賢人会議
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ウィタン(英語:Witan、賢人会議 とも[1]。古英語で 賢人たち という意味)とは、7世紀以前から11世紀まで存在したアングロサクソン諸王国の統治機構における国王主体の評議会(御前会議)のことある。これには太守、従士、司教などの高位な貴族が参加した。ウィタンの会議はしばしば ウィテナゲモート(witenagemot) とも呼ばれた[note 1]。
ウィタンの主な役割は、立法、司法事件、土地譲渡、その他の国家的重要事項について王に助言することだった。ウィタンには王族の中から新しい王を選出する役割も含まれていた。1066年のノルマン・コンクエスト後は、類似の評議会であるキュリア・レジスがその役割を担った。
ウィタンはイングランド議会の前身とみなされている。20世紀以前の歴史家は、これを民主的かつ代表的な制度である「原始議会」と考えていた。しかし20世紀には、歴史解釈が変わり、ウィタンは本質的に臨時的で王権依存の存在と強調されるようになった。
古英語の語 witan(「賢人たち」)は、アングロサクソン王の顧問を意味した。同時に、この語は他の種類の顧問団、例えば「シャイア(郡)裁判所のウィタン」にも用いられた[3]。ヨーク大司教ウルフスタン2世(在位:1002年 – 1023年)は『政治規範(Institutes of Polity)』において、「司教には、尊敬すべき『ウィタン』を常に同行させ、共に住まわせ、彼らと諮問することが課せられている…」と記している[4]。また950年代のミドルセックスの土地をめぐる紛争の記録には、Myrcna witan(マーシアのウィタン)による裁定について言及されている[5]。
ウィタンの会合を示す最も一般的な古英語の語は gemot で、micel gemot(「大集会」)と拡張されることもあった。ラテン語文書では conventus や magnum sapientium conventus(「賢人たちの大集会」)が使われた。現代の学者は技術的用語として witenagemot(「顧問たちの集会」)を用いるが、[3] 歴史家ジョン・マディコットは11世紀における用例の希少性(ノルマン・コンクエスト以前における使用事例はわずか9例で、主に1051年 – 1052年の混乱期に限られる)を指摘している[6]。パトリック・ウォーマルドも「1035年以前には確認されない、常に稀少な語」であると慎重に述べている[7]。
起源
ウィタンの起源は、ゲルマン民族の諸王が有力者の助言を求めるという慣行にある。この習慣は、ローマ帝国がブリテン島を放棄した後に成立した多数のアングロサクソン人の王国に受け継がれた。マディコットによれば、初期の「王権会議」は後世の会議のような定期性・構造的形式・明確な議題を持たず、むしろ地方的であった[8]。ウィタンの存在を示す最古の記録は、600年頃に成立したのケント王エゼルベルト1世による法典であり、これは、まとまった古英語散文として現存する最古の文書である[9]。
9世紀以前に王国を越えて開催されていた会議は教会会議だけであり、(672年に開催されたハートフォード教会会議などがその例である)、10世紀のアゼルスタン王によるイングランド統一によって初めてウィタンは全国区で行われる会議形態を持つようになった[10]。
出席者と開催地
歴史家ブライス・ライアンによれば、ウィタンは「明確な構成や機能を持たない、アメーバ的な組織」であったという[11]。ただし、世俗および聖職の主要貴族の出席が不可欠であったことは確かである。王はウィタンで勅許状を発布し、それに付される署名者リストを通じて評議会の出席者を知ることができる[12]。約2,000の勅許状と40の法典が約300回のウィタン評議会の活動を通じて発布・決定されていることが確認されている[13]。 署名者は通常、序列に従って列記され、王が最初に署名し、次に:
の順に列記することが通例であった[14]。
イングランド王がウェールズ王に宗主権を主張した場合、ウェールズ諸王も出席することがあった[15]。
アングロサクソン期のイングランドには固定的な首都は存在せず、宮廷は移動式であった。ウィタンは王宮、都市、狩猟小屋など様々な場所で開かれた。900年から1066年の間に50以上の開催地が記録されており、ロンドンやウィンチェスターが好まれた。その他にはアビンドン、エイムズベリー、アンドーヴァー、アイレスフォード、クッカム、ドーチェスター、ファヴァシャム、キングズ・エナム、サウサンプトン、ワンテージ、オックスフォード、カートリントン、ウッドストックなどがある。西部地方ではグロスター、アクスミンスター、バース、カルン、チェダー、チッペナム、サイレンセスター、エディントン、マルムズベリー、ウィンチカム、エクセターなどで開催された。北部での開催は稀であったが、934年にノッティンガム、1045年にリンカンで開催された例がある。会合は随時開かれたが、クリスマス、四旬節、復活祭といった時期に多くの貴族が宮廷に集まる際によく行われた[16][17]。
役割
ウィタンは立法において重要な役割を果たした。王とその顧問は法律を起草し、その後ウィタンに諮問し同意を求めた。ライアンによれば、この過程は「国中の様々な意見を取り入れ、法により強固な支持を与える」ものであった。ウィタンは世俗法と教会法の双方に関わったが、教会法は聖職者が起草し、俗人の貴族は同意を与えるのみであった[18]。
ウィタンの影響は立法にとどまらなかった。王は、貴族に負担を強いる特別課税(デーンゲルドなど)についてもその助言と同意を求めた。また、戦争・和平・条約に関する議論も行われた[19]。王の遺言の宣言もウィタンの評議会で行われた[15]。
さらに、王は会合でブックランド(勅許状を通じて授受される土地)を授与する勅許状を発行した[15]。その署名者リストはウィタンの同意を証明するものであった。この慣行は、証人を必要とした後期ローマ法から由来している。歴史家レヴィ・ローチは、「ローマ帝国との官僚的連続性がなく、公印や公証人の署名を用いることができなかったため、私的取引の承認方法を模倣する証人制度を用いたことは、早期イングランドの勅許状にとって優雅な解決策だった」と説明している[20]。
王の選出と廃位
同時代の史料には、ウィタンにceosan to cynige(「王を選ぶ」)という特権があったと記している。しかし少なくとも11世紀までは、王位継承は一般に「通常の長子相続制」に従った。歴史家チャドウィックは、この事実を「ウィタンによる選挙」とは、実際には前王の自然な後継者を正式に承認する儀礼に過ぎなかった証拠だと解釈した[21]。だがリーバーマンはより慎重な見方を示し、王権の特権が絶対ではなく、ウィタンの役割を無視できないと考えた[22]。
王、少なくとも王権が議会の構成に与える影響は甚大であった。しかし一方で、王はウィタンによって選ばれた… 彼は生涯在任する司教や太守を罷免できず、世襲のテーンをも排除できなかった… いずれにせよ王は、前王に任命された最高官僚たちと、たとえ嫌っていても死で空席ができるまで共にやっていかざるを得ず、その際も貴族の意向を考慮せずに身内や寵臣を任命することはできなかった。
修道院長エルフリック は次のように述べている:
誰も自分で王になることはできない。民が自ら望む者を王として選ぶのだ。しかし一旦聖別されて王となれば、彼は民に支配権を持ち、その軛を民が首から振り払うことはできない。
王を廃位する権限もウィタンにあったとされるが、その事例は2回しか確認できない。757年のウェセックス王シゲベルト王と、774年のノーサンブリア王アルフレドの廃位である[23]。
その力を示す例として、1013年にイングランド王エゼルレッド2世がデンマーク王のスヴェン双叉髭王から逃れて国外に出た際、ウィタンはスヴェンを王に推戴した。だが数週間後にスヴェンが死去すると、ウィタンは条件付きでエゼルレッドを亡命先のノルマンディー公国から呼び戻した。『アングロサクソン年代記』によれば、その条件とは「以前より良い統治を行う」という誓約だった[24]。これを受けてエゼルレッドは復位した。エゼルレッド2世の渾名「無策王」の由来となった古英語「Unræd(無策)」は「悪い助言」を意味し、 当時の人々がウィタンの助言責任を指摘していたことを示す。
1065年末、エドワード懺悔王が昏睡状態となり継承の意思を明確にしないまま翌1月5日に死去した。翌日開かれたウィタンはハロルド・ゴドウィンソンをイングランド王に選出した[25]。
ノルマン・コンクエスト
1066年のノルマン・コンクエスト後、ウィリアム征服王はウィタンを廃止し、キュリア・レジスに置き換えた。ただし12世紀に至るまで当時の年代記作者たちはキュリア・レジスを「ウィタン」と呼び続けた[26]。マディコットは、ウィタン(彼の言葉では「王権会議」)を「前コンクエスト期の評議会、そしてその後継組織である議会の直接的前駆者」と評している[27]。
史学史
「サクソン神話」と呼ばれる説では、「かつてのサクソン人たちのウィタンはノルマン人によって解体されるまでイングランドの地主たちの代表議会であり、その後イングランド議会として復活した」と主張された。この考えは、アメリカ独立革命前の北米13植民地でも広く信じられ、トマス・ジェファーソンやジョナサン・メイヒューらもこれを支持した[28]。19世紀のホイッグ派歴史家たちは、イギリス憲法の発展を説明する中で、ウィタンを「イギリス議会の祖先」とみなし、フェリックス・リーバーマンは「イギリス議会の直系の祖先の一つ」と記している[29]。
第一次世界大戦後、フランク・ステントンやドロシー・ホワイトロックらはアングロサクソン期をその時代固有の文脈で理解しようとし、ステントンは著書『Anglo-Saxon England』(1943年)で「ウィタン」「ウィテナゲモート」の代わりに「王の評議会(King’s Council)」という用語を用いた。これにより、会議は「原始議会」ではなく「王権機関」として理解されるようになった[30]。
ステントンらが指摘したように、ウィテナゲモートは将来のイギリス議会とは大きく異なり、定められた手続き・会期・開催地を持たないなど大きな制約があった[31]。歴史家デイヴィッド・スターディーは著作『アルフレッド大王』(1995年)で、「国家的機関や民主的団体としてのウィタンというヴィクトリア朝的発想は根拠のない幻想である」と論じた[32]。
多くの現代史家は「ウィタン」「ウィテナゲモート」という語の使用を避けるが、ジェフリー・ヒンドリーのように「本質的にヴィクトリア朝的造語」と断じる者もいる。[33] 『アングロサクソン・イングランド百科事典』(Blackwell)は「王の評議会」を好むが、古英語では「ウィタン」と呼ばれていたと注記している[34]。
マディコットは「ウィタン」という語に疑念を抱き、『アングロサクソン年代記』など史料に見えるにもかかわらず、より中立的な単語である「民会(assembly)」を用いることを選んだ[35]。
しかし『ウィタン』という語には、正当性の乏しい古臭い学問臭さがどうしてもつきまとってしまう。加えて、その語を使うこと自体が、ある重要な問いに対して先入観を与えてしまう危険があるのだ――つまり、ここにあるのは、制度化された大文字の〈Witan〉という機関なのか? それとも、王の顧問たちが臨時に集まっただけの小文字の〈witan〉なのか?
ヘンリエッタ・レイザーは2017年に、歴史家たちは長いあいだ、“ウィタン”という語が議会の原型と解釈されるのを避けるために、この語の使用を控えてきたと述べている。だが彼女は続けて、近年の歴史学ではこの語が再び用いられるようになったとも記している。というのも、王の“賢人たち(witan)”が多数同席しなければ処理できない種類の案件が存在したことは明らかであり、つまり“王のウィタン”の場でなければ解決できない事柄があったからである。もっとも、彼女は “witenagemot” という語については触れていない[36]。
その他の用例
今日では、国際会議の通称または名称、加えて食品安全委員会のような日本国内の会議などを賢人会議と称する例[37]、「日本賢人会議所」や「九州賢人会議所」など一般社団法人の名称として用いられる例などが知られている[note 2]。国際的な会議を指す場合は、国際賢人会議と呼ばれる。
- 地球環境賢人会議
- 核軍縮の国際会議の通称としての賢人会議
- 核軍縮をめぐる賢人会議としては、「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」(ICNND〈International Commission on Nuclear Non-proliferation and Disarmament〉)の通称として、国際賢人会議という語が用いられる[note 4]。
- 世界経済フォーラムの異称・通称としての賢人会議