アヌ (ホシュート)
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| 名字称号 | |
|---|---|
| 漢文 | 阿奴[1] / 阿努[2] |
| 称号 | 阿奴・喀屯アヌ・ハトゥン[3] |
| 出生死歿 | |
| 出生年 | 不詳 |
| 死歿年 | 康熙35年(1696) |
| 親族姻戚 | |
| 先祖 | ジョチ・カサル |
| 曾祖叔父 | トゥルバイフ (グーシ・ハーン) |
| 祖父 | オチルト・チェチェン・ハーン |
| 後夫 | ガルダン・ハーン |
アヌ(anu[4])は、ホシュート部オチルト・チェチェン・ハーンの孫娘で、ジューン・ガル部ガルダン・ハーンの妻。後夫ガルダンがハーン (王) に即位したため、阿奴・喀屯アヌ・ハトゥン[3]とも (ハトゥンは王后の意。
アヌはチンギス・ハーン弟ジョチ・カサルの末裔で、グーシ・ハーン朝 (チベット) 始祖トゥルバイフ (グーシ・ハーン) の曾姪孫にあたる。ホシュート部とその分派のグーシ・ハーン朝、およびジューン・ガル部はともにオイラット聯合に属し、ガルダンがオチルトに代るまではホシュート部がその盟主の地位を占めた。
ジューン・ガル部のセンゲsenggeに嫁ぎ、センゲの死後、その同母弟ガルダン・タイジに再嫁した。[4][2]
康熙16年 (1677) 5月頃、祖父オチルト・チェチェン・ハーンが夫ガルダン・タイジの襲撃を受けて死亡[5][6] (または投降したとも)。
康熙18年 (1679) 9月、後夫ガルダン・タイジがハーン (王) に即位 (清朝康熙帝が実質的に承認)、[7]オチルトに代ってオイラット聯合の実質的盟主となった。[8]
康熙29年 (1690) 4月、この頃ガルダン・ハーンと反目していたアヌの許に康熙帝が使者として侍読学士・達虎を派遣。[9]
康熙30年 (1691) 2月、アヌらの派遣した使者が清朝に到着し、ガルダンとの反目の顛末を奏上。[10]同年10月、偵察を終えて帰還すべく嘉峪関に至った達虎らを阿奇羅卜臧不詳が襲撃掠奪したことを承け、甘粛提督・孫思克が出兵し400余名を斬伐。
康熙35年 (1696) に康熙帝がジューン・ガル部を討伐した昭莫多ジョーン・モドの戦役に自らも出陣し、清軍と交戦して陣没。後夫ガルダン (ボショクト・ハーン) は遁走した。[11][12][13]