アラム・ハチャトゥリアン
アルメニア人の作曲家 (1903-1978)
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アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(アルメニア語: Արամ Խաչատրյան [ɑˈɾɑm χɑt͡ʃʰɑt(ə)ɾˈjɑn], ジョージア語: არამ ხაჩატურიანი, ロシア語: Ара́м Ильи́ч Хачатуря́н/Хачатря́н (Aram Il'ich Khachaturian/Khachatrian)
ロシア語発音, 1903年5月24日(グレゴリオ暦6月6日) - 1978年5月1日)は、ソビエト連邦アルメニアの作曲家、指揮者[1]。ソビエトを代表する作曲家のひとりであると看做されている[2][3][4]。
ティフリス(現在のジョージアの首都)に生まれ育ち、コーカサス地方のソビエト化後の1921年にモスクワへ移り住んだ。それまで音楽教育を受けてこなかったハチャトゥリアンであったがグネーシン音楽大学に入学し、その後はモスクワ音楽院でニコライ・ミャスコフスキーら他の講座で学んだ。初めての主要作品となったピアノ協奏曲(1936年)により、彼の名はソ連内外で知られるようになる。後にはヴァイオリン協奏曲(1940年)とチェロ協奏曲(1946年)が続く。重要な作品としては『仮面舞踏会』組曲(1941年)、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国歌』(1944年)、3つの交響曲(第1番 1935年、第2番 1943年、第3番 1947年)、25作品ほどの映画音楽が挙げられる。最も知られているのはバレエ音楽『ガイーヌ』(1942年)、『スパルタクス』(1954年)である。最大の人気作品である『ガイーヌ』の「剣の舞」は大衆文化に深く入り込んでおり、世界中で数多くの音楽家によって演奏されている[5]。彼の作風は「色彩豊かな和声、魅惑的なリズム、技巧性、即興性、感覚的なメロディーに特徴づけられる」[6]。
ハチャトゥリアンがソビエト連邦共産党に所属したのは1943年からのことだったが、彼はそのキャリアの大半においてソ連政府から認められ、ソビエト連邦作曲家同盟では要職を歴任した。1948年にはセルゲイ・プロコフィエフ、ドミートリイ・ショスタコーヴィチと共に「形式主義」であると公式に非難を受け、彼の音楽は「反人民」の烙印を押されたが、翌年には名誉回復がなされた。1950年以降はグネーシン音楽大学とモスクワ音楽院で教鞭を執ると同時に指揮へと転向する。自作を携えて欧州、南米、アメリカでコンサートを行った。1957年にソビエト連邦作曲家同盟の長官となった彼はこの世を去るまでその役職に留まった。
ハチャトゥリアンはバレエ音楽、交響曲、協奏曲、映画音楽を作曲した最初のアルメニア人であった[注 1]。彼は20世紀最大のアルメニアの作曲家であると考えられている。確立されたロシア音楽の伝統を踏襲しつつもアルメニアの音楽を広く取り入れ、またそれに比べると少ないながらもコーカサス、東欧や中央ヨーロッパ、そして中東の民俗音楽を取り込みながら作品を書いた。アルメニアでは高い評価を受けており、「国の宝」と看做されている[9]。
生涯
生まれと幼少期(1903年-1921年)

アラム・ハチャトゥリアンは1903年6月6日(旧暦5月24日[10])にティフリス(現在のジョージアのトビリシ)でアルメニア人の一家に生を受けた[11][12]。一部の文献ではティフリスに程近い村落であるコジョリが生誕地であると記されている[13][14][15]。ハチャトゥリアン自身も自らがコジョリの生まれであると述べていた[注 2]。父のイェギア(YeghiaまたはIlya)はナヒチェヴァニ(現在のアゼルバイジャン、ナヒチェヴァン自治共和国)のオルドゥバド近郊の上部アザ(Upper Aza)の村に生まれ、13歳でティフリスに移り住むと25歳で製本屋のオーナーとなった。母のクマシュ・サルキノヴナ(Kumash Sarkisovna)は同じくオルドゥバド近郊の下部アザ(Lower Aza)出身であった。2人はお互いに知り合う前、クマシュが9歳、イェギアが19歳の頃からの許嫁であった。彼らは4男1女の5人の子どもをもうけ、アラムは末っ子だった[17]。1906年から1922年にかけて、ハチャトゥリアンはティフリスのウズナジェ通り93(Uznadze)に居住していた[注 3]。ハチャトゥリアンはティフリスの商人向けの商業学校で初等教育を受けた[22]。彼は医学か工学の道を思い描いていた[23]。
19世紀と20世紀初頭、及びソビエト時代の初期を通じてティフリスはコーカサス最大の都市であり行政中心であった。歴史的に多文化的なこの町でハチャトゥリアンは様々な文化に触れることになる[24]。町には多くのアルメニア人が住んでおり、ロシア革命以前にはアルメニア文化の一大中心地であった。1952年の論説『音楽における私の民謡要素の着想』において、ハチャトゥリアンはこの町の環境とそれが彼のキャリアへ及ぼした影響について次のように綴っている。
私は民俗音楽が豊かな空気の中で育った。人々が集う祝祭、儀式、皆の人生の嬉しい出来事も悲しい出来事も音楽と共にあり、民謡吟遊詩人[アシュグ]や音楽家が披露するアルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアの歌や踊りの生き生きした調べ - こうしたものが私の記憶の奥深くに刻み込まれた印象となり、私の音楽思考を決定づけた。それらが私の音楽意識を形作り、私の芸術的人格の礎となっている(中略)後年に音楽的嗜好にいかなる変化や改善が起こったとしても、幼少期のはじめにそうした人々との近しい交流で形成されたそれらの元来の実体は、いつでも自然の土壌として残っており私の全ての作品に栄養を与えているのである[25]。
1917年、十月革命によりボリシェヴィキがロシア国内で台頭した。2年強のはかない独立の末、アルメニアは1920年後半にソビエトの支配下に入った。1921年の春までにはジョージアもソビエトの支配を受け入れている。両国ともに1922年12月のソビエト連邦建国により連邦の一員となった[26]。
教育 (1922年-1936年)
1921年、18歳のハチャトゥリアンはモスクワに赴いて兄のスレン(Suren)の許に身を寄せた。スレンは先にモスクワに居を構えており、弟の到着時にはモスクワ芸術座の舞台監督をしていた[17][22]。ハチャトゥリアンはグネーシン音楽大学に入学し、同時にモスクワ大学で生物学を学んだ[23][27]。はじめはセルゲイ・ビシュコフの下で、後にはアンドレイ・ボリシャクについてチェロを学んだ[12][28]。1925年、ミハイル・グネーシンが音楽大学で作曲のクラスを開講し、ハチャトゥリアンもこれに参加した[29][22]。この時期に彼は最初の作品群であるヴァイオリンとピアノのための『舞踏組曲』(1926年)や詩曲 嬰ハ短調(1927年)を作曲している[23][27]。こうした最初期から既にハチャトゥリアンはアルメニアの民謡を自作にふんだんに取り入れている。
1929年、ハチャトゥリアンはモスクワ音楽院に入学し、ニコライ・ミャスコフスキーに作曲を、セルゲイ・ワシレンコに管弦楽法を師事した[30]。1934年に課程を修了した彼は続けて1936年の卒業作品完成向けて取り組むことになる[22]。
キャリア初期 (1936年-1948年)

ハチャトゥリアンがモスクワ音楽院の卒業制作として1935年に作曲した交響曲第1番はアルメニアの影響を受けた楽曲で、「著名指揮者の感心を集め、たちまちソビエト最高のオーケストラが演奏するようになった」ほか[24]、ショスタコーヴィチからも賞賛を受けた[25]。1936年に音楽院での卒業研究を完了すると彼はすぐさま活発な創作キャリアを開始する[27]。同年、彼は最初の主要作品となるピアノ協奏曲を作曲した[23]。この作品が成功を収め、尊敬されるソ連の作曲家としての彼の地位が築かれた[12]。この作品は「ソビエト連邦の国境を遥かに超えて演奏されて賞賛を集め[3]」、「国外にまで彼の名を轟かせた[24]」のであった。
ピアノ協奏曲は後年書かれる他の2つの協奏曲と共に「しばしば一種の大きな連作であると考えられている[12]」。他の協奏曲とはスターリン賞の第2席を獲得したヴァイオリン協奏曲(1940年)と[23][24][31]、チェロ協奏曲(1946年)である。ダヴィッド・オイストラフが初演を行ったヴァイオリン協奏曲は[24]、「国際的に評価を得」るようになり[3]、世界中でレパートリーに取り入れられていった。
ハチャトゥリアンはソビエト連邦作曲家同盟で重要な役職を歴任し、1937年にはモスクワ支部の副委員長となった。その後、1939年から1948年にかけては同盟の組織委員会(Orgkom)の副委員長を務めた[14][32]。1943年には共産党に入党している[22]。「1940年代初頭から半ばにかけて、ハチャトゥリアンはその地位を使ってソビエトの音楽を形作ることを助け、作曲における技術的熟練の重要性を常に強調した。実のところ、彼は回顧録の中で多くの音楽ジャンルに関する創造的作品を、とりわけソビエトの全ての共和国でまとめる組織を率いることに誇りを感じていたと伝えている[33]。」
第二次世界大戦前後はハチャトゥリアンにとって非常に生産的な時期だった。1939年に祖国アルメニアへ6か月滞在し、バレエ『幸福』のために「アルメニアの音楽的伝承について徹底した研究を行うと同時に民謡や舞踏曲を収集」すると、同年のうちにバレエを完成させた。「アルメニアという国の文化と音楽の実態に関わることは、彼自らが述べるところの『第2の音楽院』となった。彼は多くを学び、幾多の物事を改めて見聞きし、同時にアルメニアの人々の趣味嗜好や芸術に求めるものに対する洞察を得たのであった[34]。」第二次大戦が激しさを増す1942年、彼はこの作品を仕立て直してバレエ『ガイーヌ』を作り上げた[35]。『ガイーヌ』はレニングラードが包囲される最中、ペルミにおいてキーロフ・バレエ(現在のマリインスキー・バレエ)によって初演された。初演は大きな成功を収め、ハチャトゥリアンは2度目となるスターリン賞を受賞、今回は第1席に賞された[36][27]。ハチャトゥリアンはこの時の賞金を赤軍の戦車の建造に使って欲しいと希望して国へと返還している[37]。
彼は十月革命25周年に合わせて交響曲第2番(1943年)を作曲、またミハイル・レールモントフの同名の戯曲を基に「ロシアの贅沢な古典音楽の伝統に則った交響的組曲」として『仮面舞踏会』(1944年)を作曲した[23]。バレエ『ガイーヌ』と交響曲第2番はいずれも「成功を収め、ショスタコーヴィチから温かい称賛を受けた[12]。」1944年には非常に象徴的な『アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国歌』が書かれた[7]。
糾弾と名誉回復(1948年)

1947年12月の中旬、宣伝扇動部(アジトプロップという名前でよく知られる)はソビエト連邦共産党中央委員会書記であったアンドレイ・ジダーノフに対して、ソビエト音楽発展の「欠点」に関する文書を提出した。1948年1月10日から13日にかけてクレムリンで開催された会議の場では17人の音楽家、作曲家、指揮者ら他がジダーノフに向き合う形で出席していた[38]。
会議の途中で新しく作曲家同盟の書記長に任命されたティホン・フレンニコフはハチャトゥリアンの交響詩曲の初演では会場の半分の席しか埋まらなかったこと、また「誰もがハチャトゥリアンのチェロ協奏曲が愚作であると考えている」と不平を述べた。これに応じたハチャトゥリアンは - このような場で発言を許可されたことに緊張しつつ - より複雑な作品の作曲者は大衆の好みを無視するという罪を犯している可能性があると譲歩しつつ、大衆の嗜好も早晩作曲家に追いつくものと考えると述べた。これにはジダーノフが割って入り、そのような態度は「極端な個人主義である」と述べた[39]。ハチャトゥリアンらの主要作曲家たちは共産党からいわゆる形式主義(すなわち、大衆が楽しむにはあまりに先進的または難解であると考えられる音楽[の一様態][3])の信奉者であり[12]、彼らの音楽は「反人民」であるとの烙印を押された[40]。公式に当局の怒りを買ったのは後に交響曲第3番と改称される交響詩曲(1947年)であった[38][41]。皮肉にも、この作品は十月革命の30周年を記念して作曲されたものだった[42]。ハチャトゥリアンは次のように述べている。「私は大衆が描かれていないプログラムをそれと伝えることなく感じ取れるような種類の楽曲を書きたいと思っていた。この作品については偉大で力強い祖国へのソビエトの人民の歓びと誇りを表現したかったのだ[43]。」
音楽学者のブレア・ジョンストンは、ハチャトゥリアンの「音楽には、より急進的な同業者らの音楽に見出されるような不快な特性は、もしあったとしても僅かにしか含まれない。振り返るならば、ハチャトゥリアンの1948年のブラックリスト入りに繋がったのは彼の音楽そのものではなく、彼の[ソビエト作曲家]同盟における管理業務であった可能性が最も濃厚で、同盟が当局から政治的に間違った音楽の要塞と看做されていたからではあるまいか[44]」と考えている。1948年3月[45]、ハチャトゥリアンは「ジダーノフ批判に従って彼の芸術的『過誤』について全面的かつ謙虚な謝罪を行った。しかし彼の音楽スタイルは変化をみせなかった[44]。」彼は「罰」としてアルメニアへと送られ[12]、非難を受け続けた[45]。エドワード・ロススタインは、ハチャトゥリアンの「おそらく民謡を用いた簡素な作風のお陰で」ショスタコーヴィチやプロコフィエフほどには苦しめられなかったのではないかと論じている[46]。
1948年12月には(ジダーノフは8月に他界していた)、ソビエトの指導者を描いた映画である『ウラジーミル・イリイチ・レーニン』のための音楽が称賛され、ハチャトゥリアンは当局からの支持を回復することが出来た[23][45]。
晩年(1950年-1978年)
1950年にハチャトゥリアンは指揮を開始し[44]、母校で作曲の指導を行うようになる。グネーシン音楽大学では1950年から、モスクワ音楽院では1951年から教壇に立った[14]。音楽院の教員としてのキャリアを通じ、彼は学生たちに民謡の役割を説き、作曲家たるもの祖国の民謡遺産に習熟せねばならないという考えを教え込んだ[14]。
1950年には3作目であり最後となるバレエ『スパルタクス』(1950年-1954年)に着手した。この作品は彼が国際的な評価を獲得した最後の作品となる[12]。1968年にはこの作品に改訂を施している[12]。1954年にソビエト連邦人民芸術家の称号を獲得した[23]。1954年にはゲオルギー・マレンコフの敷いた暫定ルールにより、ハチャトゥリアンは作家のイリヤ・エレンブルグと共に代弁者となり、「1946年から1948年の苛烈なジダーノフ批判によって課された思想統制が少なくとも一時的には解かれたことをソビエトの知識人に保証する」役割を担った[47]。
『スパルタクス』の完成後、ハチャトゥリアンは作曲へかける労力を減らし、指揮、教育、官僚活動、演奏旅行へと精力を振り向けていった[25]。1958年にはソビエト南米友好文化協力協会の会長に就任し、1962年にはソビエト平和委員会の委員となった[14]。「彼はソビエトにおける創作の正当性という思想を擁護する闘士の役割を担って頻繁に国際会議に姿を現した[23]。」彼は自作を引っ提げて約30か国に演奏旅行に出ており、東側諸国の全ての国を網羅[7]、イタリア(1950年)、イギリス(1955年、1977年)、ラテンアメリカ(1957年)、アメリカ合衆国(1960年、1968年)にも足を運んだ[3][4][25]。特に1968年1月のアメリカの首都ワシントンD.C.訪問は重要なものだった。彼はナショナル交響楽団を指揮して自作によるプログラムを披露し[44]、6週間にわたる滞在でアメリカの7都市を歴訪したのであった[48]。
1957年に再び作曲家同盟の書記となったハチャトゥリアンは没するまでこの職に留まった[10][14]。彼は第5次ソビエト連邦最高会議(1958年-1962年)の代理官も務めた[49]。没するまでの20年の間に3つのコンチェルト・ラプソディ - ヴァイオリン(1961年-1962年)、チェロ(1963年)、ピアノ(1965年) - を作曲[42]、またチェロ、ヴァイオリン、ヴィオラそれぞれのための無伴奏ソナタ(1970年代)を書いており、これらは彼の第2、第3の三部作であると考えられている[12]。
1965年10月の初旬、心臓発作を起こしたハチャトゥリアンはジュネーヴの病院に一時入院した[50][51]。長きにわたる闘病の末、1978年5月1日にモスクワで帰らぬ人となった[4][48]。彼の75回目の誕生日の直前であった[42]。亡骸は5月6日にエレバンのコミタス・パンテオンに埋葬され[52]、他の優れたアルメニア人と並んで眠りに就いている[7]。
音楽
ハチャトゥリアンの作品はバレエ音楽、交響曲、協奏曲、映画音楽と幅広い種類の音楽にわたって書かれている。音楽評論家のエドワード・グリーンフィールドは以下のような意見を表明している。「[ハチャトゥリアンは]明瞭に同定可能な作品を作風を創り出すことにかけて他のソビエトの同時代人よりも著明に優れており、その作風は後世の人間には模倣不能なものであった[25]。」作品の大部分は第二次世界大戦前後と重なる1936年から1946年までの10年の間に生み出されている[53]。1948年の糾弾後には公式に名誉回復がなされたものの、その後の30年の人生で国際的な名声を得て成功を収めたのはバレエ『スパルタクス』ただ1作のみであった[24]。
ジェームズ・バクストによると、ハチャトゥリアンをソビエトの作曲家の中で個性的たらしめるのは「現代の管弦楽技法にアルメニアの国民的な声楽と器楽のイントネーションを融合させたこと」であるという[54]。ハチャトゥリアンの音楽は活発なリズムの発展によって特徴づけられ、これは単に基礎的定型の反復(オスティナート)となるか、「この定型の範囲内で強調を行う遊戯」となる[55]。

作品
バレエ
ハチャトゥリアンが国際的に最も知られるのはバレエ音楽によってである[注 4]。2作目となるバレエ『ガイーヌ』は大部分が1作目のバレエ『幸福』の改作となっている[41][58]。アンナ・キッセルゴフはこの作品を「ソビエトと東欧のバレエのレパートリーの定番」と呼んだ[59]。『スパルタクス』は彼のスターリン後の時代に最も称賛された作品となった。これら2つの作品は「彼の最大の成功作であり続けている」とされる[60]。ジョナサン・マッカラムとアンディ・ナーセシアン(Nercessian)は、これら2つのバレエのための彼の音楽は「世界中で最も知られるクラシック音楽の楽曲の中に問題なく加えることができ、この事実は世界に知られるアルメニア音楽がこれらだけであるという認識によって活力を与えられている[61]。」
1970年代にBBCのドラマシリーズ『ワンディン・ライン』の主題歌として「スパルタクスとフリギアのアダージョ」が用いられ、『スパルタクス』は人気を博すようになった[42]。また、『スパルタクス』のクライマックスは『カリギュラ』(1979年)や[62]、『アイス・エイジ2』(2006年)などの映画にも使用された[63]。ジョエル・コーエンの『未来は今』(1994年)も『スパルタクス』と『ガイーヌ』からの音楽を目立って取り上げた[63]。『ガイーヌ』の「アダージョ」はスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』をはじめとする映画で用いられている[64]。
管弦楽曲
ハチャトゥリアンは3作の交響曲を作曲している。第1番(1934年-1935年)、第2番(1943年)、第3番(1947年)である[12][65]。また、協奏曲も3作品生み出している。ピアノ協奏曲(1936年)、ヴァイオリン協奏曲(1940年)、チェロ協奏曲(1946年)である[12]。
その他の作品
ハチャトゥリアンは複数の戯曲に劇付随音楽を書いている。『マクベス』(1934年、1955年)、『バレンシアの寡婦』(1940年)、『仮面舞踏会』(1941年)、『リア王』(1958年)などである[12]。
ハチャトゥリアンはトーキーのための音楽を作曲した最初のソビエトの作曲家だった[66][67]。約25作品の映画音楽を制作している[42][65]。アルメニア初のトーキー『ぺポ』(1935年)もそうした作品のうちのひとつである[60]。『スターリングラード攻防戦』(1949年)のための音楽は1950年にスターリン賞を獲得した[7]。
影響
音楽学者のマリーナ・フロロヴァ=ウォーカーはハチャトゥリアンが「国民楽派の動きの中から現れた中で」唯一国際的な名声を勝ち得たソビエトの作曲家であると評している[69]。ジェームズ・バクストはハチャトゥリアンの見解を次のように解釈した。「音楽とは人民が作り上げた言語である。人民が抑揚を持った音楽形式を創造し、それがすぐさま彼の芸術作品の国民的要素を明らかにするのだ[70]。」
作曲家のティグラン・マンスリアンはハチャトゥリアンの音楽がアメリカの特徴を取り入れていると唱えており、彼に対する音楽的影響、とりわけ作品及びライフスタイルに見られる楽観的感覚ゆえにアメリカを彼の「第2の故郷」と称している[71]。ソビエトの音楽学者であるボリス・ヤルストフスキーは、ハチャトゥリアンの言葉にはアメリカ文化の影響が聞き取れる場面があると論じている[72]。
アルメニア民謡

ハチャトゥリアンは多種多様な民族の民謡を自らの楽曲に用いたことで広く知られているが、なかでも目立っていたのがアルメニア民謡であった[注 5]。ローゼンバーグはハチャトゥリアンがアルメニアに生まれなかったにもかかわらず、「本質的にアルメニアの作曲家でありその音楽は彼のルーツであるアルメニアを表出している」と論じた[57]。「彼の楽曲の多くはアルメニアの旋律線を思い起こさせる。しかし、彼の作品は民謡主題での伝統的な管弦楽法とは著しく異なっている」と記したのはルーベン・ポール・アダリアンである。彼はハチャトゥリアン作品が「コーカサスの舞踏曲の活気あるリズムと賑やかなペース」を有している一方で、「文化的材料をヨーロッパ音楽の基準に則り新しい楽器法で再構成したオリジナルの楽曲であることにより、この作曲家独特の音が生まれている」と唱える[60]。リチャード・タラスキンは「ハチャトゥリアンの『アルメニア的』様式はグネーシンの汎用東洋学者的作風を広範に作り変えたものだ」と論じた[74]。
ハチャトゥリアンは民謡収集家で音楽学者のコミタス[73]、作曲家のアレクサンドル・スペンジアリャン、そしてロマノス・メリキアンから特に影響を受けた[注 6]。ハチャトゥリアン自身はコミタスが「独力にてアルメニアの古典的伝統への基礎を築いた」と認めていた[76]。ハチャトゥリアンは1969年のコミタスに関する記事の中で、彼のことを「最大の恩師」と呼んでいる[77]。
「アルメニアの人々の運命について、世界中に散り散りとなったアルメニア人の悲劇的宿命、彼らの苦難と闘争に関する」オペラを作曲するというハチャトゥリアンの構想は実現することなく、また「親友ラリー・アドラーとシカゴ交響楽団に向けられた、マウス・オルガンと管弦楽のためのアルメニア狂詩曲」は未完成のまま遺された。「しかし、その意図、その精神は常にそこにあった[25] 。」ハチャトゥリアンは以下のように述べ、アルメニア人としての出自について強調していた[24]。
いくら様々な音楽語法の間で揺らごうが、私はアルメニア人である。ヨーロッパ系アルメニア人であってアジア系アルメニア人ではない。他[のアルメニア人作曲家たち]と共に、我々は全ヨーロッパ、全世界が我々の音楽を聴くようにする。そして、我々の音楽を耳にしてきっと彼らは言うのだ、「その人々のことを教えてくれ、こんな芸術を生み出した国を見せてくれ」と。
他の民謡
大学在学中、ハチャトゥリアンはアルメニア、ロシア、ハンガリー、トルコ他の多くの民謡を採譜した[10]。彼は円熟期の作品にもコーカサス(ジョージア人を含む地域)、東ヨーロッパ(ウクライナ人、ポーランド人)、中東(トルコ人、クルド人)の人々の民謡の要素を用いている[注 7]。初のバレエ『幸福』にはウクライナのホパーク、ジョージア、アルメニア、ロシアの舞踏と、多くのコーカサスの民俗の力強い舞踏であるレズギンカが取り入れられている[78]。『仮面舞踏会』にはポーランドの民俗舞踊であるマズルカが用いられた[79]。バレエ『ガイーヌ』は前作同様にレズギンカを呼び物としている[79]。『ガイーヌ』第2幕は「クルド人の踊りに満たされて」いる[80]。
ロシアのクラシック音楽
ハチャトゥリアンはロシア古典の伝統に従う者として音楽学者によって引き合いに出される[注 8]。トロント交響楽団によると、彼は「リムスキー=コルサコフやチャイコフスキーらの19世紀ロシアの作曲家による色彩豊かな民謡に霊感を受けた作風を20世紀へと前進させた」のだという[81]。「ロシア5人組」の面々、特に一定程度はその作品が彼の手本となったボロディンとリムスキー=コルサコフのように、ハチャトゥリアンは様々な古典形式やヨーロッパ発祥の様式で楽曲を作成するにあたって「東方風」並びに「東洋風」の材料に大きく頼っていた。しかし、文化的アイデンティティーとソビエトの支配層の中で積んだ厳格な音楽訓練のおかげで、彼は東方とコーカサスの音楽の神髄に対してより深い洞察ができたのであり、バレエなどの円熟期の作品にそれらをより完全な形で取り込むことが出来たのであった[82]。マリーナ・フロロヴァ=ウォーカーは次のように結論付けている。「決してロシア音楽の伝統から自らを切り離さなかったことで、彼はモスクワにおいて多種多様な伝統全てを集めて堂々たる普遍性にまとめあげた、ソビエト・オリエント全体の代弁者と認識されるようになったのである[69]。」
後世への影響
グネーシン音楽大学とモスクワ音楽院でのハチャトゥリアンの著名な教え子には外国籍の作曲家も含まれる。エジプトのアジズ・エル=シャワン[83][84]、ベネズエラのモデスタ・ボル[85]、キューバのエンリケ・ウビエタ[86]、ブルガリアのステファン・レメンコフ[87]、ルーマニアのアナトール・ヴィエルらである[7]。ソビエトの門人も多くおり、トリブ・シャヒディ[88]、ゲオルグス・ペレーツィス[89][90]、マルク・ミンコフ[91]、アレクセイ・リブニコフ[92]、アンドレイ・エシュパイ[7]、アルベルト・マルコフ[93]、ノダール・ガブニア[13]、エドガル・ホヴァニシャン[13]、ミカエル・タリヴェルディエフ[7]、エドゥアルド・ハガゴルティアンなどが挙げられる[94]。評論家のレヴォン・ハコビアンはハチャトゥリアンについて「保守的で自己陶酔型の教師」であったと評している[95]。
ハチャトゥリアンは若いアルメニアの作曲家に刺激を与え[24]、アルメニア音楽の発展に多大な影響を及ぼした[96]。ハチャトゥリアンの影響はアルメニアの室内楽と交響楽の伝統の中に見出され、例としてアルノ・ババジャニアン[97][98]、エドヴァルド・ミルゾヤン、コンスタンティン・オルベリアンらの作品を挙げることが出来る[99]。ロリス・チェクナヴォリアンの初期作品はハチャトゥリアンを想起させる[100]。
ハチャトゥリアンはアゼルバイジャンの作曲家(カラ・カラーエフなど)や[101][102]、中央アジアの作曲家にも影響を与えた[96]。評論家のルイス・ビアンコッリは1947年にウズベキスタンとタジキスタンは「自国音楽の特別な研究の機会に」ハチャトゥリアンを「借用」していると述べている[103]。
ハチャトゥリアンはブルガリアの作曲家パンチョ・ヴラディゲロフの親しい友人で、彼の音楽を賞賛していた[104][105][106]。ヴラディゲロフの最も人気の高い作品であるピアノ協奏曲第3番には、ハチャトゥリアンとラフマニノフの影響がみられる[107]。エックハルト・ファン・デン・ホーゲンはヴラディゲロフをガーシュウィンとハチャトゥリアンを繋ぐミッシングリンクのようなものだと述べている[108]。
東アジア
ハロルド・C・ショーンバーグは李徳倫のようにソビエトで学んだ中国の作曲家はハチャトゥリアンのような社会主義リアリズムの作曲家に「強く恩義を受けた音楽派閥」の一角を成していると論じている[109]。彼が述べるところでは彼らは「社会的リアリズムのソビエト思想に完全に染まった状態で、さらに悪いことにはハチャトゥリアンのような作曲家の技法をありったけ詰め込んで帰ってきた」のであった[110]。ショーンバーグは中国のバレエ『紅色娘子軍』(1964年)にはロシア・アカデミズムと東洋風異国趣味が取り入れられており、結果としてハチャトゥリアンの『スパルタクス』のような社会的リアリズムのバレエを思わせるような響きとなっていると記している[111]。さらにショーンバーグは毛沢東の妻であった江青の指導の下、殷承宗ら他が制作した黄河協奏曲(1970年)について[112]、「ラフマニノフ、ハチャトゥリアン、後期ロマン派の焼き直しであり、中国の音楽とワーナー・ブラザーズのクライマックスの劣化版である」と唱えた[110]。チュナ・チャンは同作品がハチャトゥリアンの楽曲と「多くの繋がりを有して」おり、「民族楽器の模倣や民謡の利用」がそれにあたると述べている[113]。中国で最も人気の高いピアノ協奏曲であるこの作品は[113]、「何百万人という中国人に西洋風の管弦楽曲を紹介するのに役立った」のであった[112]。
日本人作曲家である小倉朗の音楽では、「そのリズムと楽器法」にハチャトゥリアンの影響が示される[114]。芥川也寸志の作品も同様である[115]。ドナルド・リチーとジョゼフ・アンダーソンは1982年に「独立して」制作された日本映画の作曲家たちはハチャトゥリアンなどのソビエトの作曲家を「強く反映した」ような「音楽を生み出すよう注文されている」と述べている[116]。
私生活と人物像
ハチャトゥリアンは1957年の書簡の中で音楽と遺産の均衡に関する考えを仄めかしている。「私をエレバンに埋葬してください」と書きつつ「ですが、管弦楽はモスクワから寄越させてください」としていた[117]。
ハチャトゥリアンは「がっしりした、毛髪のふさふさしたアルメニア人」と表現される[48]。1968年の『ニューヨーク・ポスト』紙の音楽評論家ハリエット・ジョンソンは彼を「頑丈で、がっしりして、若々しい」と形容している[118]。ドミートリイ・ショスタコーヴィチは彼のものの見方を「基本的に楽観的で、我々の現実に関して生命を主張する見解」であると評している[119]。ソロモン・ヴォルコフがショスタコーヴィチの言葉だと主張する『ショスタコーヴィチの証言』において、著者は「ハチャトゥリアンと会うということは、何よりも、よい食事を腹いっぱいに食べ、楽しく飲み、あれやこれやについて話をするということを意味する。このため、私は時間があれば、彼との会合を断ることはない」と述べている[120]。本人と何度か会ったことのあるドイツの指揮者クルト・マズアは、ハチャトゥリアンが「ときに不快な人物」であったと述べている[121]。
ハチャトゥリアンはテニスを嗜み、球戯場でサッカーを観戦し、「熱心な劇場通い」であったという[122]。また、彼は生涯映画に関心を抱いていた[66]。
家族
ハチャトゥリアンは2度結婚している。最初の妻ラメルとの間に娘のヌネをもうけた。ヌネはピアニストとなった[123]。
1933年にはモスクワ音楽院のミャスコフスキーのクラスで同級生となったニーナ・マカロワと再婚した[56][124]。シャルロッテ・カーティスが評するところでは、彼女は「天然ピンクの頬と黒髪の大柄なロシア女性」であり、「ソビエト連邦でも指折りの人気女性作曲家として広く知られていた」という[124]。マカロワは夫婦の違いについて「彼はアルメニア人 - 気紛れで、力強く、少し東洋風。私はロシア人で抒情的」と語っている[124]。2人の息子のカレンは芸術評論家となった[123]。甥のカレン・ハチャトゥリアンも作曲家となった[12]。
価値観

ハチャトゥリアンは無神論者であったといわれており[注 9]、共産主義には熱心であり続けた[127]。ジェフリー・アダムズは彼が「忠実な共産主義信奉者」であり、「一般労働者に関する芸術の製作に専心した」と論じている[128]。ハチャトゥリアン自身は次のように書いている。「十月革命は根本的に私の人生を変えた。もし私が本当に真剣な芸術家に育っているとするなら、私が世話になったのは人民とソビエト政府のみである[45]。」
1948年の処分について尋ねられた際、ハチャトゥリアンはソビエト連邦による自作への一切の検閲を否定している。「まぁ、当局は私の音楽がうるさすぎると考えたわけで、確かに私は15本のトランペットを指定しましたし、ストコフスキーですら楽器法を見たときにその音楽を我々のやり方通りにはしないことを決めたくらいです。ですが、私はそれを変更しようとはしませんでした。作曲家たるもの、自らの着想を堅持せねばなりません[118]。」
1971年1月、ハチャトゥリアンはショスタコーヴィチ、イーゴリ・モイセーエフ、マイヤ・プリセツカヤと共にアメリカのニクソン大統領を訪問し、アンジェラ・デイヴィスを釈放するよう嘆願を行った[129]。西側の核物理学者に会った後の彼は、1973年に核物理学者であり反体制派のアンドレイ・サハロフを非難する11人のソビエトの作曲家に加わった[130]。
評価と名声
ハチャトゥリアンはソビエト連邦を代表する作曲であると広く認識されている[2]。ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、セルゲイ・プロコフィエフと並んでソビエト時代の三大作曲家のひとりに挙げられるのが一般的である[135]。ロナルド・クリクトンは彼の死に寄せて、生前のハチャトゥリアンは「ショスタコーヴィチ、プロコフィエフに次いで3番目に高名なソビエトの作曲家であった」と書いている[25]。
ロサンジェルス・フィルハーモニックによれば、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの作品ほどには「彼の作品は国際的な名声を得ていない」という[58]。これら2人及びドミトリー・カバレフスキーと共に、ハチャトゥリアンは「国際的な一般大衆に広く知られるようになった数少ないソビエトの作曲家のうちのひとり」であった[136]。音楽史家のハーロウ・ロビンソンによれば「彼のプロレタリアートの出自、非ロシアの民俗の出であること、そしてソビエトでの特訓が[彼を]ソビエトの多民族な文化的アイデンティティーを体現するソビエトの音楽体制内での力強い象徴たらしめた。彼はその文化的アイデンティティーを自国と国外で熱心に取り込んで利用したものである。」プロコフィエフ、ショスタコーヴィチとは異なり、ハチャトゥリアンは「完全なるソビエトの音楽体制、舞踏体制の申し子であった[137]。」
評価
『ジ・エイジ』紙はハチャトゥリアンが「プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフといった聞きなれた名前の最後のひとりであり」彼の死により「偉大なソビエトの作曲家の時代の終焉」が刻まれたと書いた。同時に、彼の死亡記事では「全体として、ハチャトゥリアンは知的音楽というよりポピュラー・クラシックの作曲者だった」と論じている[138]。『グラモフォン』誌の評論家アイヴァン・マーチは1985年にハチャトゥリアンの「名声は衰えている」と記している[139]。彼はヴァイオリン協奏曲と『ガイーヌ』を認める一方[139]、「彼の音楽の大半は期待外れだ」と述べた[140]。リチャード・タラスキンは1996年にハチャトゥリアンが「クラシック音楽の興行主から偉大な芸術家であるとのお墨付きを得ていない」と論じた[141]。タラスキンは2003年に生前のハチャトゥリアンは「ショスタコーヴィチよりも人気で、並び立つ者はプロコフィエフだけであった - しかし、今日では違っている」と述べ、音楽家が「ハチャトゥリアンを重視する」ことは皆無であり、彼は「常に大衆のための作曲家」なのだと論じている[117]。

『ロサンゼルス・タイムズ』に寄稿したジョゼフ・ウッダードは、ハチャトゥリアンが長きにわたり「20世紀の作曲家の中でも軽量級」と見られてきたと唱えているが[143]、クラシック音楽番組を主催するノーマン・ギリランドは彼を20世紀の「主要」作曲家であると評する[144]。2009年に『ガーディアン』のティム・アシュリーはハチャトゥリアンの西側での人気が衰えているのは、彼にソビエトの音楽の「イエスマン」のひとりであったという印象があるからだと記した。アシュリーが論じるには「彼が1948年に当局との大きないざこざに巻き込まれたことを思えば、そのような見方は安易である」とのことである[145]。指揮者のマリン・オールソップは2003年にハチャトゥリアンは「非常に演奏機会が少なく」、また「幾分過小評価」されていると述べた[5]。
アン・ミジェットはハチャトゥリアンが「テクニカラー音楽、映画音楽並みの規模と感性によって記憶」されていると述べる[146]。デイヴィッド・ナイスは『BBCミュージック・マガジン』誌にハチャトゥリアンが最良の働きをしているのは舞曲と付随音楽であると記した[147]。バーナード・ホーランドは『スパルタクス』を「社会的リアリズムの低俗作」と評したが、「ハチャトゥリアンが書くのは快適に楽しめるが驚きのない - 独創的な低俗作である」と論じている[148]。『ニューヨーク・タイムズ』紙の評論家であったハロルド・C・ショーンバーグはしばしばハチャトゥリアンに批判的だった。1968年には次のように書いている。「彼は全盛期ですらたいしたことのない人物であり、最近の彼の音楽にはほとんど得るものがない。ありきたりだからというわけではなく、素材や発想が二流だからである[149]。」ショーンバーグはハチャトゥリアンを重要かつ人気の高い作曲家、そして「著しい才能を持つ者」と評しながらも、1978年のその死に際しては彼が「あからさまにポピュラー音楽を作曲し」たのであり、彼の作品に触れるとそれが大抵の場合「お決まりの書き方」であることが明らかになると論じている。彼の作品については異国的で色彩豊かであると讃える一方、ハチャトゥリアンは「官僚的な作曲家であり、生み出すのは出来は良いが特に個性のない楽曲であって、波風を立てそうなものは全く何もない」と述べた[150]。1968年、『ニューヨーク・ポスト』紙の音楽評論家であるハリエット・ジョンソンは、ハチャトゥリアンの作風を「ポップ」であると評する者もいるかもしれないとしながらも、「アルメニアの遺産である東洋風の趣が行きわたった彼の旋律の独自性」と「容易く粗野に発展する彼のリズムの凄まじい唸り」を賞賛した[118]。彼女はハチャトゥリアンについて「農民の心を信じ、それを自らの音楽の中で気後れすることなく述べた巨大な音楽家」であると評している[118]。
アルメニアでの評判
ハチャトゥリアンは「アルメニア人の誇りたる現代の象徴的人物」のひとりであり[151]、「世界的に知られるようになった有名な息子」としてアルメニアの人々に褒め称えられている[152]。彼は20世紀では最も高名なアルメニア人作曲家であり[153]、ソビエト時代のアルメニアの文化を代表する最も有名な人物である[154]。彼は「飛びぬけて重要なアルメニアの作曲家[61]」、「アルメニアのチャイコフスキー[155]」であり、20世紀のアルメニア文化にとって鍵となる人物と看做されている[156]。彼は今もって国際的重要性を得るに至った唯一のアルメニア人作曲家である[注 10]。アルメニア音楽が世界に認識されたのは彼の実績であるとされる[10]。シャハン・アルズルーニはハチャトゥリアンを「アルメニア文化の音楽大使」と呼んでいる[157]。
死後の名声と記念

エレバン歌劇場のフィルハーモニック・ホールは、1978年以降公式にアラム・ハチャトゥリアン大コンサート・ホールと呼称されている[7]。エレバンのアラム・ハチャトゥリアンの家博物館は1982年に開館した[159]。
2人のアルメニアの後輩作曲家がハチャトゥリアンの想い出に楽曲を捧げている。アルノ・ババジャニアンは彼の死後すぐにサヤト=ノヴァに霊感を得たエレジーを作曲しており[160]、エドヴァルド・ミルゾヤンは1988年、没後10年に合わせて弦楽オーケストラのための『アラム・ハチャトゥリアンの思い出に寄せる詩碑銘』を書いた[161][162]。
1998年にアルメニア中央銀行が発行した50ドラム紙幣には、表面にハチャトゥリアンの肖像画とエレバン歌劇場が描かれ、裏面にはバレエ『ガイーヌ』のエピソードとアララト山が描かれていた[158]。この紙幣は2004年に同額の硬貨に置き換えられるまで使用された。彼はアルメニアの紙幣に描かれた2人の作曲家のうちのひとりである(もうひとりは2018年以降10,000ドラム紙幣に描かれているコミタスである)。
2013年、ユネスコはハチャトゥリアンの手書きのメモや映画音楽を「世界の記憶」として認定した[163][164]。
ハチャトゥリアンにちなんで名づけられた音楽学校がトビリシ[165][166]、モスクワ[167](1967年創設、1996年に現在の名称に変更)、エレバン[49][168]、マルトゥニ[169]、ウォータータウン[170]、などの各所に存在する。
2003年以降、エレバンにて毎年ハチャトゥリアン国際コンクールが開催されている[171][172]。
彫像

1999年7月31日、ユーリ・ペトロシャンが19世紀の写実主義の様式で制作した3メートル半のハチャトゥリアンの像が[173]、エレバン歌劇場のハチャトゥリアン・ホール前で除幕を迎え、大統領ロベルト・コチャリャン、議長カレン・デミルチャン、代表的詩人のシルヴァ・カプティキャンが出席した[174]。2013年4月30日には、ゲヴォルグ・ゲヴォルギャン制作のハチャトゥリアンの胸像がエレバンのアラブキル地区で彼の名を冠した通りに建立された。この通りは彼の生誕110年に合わせてエレバン市長のタロン・マルギャンによって命名された[175]。
ゲオルギー・フラングリャンのハチャトゥリアン像は2006年10月31日にモスクワで除幕された。著名な出席者にはアルメニア大統領ロベルト・コチャリャン、モスクワ市長ユーリ・ルシコフ、ロシアのファースト・レディであったリュドミラ・プーチナらがいた[176]。アルメニアの彫刻家ミカエル・ソゴヤンによるハチャトゥリアンの胸像が2017年にモスクワ音楽院に[177]、また2021年8月にはニジニ・ノヴゴロドにある彼の名にあやかった芸術学校の正面にて除幕されている[178]。
映画
ハチャトゥリアンが没する1年前の1977年、スタジオ・エクランが彼のドキュメンタリーを制作した[16]。1985年にはエレバン・スタジオが彼に関する新しいテレビ・ドキュメンタリーを制作している[179]。2003年、ピーター・ローゼン監督、エリック・ボゴシアンのナレーションで83分に及ぶ独自の映像を用いたドキュメンタリーが生み出された[180][181]。この作品は2003年のハリウッド映画祭で最優秀ドキュメンタリーに輝いている[182]。2004年、ロシア国営放送芸術チャンネルであるロシアKは、『アラム・ハチャトゥリアンの世紀』(Век Арама Хачатуряна)という題のドキュメンタリーを制作した[183]。
褒賞
アカデミアでの肩書[14]
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他国[184]
名誉称号[14]
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主要作品
- 1926年(23歳)
- ヴァイオリンとピアノのための舞曲
- 1929年(26歳)
- ヴァイオリンとピアノのための詩曲
- 弦楽四重奏曲
- クラリネット・ヴァイオリン・ピアノのための3重奏曲
- ピアノのためのトッカータ
- 1933年(30歳)
- ウズベク民謡主題による2つの小曲(吹奏楽曲)
- 舞踏組曲(管弦楽曲)
- 1934年(31歳)
- 交響曲第1番 ホ短調
- 映画『ペポ』
- 1936年(33歳)
- 1938年(35歳)
- 混声合唱と管弦楽のための「スターリンの詩」
- 1939年(36歳)
- バレエ曲『幸福』、『ガヤネー(ガイーヌ)』
- 1940年(37歳)
- ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
- 『ヴァレンシアの寡婦(ヴァレンシアの未亡人)』(劇音楽)
- 『仮面舞踏会』(ミハイル・レールモントフの劇のための音楽)
- 1942年(39歳)
- 「大祖国戦争の英雄たちに」(行進曲)
- バレエ『ガヤネー(ガイーヌ)』(初演)(3幕6場)
- 剣の舞、子守唄、ばらの乙女達の踊り、ガイーヌのアダージョ、レズギンカ、山岳人の踊り、など
- 1943年(40歳)
- 組曲『ガヤネー(ガイーヌ)』第1番・第2番・第3番(管弦楽曲)
- 1944年(41歳)
- 1945年(42歳)
- 2台のピアノのための組曲
- 映画『囚人217号』
- 1946年(43歳)
- チェロ協奏曲 ホ短調
- 3つの演奏会用詠唱(独唱と管弦楽のための作品)
- 1947年(44歳)
- 交響曲第3番 ハ長調「交響詩曲」
- 子どものためのアルバム 第1集(ピアノ曲)
- 1948年(45歳)
- ウラジーミル・イリイチ・レーニン追悼の頌歌(管弦楽曲)
- 1949年(46歳)
- 映画『スターリングラード攻防戦』
- 1950年(47歳)
- 映画『秘密任務』
- 1952年(49歳)
- 組曲『ヴァレンシアの寡婦』
- 導入部、セレナーデ、歌、こっけいな踊り、間奏曲、舞曲
- 1953年(50歳)
- 映画『ウシャコフ提督』
- 1954年(51歳)
- 『スパルタクス』(バレエ曲)
- 管弦楽のための祝典序曲
- 1955年(52歳)
- 組曲『スパルタクス』第1番・第2番・第3番(管弦楽曲)
- 『幸福の頌歌』(メゾソプラノ独唱、合唱、10のハープと40のヴァイオリンの合奏、管弦楽のための作品)
- 映画『オセロー』(監督:セルゲイ・ユトケーヴィチ)
- 1956年(53歳)
- バレエ『スパルタクス』 (初演)(4幕9場)
- 映画『永遠のかがり火』
- 1959年(56歳)
- 歓迎序曲(管弦楽曲)
- ピアノのためのソナチネ
- 1961年(58歳)
- ピアノソナタ
- 1962年(59歳)
- ヴァイオリンと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディー
- 1963年(60歳)
- チェロと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディー
- 1965年(62歳)
- ヴァイオリンとチェロのためのラプソディー
- 子どものためのアルバム 第2集(ピアノ曲)
- 1968年(65歳)
- ピアノと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディー(改訂版)
- 1976年(73歳)
- 無伴奏ヴァイオリンのための「幻想ソナタ」
- 無伴奏チェロのための「幻想ソナタ」
ハチャトゥリアンが出演した映画作品
- 1968年『作曲家・ハチャトゥリアン』(マリアンナ・タブログ監督、劇場未公開)
- 1979年『アラム・ハチャトゥリヤン』(Yu・アリドーヒン監督、劇場未公開)
