アハルカラキ
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現在の街の名はジョージア語で「新しい」を意味する「アハル」"ახალ" と「街」を意味する「カラキ」"ქალაქი" からなるが、18世紀の旅行者、ヨハン・アントン・ギュルデンシュテットの旅行記においては、この街は「アハルカタク」や「ノル・カタク」の名でも言及されている(アルメニア語で「ノル」«նոր» は「新しい」、「カタク」«քաղաք»は「街」を意味する)[2]。
アハルカラキは、9世紀から10世紀頃に現在の場所とは異なる位置に建設され、1064年に現在の位置で都市とされた[3]。1066年にはセルジューク朝のグルジア王国侵略によって街は破壊された[4]。その後、11世紀にバグラティオン朝の治下に収まるまでは、街はグルジア人とアルメニア人による両属状態となっていた[5]。16世紀末にオスマン帝国の領域となり[3]、チルディル州の中心都市「アフルケレク」となった。
第三次露土戦争中の1811年にはロシア帝国の軍勢が街を占領した[3]。しかし、翌1812年のブカレスト講和条約によって、街は再度オスマン領へ戻された[3]。その後、1828年にイヴァン・パスケーヴィチ将軍によって再度占領され、翌1829年にロシア帝国領とされた[6]。同年には、街の主な人口はムスリム化したグルジア人であった[5]。しかし、併合後に街のムスリムはオスマン領へ脱出し、代わってエルズルムやドーウベヤズトからのアルメニア人難民が、街に定住するようになった[5]。グルジア・ソビエト百科事典[7]および自治体サイト[3]によれば、この人口移動はロシア政府による意図的なものとされている。
ソ連時代には、ボルジョミ、アハルツィヘ、レニナカンと高速道路で結ばれており、主な産業はチーズ・レモネード・澱粉・木材の製造や醸造、農業となっていた[8]。ソビエト連邦の崩壊後も長らく駐留ロシア連邦軍の基地がおかれていたが、2007年6月、ロシア軍は基地をジョージア側に引き渡して撤兵した[9]。