出版している。

栄誉

エル=シャワンにはその功績を称え、1956年にエジプト文化省から作曲の1等賞、1967年にエジプト政府の芸術科学賞の首席、1984年にスルターンカーブース・ビン・サイードによりオマーンの芸術勲章が授与された。

私生活

参考文献

外部リンク

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