アズィズ・ネスィン

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生誕 メフメット・ヌスラット[注釈 1]
(1915-12-20) 1915年12月20日
ヘイベリ島英語版, イスタンブール, オスマン帝国 (現在のトルコ)
死没 1995年7月6日(1995-07-06)(79歳没)
アラサトゥ英語版, チェシュメ, トルコ
国籍 トルコ
アズィズ・ネスィン
Aziz Nesin
アズィズ・ネスィン
生誕 メフメット・ヌスラット[注釈 1]
(1915-12-20) 1915年12月20日
ヘイベリ島英語版, イスタンブール, オスマン帝国 (現在のトルコ)
死没 1995年7月6日(1995-07-06)(79歳没)
アラサトゥ英語版, チェシュメ, トルコ
国籍 トルコ
職業 ユーモア作家英語版
配偶者
    Vedia Nesin(結婚 1939年1948年)
    [1]
      Meral Çelen(結婚 1956年1967年)
      [注釈 2]
      子供 4人[4]
      ※Vediaとの子供
      オヤ・ネスィン(娘:1940生)[1][5]
      アテシュ・ネスィン(1942生)[6]
      ※Meralとの子供
      アリ・ネスィン英語版(1956生)[7]
      アフメット・ネスィン英語版(1957生)
      テンプレートを表示

      アズィズ・ネスィン(Aziz Nesin、1915年12月20日[注釈 3] - 1995年7月6日)は、トルコユーモア作家英語版で、100冊以上の著作がある[8]。トルコにまだ公式な姓が無かった時代に生まれ、1934年にトルコの命名法英語版が成立すると、姓をつけなければならなかった。彼の家族は「トパル・オスマン」という祖先に因んだ「トパルオスマンオグル」という愛称で呼ばれていたが[9]、彼は姓に「ネスィン」を選んだ。トルコ語で「ネスィン?」は、「君は何者?」を意味する[10][11]。アジズ・ネシンとも表記される[12][13]

      よく知られている「アズィズ・ネスィン」の、「アズィズ」は元々は父親の愛称[11]で、彼が本を出すようになった頃は「ネスィン」をペンネームとしていた。彼は50以上のペンネームを使い、「ヴェディア・ネスィン」は最初の妻の名前で、週刊誌『イェディギュン』に恋愛詩を載せる際に使っていた[1][14]

      生涯

      彼はオスマン帝国期の1915年、イスタンブールプリンスィズ諸島にあるヘイベリ島英語版で生まれた。宗教的な家庭で、8歳までにコーランを暗記していたという[11]。少年期に母を亡くし、14歳で軍人学校に入った[11]。1936年からアンカラの士官学校で学び、イスタンブールの工科技術学校でも学んだ[11]。何年か将校として勤務した後、社会主義風刺雑誌の編集者になった。彼の政治観により、彼は何度も拘留され、トルコ国家安全保障局英語版(MAH)の監視下におかれた[15][16]

      1946年、ネスィンは作家のサバハッティン・アリリファト・イルガズ英語版と共に週刊風刺雑誌『マルコパシャ英語版』を創刊した[17][11]。それまでネスィンは新聞『タン』英語版に寄稿していた[18]。1950年代に彼は雑誌『フォーラム』英語版の寄稿者の一人だった[19]

      1953年に初の短篇集『残ったもの(Geriye Kalan)』[20] を出版、1954年からユーモア雑誌『アクババ』に種々のペンネームで寄稿していた[11]。1956年6月6日、彼は『アクババ』の同僚メラル・チェレンと結婚した[21]。同年ドゥシェン出版社設立、また国際ユーモアフェスティバルで金の椰子賞を受賞した[11]

      彼は1965年にブルガリアを訪れ、詩人のレジェップ・クプチュ英語版と会い、彼の手稿をトルコへ持ち帰った[22]

      1972年、彼はネスィン財団をチャタルジャに設立した[11][23]。ネスィン財団の目的は、毎年4人の貧しい子どもを受け入れ、住居と小学校教育を提供し、高校、商業学校あるいは仕事に就くまで面倒を見ることだった。アズィズはネスィン財団に、彼のトルコと海外の著作権使用料全額を寄付したが、それには彼の全著作、全戯曲、全ドキュメンタリー、ラジオやテレビでの放映されたもの全ての著作権料が含まれていた[24]

      アズィズ・ネスィンは政治活動家であった。ケナン・エヴレンが主導した1980年のクーデターの結果、トルコの知識人は厳しい弾圧を受けた。アズィズ・ネスィンは軍事政権に対抗し、ヤルチン・クチュク英語版コルクト・ボラタフ英語版アートゥフ・ユルマズ英語版ムラット・ベルゲ英語版ら知識人の請願書を提出した[25][11]。彼は2回トルコ作家連合トルコ語版の会長に就任したが、1回目は1985年から1986年、2回目は1987年から1990年であった[26]

      彼はイスラム批判者でもあった[27]。1990年代初頭、彼はサルマン・ラシュディの問題の小説『悪魔の詩』を翻訳した[11]。これはトルコに広まっていたイスラム組織の反発を受け、襲撃の危険にさらされた。1993年7月2日、彼がアナトリア地方中部の都市スィヴァスで開催されたアレヴィー派の文化祭に参加していた際、祭典関係者が宿泊していたマディマクホテルの周りにイスラム教徒の暴徒が集まった[28][29]。包囲の数時間後、暴徒はホテルに火を放った。ホテルの下層階が火に包まれたが、消防隊が何とか近づき、アズィズ・ネスィンと多くのホテル客は避難した。しかしながら、37人が死亡した[30][31]。このスィヴァスの虐殺トルコ語版と呼ばれる事件は、当時のトルコにおける検閲英語版人権の状況英語版を表わしていた。これはまた、イスラム原理主義者と彼らが異教徒とみなす無神論者との溝を深めた。

      彼は晩年を宗教的原理主義との闘いに捧げた。彼は1995年7月6日にイズミルチェシュメで、心臓発作のため亡くなった[32]。遺言により彼の遺体はネスィン財団の庭に埋葬された[11]。第3子で数学者のアリ・ネスィン[注釈 4]が財団を引き継いでいる[23]

      英訳された著作

      ネスィンのいくつかの著作は英語に翻訳されて出版された。

      電子版

      日本語訳された著作

      • 護雅夫 訳『口で鳥をつかまえる男:アズィズ・ネスィン短篇集』藤原書店[33]、2013年5月。ISBN 978-4894349155 林佳世子解説)
      • ナスレッティンホジャ』アジズ・ネシン トルコ語語り、タラト・ハルマン英語版 英語訳[34]、原田武子 英語版からの訳、Istanbul : Dost Yayinlari、1994年、ISBN 975-7499153[12][35]

      脚注

      参考文献

      外部リンク

      Related Articles

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