バグラティオニ朝

中世から19世紀初頭にかけてジョージアを統治した王朝 From Wikipedia, the free encyclopedia

バグラティオニ朝(バグラティオニちょう、ジョージア語: ბაგრატიონებიジョージア語ラテン翻字: Bagrationebi)は、中世から19世紀初頭にかけてジョージアを統治した王朝である。バグラティオニ朝は、現存するキリスト教支配王朝の中でも最古級の一つに数えられる。

最後の当主
現当主 係争中
断絶 1801年–1810年
概要 バグラティオニ朝 ბაგრატიონები, 国 ...
バグラティオニ朝
ბაგრატიონები
アレクサンドル・ネフスキー大修道院にある、バグラティオニ家の墓碑の紋章
ジョージア
最後の当主
現当主 係争中
断絶 1801年–1810年
分家
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バグラティオニ朝の起源については諸説ある。多くの研究者は、バグラティオニ朝がアルメニアバグラトゥニ朝英語版に由来し、バグラトゥニ家の一支流であると考えている。初期のジョージアにおけるバグラティオニ家は、8世紀末にホスロイド朝英語版に代わり、王朝間の婚姻を通じてイベリア公国ジョージア語版を獲得した。888年、アダルナセ4世英語版がジョージアの王制を復活させ、イベリア王となった。その後、国内の諸勢力が統合英語版され、ジョージア王国が成立した。ジョージア王国は11世紀から13世紀にかけて繁栄した。この期間のうち、特にダヴィト4世建設王(在位: 1089年–1125年)とその曾孫タマル女王(在位: 1184年–1213年)の治世は、ジョージア史における黄金時代を築いた[1]

15世紀後半に統一ジョージア王国が分裂すると、バグラティオニ朝の諸分家はカルトリ王国カヘティ王国イメレティ王国英語版の3つの分立した王国を統治した。バグラティオニ朝による統治は、19世紀初頭にロシア帝国がジョージアを併合するまで続いた[1]。1783年に締結されたゲオルギエフスク条約英語版の第3条は、バグラティオニ朝の主権およびジョージア王位の世襲的地位の存続を保証していた。しかし、ロシア帝国は後に条約の条件を破り、保護国であったジョージアを完全に併合した[2]。バグラティオニ家は1917年の二月革命まで、ロシア帝国の貴族家系として存続した。1921年にジョージアでソビエト政権が樹立されると、バグラティオニ家の一部の人々は、ジョージア国内での地位の格下げや財産の喪失を受け入れることを余儀なくされた。他のバグラティオニ家の人々は西ヨーロッパに移住した[1]。一方で、1991年にジョージアが独立を回復した後、ジョージアに帰国したバグラティオニ家の成員も存在する。

起源

バグラティオニという王朝名の最も初期のジョージア語形には、「バグラトニアニ」(ბაგრატონიანიBagratoniani)、「バグラトゥニアニ」(ბაგრატუნიანიBagratuniani[3]、「バグラトヴァニ」(ბაგრატოვანიBagratovani)がある。これらの名称は、後に「バグラティオニ」(ბაგრატიონიBagrationi)へと変化した。これらの名称は、アルメニア語の「バグラトゥニ」(ԲագրատունիBagratuni)や、ギリシア語形の「バグラティダイ」(ΒαγρατίδαιBagratidai)と同様に、「バグラトの子ら」あるいは「バグラトによる家系」、「バグラトによって創設された家」を意味する。「バグラト」(ბაგრატBagrat)は、古代ペルシア語Bagadāta-(「神に与えられた者」)を起源とする個人名である[4]。バグラティオニ朝の起源については、現在もなおジョージアとアルメニアの研究者たちの間で議論が続いている。ジョージアの研究者たちは、バグラティオニ家がジョージア起源であると主張している。一方、アルメニアや西ヨーロッパの研究者たちは、バグラティオニ家をアルメニアのバグラトゥニ家英語版の一支流であると見なしている[5]

11世紀ジョージアの年代記作家スムバト・ダヴィティス・ゼジョージア語版[6][7][8]の著作に初めて記録され、後にヴァフシティ・バグラティオニ(1696年–1757年)によって繰り返された伝承によれば、バグラティオニ朝は聖書に登場するであり預言者でもあるダビデの末裔であり、紀元530年ごろにイスラエルの地から移住したとされる。この伝承によれば、ダビデの血を引く7人の兄弟が到来し、3人がアルメニアに定住し、残る4人がカルトリイベリアとも呼ばれる)に到達した。これら4人は、現地の統治者の家系と婚姻関係を結び、いくつかの土地を世襲領地として獲得した。これら4人のうちの一人であるグアラム(532年没)は、その息子バグラトにちなんで、後にバグラティオニと呼ばれる家系を創始したとされる。575年、その始祖グアラムの跡を継ぎ、同名のグアラムが、ビザンツ帝国の保護下でイベリアの執政公(エリスムタヴァリ)に据えられた。その際、グアラムはビザンツ宮廷の称号である「クロパラテス英語版[注釈 1]を授与された[10]。この説によれば、1801年まで統治を行ったバグラティオニ朝は、その時点から始まったとされる[11]

この伝承は、20世紀初頭まで一般的に広く受け入れられていた[12][7]。しかし現代の研究においては、バグラティオニ家のユダヤ起源説、さらには聖書的血統説も否定されている。キリル・トゥマノフの研究は、ジョージアのバグラティオニ家はアダルナセという人物を介してアルメニアのバグラトゥニ朝から分かれたと結論づけた。アダルナセの父ヴァサク(アルメニア執政公アショト3世英語版の息子)は、アラブ支配に対する775年の反乱(バグレヴァンドの戦い英語版)が失敗に終わった後、カルトリに移住した人物であった。アダルナセの息子アショト1世は813年にイベリア公国英語版を獲得し、現代まで続くジョージアの王家を創始した。したがって、ジョージアのバグラティオニ家のダビデ起源説は、アルメニアのバグラトゥニ王朝がすでに有していた主張を発展させたものであり、アルメニアの著述家モヴセス・ホレナツィアルメニア語版の著作が示していた内容に基づくものであった[12][7]。カルトリに移住したアダルナセとその子孫たちは、新しい環境に素早く同化していった[13]。そしてアダルナセの子孫たちが王権を握ると、聖書上の出自という神話は、一族の正当性を維持するために用いられ、ジョージアを千年に渡って統治する主要な思想的支柱となった[14]

バグラティオニ朝の系譜が世代ごとに明確に確認できるのは、8世紀後半以降になってからである[1]キリル・トゥマノフはバグラティド家の最初のジョージア系の支流について、2世紀にまで遡る可能性があると主張し、現在のジョージア南部に位置するオズルヘジョージア語版の公国を統治していたとしている[15][16]。中世の年代記によると、このオズルヘの公国の系統はビヴリティアニ家として知られ、5世紀まで存続した。ただしこの家系は、後にジョージアの王権を復活させた後世のバグラティオニ家の直系の祖先とは見なされていない[17]。歴史学者パヴレ・インゴロクヴァジョージア語版は、バグラティオニ家がイベリア王国パルナヴァズ朝ジョージア語版の一支流であったとする説を提唱している[18][19]

歴史

初期の王朝

オシュキ修道院英語版にある、ダヴィト3世レリーフ

6世紀、ジョージアの王権(イベリア王国)がササン朝ペルシアに陥落した時代、バグラティオニ家はすでに勢力を拡大していた。この時期、他の有力な諸公家たちは、アラブの攻撃によって疲弊していた。バグラティオニ家の台頭を可能にした要因は、かつてイベリアを統治し、バグラティオニ家と広範に婚姻関係を結んでいた先行の2王朝、グアラミド朝英語版の断絶とホスロイド朝英語版の衰退によるものであった[20]。加えて、アッバース朝が内戦とビザンツ帝国との紛争に忙殺されていたことも追い風となった。アラブによる支配により、古都トビリシやカルトリ東部に拠点を築くことはできなかったものの、バグラティオニ家はクラルジェティメスヘティジョージア語版の当初領地を維持することに成功した。さらに、ビザンツ帝国の保護下で、支配地を南方のアルメニア北西辺境地域まで拡大し、近代史においてタオ=クラルジェティとして知られる大規模な統治体制を形成した。813年、バグラティオニ家はアショト1世のもとで、イベリア(カルトリ)の世襲の執政公(エリスムタヴァリ)の地位を獲得し、ビザンツ皇帝から「クロパラテス英語版」の名誉称号が付与された。

君主制は再興されたものの、ジョージアの諸地域は依然として競合する勢力によって分割されており、トビリシは引き続きアラブ勢力の支配下にあった。アショト1世の子や孫たちは、カルトリ系、タオジョージア語版系、クラルジェティ系という3つの独立した分家を築き、これらの分家は互いに、そして近隣の統治者たちと頻繁に争った。最終的にはカルトリ系が優勢となり、888年にアダルナセ4世英語版のもとで、580年以来途絶えていたイベリア固有の王権を復活させた。その後、アダルナセ4世の子孫であるバグラト3世は、養父であるタオ系のダヴィト3世の外交手腕と征服により、タオ=クラルジェティとアブハジア王国英語版の継承権を統合することに成功した。

黄金時代

ダヴィト4世建設王のフレスコ画。

この統一したジョージア王国は、11世紀を通じてビザンツ帝国セルジューク帝国からの脅威にさらされ、その独立は不安定なものであった。しかしダヴィト4世建設王(在位: 1089年–1125年)の治世下でジョージア王国は最盛期を迎えた。ダヴィト4世はセルジューク帝国の攻撃を退け、1122年にトビリシを再征服してジョージアの統一を実質的に完成させた[1]。ビザンツ帝国の衰退とセルジューク帝国の解体に伴い、ジョージアはキリスト教の東方教会世界における地域大国の一つとなった。その汎コーカサス帝国[11]は、その最大版図を北コーカサスから北部イラン英語版、そして小アジア東部にまで広げた。

王家内での度重なる争いにもかかわらず、ジョージア王国はデメトレ1世(在位: 1125年–1156年)、ギオルギ3世(在位: 1156年–1184年)、そして特にその娘であるタマル女王(在位: 1184年–1213年)の治世を通じて繁栄を続けた[1]。ギオルギ3世の死によって主要な男系男子の血統は途絶えたが、タマル女王と、バグラティオニ家の血を引くとされるアラニア王国の王子ダヴィト・ソスランとの婚姻により、王朝は存続した[注釈 2]

衰退

1225年のホラズム帝国による侵攻や、1236年のモンゴル帝国による侵攻は、ジョージアの「黄金時代」を終焉に導いた。モンゴル支配に対する闘争は二重統治体制を生み出し、バグラティオニ朝の野心的な傍系が西ジョージアを支配した(イメレティ王国英語版)。ギオルギ5世光輝王(在位: 1299年–1302年、1314年–1346年)の治世下では、短期間ながら再統一と復興の時代もあったが、1386年から1403年にかけてトルコ=モンゴルフランス語版系の征服者ティムールが計8回にわたり猛攻を加え、ジョージア王国に甚大な打撃を与えた。さらに1世紀後、ジョージア王国の統一は、二つの対立するトゥルクマーンの連合体である黒羊朝白羊朝によって、最終的に破壊された。1490年から1491年にかけて、かつて強大であった王国は、それぞれバグラティオニ家の対立する分家がそれぞれ支配する3つの独立王国⸺カルトリ王国(ジョージア中部から東部)、カヘティ王国(ジョージア東部)、イメレティ王国ジョージア語版(ジョージア西部)⸺と、独自の封建氏族が支配する5つの半独立公国⸺サメグレロ公国グリア公国ジョージア語版アブハジア公国ジョージア語版スヴァネティ公国ジョージア語版サムツヘ公国ジョージア語版⸺に分裂した。

その後3世紀にわたり、ジョージアの統治者たちはテュルクオスマン帝国、およびペルシアサファヴィー朝アフシャール朝ガージャール朝の支配下で、臣属として危うい自治を維持した。その立場は、強大な宗主国の傀儡に近い場合もあった[1]。この時期、宗主国から地位の承認を受けるための必要条件はイスラム教に改宗することであり、多くのジョージアの王族や貴族たちがイスラム教に改宗した[21]。改宗したジョージアの王族や貴族は、特にサファヴィー朝の国家体制においてしばしば重要な行政職に登用された[22]。とりわけバグラティオニ家のイスラム教徒の王族は、1618年から1722年までの100年以上にわたり、サファヴィー朝の首都エスファハーンダルガ英語版(長官)という要職に就いていた[22]。中でもロストム英語版王は、1632年からカルトリの王位に就いていたにもかかわらず、40年間にわたってエスファハーンのダルガを務め[22]、さらにエスファハーンに自身の代理を置いた[22]

バグラティオニ家のイメレティ系統は、王位継承の断絶を繰り返しながら存続し、オスマン帝国の宗主権による浸食も比較的逃れることができた。一方でカルトリ系統とカヘティ系統は、ともにペルシアの宗主権下に置かれた。ペルシアのシャーたちは、反抗的なこれらの属国を滅ぼそうとしたが、その試みは失敗に終わり、東ジョージアの2つの王国は存続した。そして1762年、エレクレ2世がカルトリ系統とカヘティ系統を一身に引き継ぎ、カルトリ=カヘティ王国として両王国は再統一された。カルトリの王家は、1658年以降、分家であるムフラニ家英語版が男系を継承していた[1]

最後の君主たち

カルトリ=カヘティ王エレクレ2世

1744年、エレクレ2世とその父テイムラズ2世は、その忠誠心への報酬として、宗主国であるアフシャール朝ナーディル・シャーからそれぞれカヘティとカルトリの王位を授けられた[23]。1747年にナーディル・シャーが暗殺されると、2人は政情不安の高まりに乗じて事実上の独立を宣言した。1762年にテイムラズ2世が死去すると、エレクレ2世は父に代わってカルトリの統治者となり、2つの王国を同君連合としてのカルトリ=カヘティ王国に統合した。これによりエレクレ2世は、3世紀ぶりに政治的に統一された東ジョージアを統治する最初の王となった[24]。ほぼ同時期、ペルシアではザンド朝カリーム・ハーンが即位しており、エレクレ2世は速やかに新たなシャーへの臣従を表明したが、事実上はザンド朝の全時代を通じて独立を維持した[25][26]

エレクレ2世は、カルトリ=カヘティ王国に一定の安定をもたらし、南コーカサス東部における政治的覇権を確立した。1783年、エレクレ2世はロシア帝国ゲオルギエフスク条約英語版を締結し、カルトリ=カヘティ王国をロシア帝国の保護下に置いた[1]。しかし1795年、ペルシアからガージャール朝アーガー・モハンマド・シャーがジョージアに侵攻した。ロシア帝国は適時な援軍を送ることができず、トビリシは占領、略奪、破壊された(クルツァニシの戦い英語版)。アーガー・モハンマド・シャーの目的は、ジョージアとロシアの絆を断ち切り、ジョージアに対するペルシアの伝統的な宗主権を再確立することであった[27][28]

1798年にエレクレ2世が没すると、その婿で後継者となったギオルギ12世は、ロシア皇帝パーヴェル1世に改めて保護を要請した[1]。ギオルギ12世は、先王エレクレ2世の多数の息子や孫たちの間で繰り広げられていた激しい王位継承争いへの介入を促した。パーヴェル1世は 在地王朝に一定の自治権を残す形(実質的な陪臣化[1])でカルトリ=カヘティ王国をロシア帝国へ組み込むことを提案し、1799年にロシア帝国軍はトビリシに進駐した[29]。条件交渉が継続中であったにもかかわらず[30]、パーヴェル1世は1800年12月18日、カルトリ=カヘティ王国のロシア帝国への併合を一方的に宣言する勅令に署名した[1][31]。この宣言は、12月28日にギオルギ12世が崩御するまで秘密にされていた。ギオルギ12世の長男ダヴィトは1799年4月18日にパーヴェル1世によって正式に王太子として承認されていたが、父の死後、その王位継承は認められなかった。

1801年9月12日、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、パーヴェル1世の決定を正式に再確認し、バグラティオニ朝のジョージア王位を廃した[1][31]。バグラティオニ家の旧王族たちは内部で分裂したものの、ロシアによる併合に抵抗し、反乱を扇動しようとする者もいた。しかしその多くは後に逮捕され、ジョージアから追放された[32]

イメレティ系統による統治も、その後10年足らずで終焉を迎えた。1804年4月25日、名目上はオスマン帝国の属臣であったイメレティ王ソロモン2世ジョージア語版は、ゲオルギエフスク条約英語版に類似した条件で、ロシア帝国とエラズナウリ条約ジョージア語版の締結を強いられた。しかし1810年2月20日、ロシア帝国軍はソロモン2世を廃位させた。その後、権力奪還を企てた反乱で敗北したソロモン2世は、1815年にオスマン帝国領のトラブゾンで没した[33][34]。ロシア帝国によるジョージアの支配は、ペルシアやオスマン帝国との間で締結された数々の講和条約(ゴレスターン条約など)を通じて最終的に承認され、残るジョージアの諸領域も19世紀を通じて段階的にロシア帝国に吸収された。

ロシアにおけるバグラティオニ家

ピョートル・バグラチオン将軍。

ロシア帝国において、バグラティオニ家は著名な貴族の家系となった。もっとも有名な人物は、カルトリ王イエセの曾孫にあたるピョートル・バグラチオン公である。ピョートル・バグラチオンはロシア帝国軍の将軍となり、1812年の祖国戦争における英雄として知られている[1]。ピョートル・バグラチオンの弟ロマン・バグラチオン英語版もロシア帝国軍の将軍となり、ロシア・ペルシア戦争(1826年–1828年)で軍功を挙げ、1827年にはペルシア領のイェレヴァンへ最初に入城したことでも知られている。ロマン・バグラチオン公は芸術、文学、演劇のパトロンとしても知られ、トビリシにあったロマン・バグラチオン公の私設劇場はコーカサスでも屈指の水準として評価されていた。ロマン・バグラチオン公の息子ピョートル・ロマノヴィチ・バグラチオン英語版公はトヴェリ州知事を務め、その後、沿バルト諸州総督英語版となった。ピョートル・ロマノヴィチ・バグラチオン公は冶金技術者としても知られ、ロシアにおける金のシアン化法の発展に寄与した。また、ピョートル・バグラチオン公の従甥孫で、カルトリ王イエセ来孫にあたるドミトリー・バグラチオン英語版公は、第一次世界大戦においてブルシーロフ攻勢に参加したロシア帝国軍の将軍であり、後に赤軍に加わった。

今日のバグラティオニ家

1921年、赤軍のジョージア侵攻英語版によりトビリシが占領されると、バグラティオニ家の多くの人々がジョージアから逃れた[1]

ムフラニ支系

イラクリ・バグラティオン=ムフラネリ(1909年–1977年)

ムフラニ家英語版は、バグラティオニ朝の分家であり[1]、ジョージア王コンスタンティネ2世の直系である。もともとは旧カルトリ王家の分家であったが、20世紀初頭にはバグラティオニ家の男系系譜において最年長系統であると主張するようになった。このムフラニ家の系統は、1724年までにカルトリの支配権を失ったものの[1]、1800年にカルトリ=カヘティ王国とともにロシア帝国に併合されるまで、ムフラニ公国を保持していた[1]

このムフラニ家は、ブルボン家ヴィッテルスバッハ家ハプスブルク=ロートリンゲン家ロマノフ家と姻戚関係にある。ムフラニ家の一員であるレオニーダ・バグラチオン=ムフランスカヤ公女はロシア大公ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフと結婚し、ロシア帝位請求者の一人であるロシア大公女マリヤ・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァの母となった[1]。現存する王家⸺スペイン王家(ブルボン家[35][36]、イギリス王家(ウィンザー家[37][38])、など⸺やジョージア総主教イリア2世[39]などは、ムフラニ家をジョージア王家の家長として遇しており、ロシア旧皇室(ロマノフ家[40]、セルビア旧王家(カラジョルジェヴィチ家[41]などもその地位を認めている。

1942年、系譜上の最年長系統に属するイラクリ・バグラティオン=ムフラネリ(1909年–1977年)は、自らをジョージア王家の家長であると宣言した。1942年秋、イラクリはドイツを拠点にジョージア伝統主義者連合英語版を設立した[42]。イラクリの2番目の妻マリアロシア語版は、コスタフィオリタ伯ウーゴ・パスクィーニwikidataの娘であり、1944年2月にイラクリとの間に後継者となる男児を産んだが、その出産中に死亡した[43]。1946年8月、イラクリはスペイン王女マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・バビエラ・イ・ボルボンと再婚した。メルセデスはスペイン王アルフォンソ12世の孫娘であり、バイエルン王位継承権を放棄してスペイン王族(インファンテ)となったフェルディナント・フォン・バイエルンの娘であった[44]

1990年代に入ると、バグラティオン=ムフラネリ家の後継者たちは、数世代にわたる亡命生活を終え、スペインからジョージアへの帰還を始めた。イラクリの長男ギオルギ・バグラティオン=ムフラネリは、ジョージア政府ジョージア正教会からの公式な承認を受け、1995年に父の遺骨をスペインからムツヘタスヴェティツホヴェリ大聖堂に移葬し、歴代の王たちが眠る地に合葬した[45]。その後、ギオルギも2005年にトビリシに移住し、2008年に同地で死去した[45][46][47]。ギオルギもまた、スヴェティツホヴェリ大聖堂に埋葬された[48][49]。ギオルギの長男イラクリwikidata(1972年生)は未婚で子供がなく、2007年に王位継承権を弟ダヴィト(1976年生)に譲った。ダヴィトは2003年にトビリシに移住し、2004年にジョージア国籍を回復した。そして2008年、父ギオルギの死に伴い、ダヴィトは旧王家であるバグラティオニ家の家長となった[50]

バグラティオン=グルジンスキ支系

ヌグザル・バグラティオン=グルジンスキ(1950年–2025年)

バグラティオン=グルジンスキ家英語版は、ジョージアの伝統によれば、1762年にカルトリ王国カヘティ王国を再統一してカルトリ=カヘティ王国を築き、1800年のロシア併合まで主権を維持した最後の君主ギオルギ12世の直系子孫である[51]

ヌグザル・バグラティオン=グルジンスキ(1950年–2025年)[52][53]は、カルトリ=カヘティ王国最後の王ギオルギ12世の子孫として知られている最後の男系直系子孫であった。ヌグザルのバグラティオン=グルジンスキ家はムフラニ家よりも系譜上は下位にあたるものの、1800年までジョージアで王位を継承した家系を継承し、カヘティ系の家長であった。ヌグザルは舞台・映画監督として活動した。ヌグザルの父ペトレ(1920年–1984年)は詩人であり、「トビリシの歌」(トビリシ開基1500周年記念曲)の作詞などを行った。

ヌグザルには男子がいなかったため、長子相続の原則に基づき、ロシア連邦内に居住していたエフゲニー・ペトロヴィチ・グルジンスキ(1947年–2018年)が推定相続人と見なされていた[1]。エフゲニーはギオルギ12世の第9王子イリア英語版(1790年–1854年)の玄孫にあたる[1]。しかしエフゲニーは子を残さず2018年に死去したため、グルジンスキ家系においては、公式な記録がある男系男子の子孫はヌグザルただ一人となった。ヌグザルは男系長子相続を原則とする立場を維持しつつも[1]、2025年に没する以前から、長女のアナを後継者に指名することを主張していた[54]

2025年5月12日、アナの王位継承者および王家当主としての地位は、正式に認められた。この承認にあたっての式典は、聖アンデレの日英語版トビリシ市議会英語版で開催された。会議はシオ・ムジリジョージア語版府主教とダニエル・ダトゥアシヴィリ英語版府主教によって開会された。ジョージアの宗教界および学術界の有力者たちの同意と立ち会いのもと、アナニア・ジャパリゼジョージア語版府主教はヌグザル・バグラティオン=グルジンスキが発布した2009年第2号勅令を承認した。この承認はアナの地位について、宗教界と学術界の双方から強く支持されていることを示すものであった[55]

イメレティ支系

さまざまな史料によると、ロシア帝国によって独立を奪われたジョージアの3王国のうち、最後まで存続したイメレティ王国ジョージア語版の王位請求者として、3つの異なる系統が挙げられている。イメレティ王国最後の王ダヴィト2世ジョージア語版(在位: 1784年–1791年)から続く男系血統は、1978年にコンスタンティネ・イメレティンスキが死去したことで断絶した。コンスタンティネが没した時点では、コンスタンティネの兄の娘3人が存命していた。

しかしヌグザル・バグラティオン=グルジンスキは、イメレティ系の家長の地位は何らかの理由によって20世紀初頭に、イメレティ王ソロモン1世ジョージア語版の弟バグラト英語版(1741年–1800年)の血筋に移ったと主張している。だがバグラトの系統は男系は1937年に断絶し、女系も2009年に途絶えている[54][56]

3つ目の系統は、イメレティ王ソロモン1世の弟バグラトの庶子から続く別の系統である。この家系は男系で存続しており、ダヴィト・バグラティオニwikidata(1948年生)が家長となっている[57][58]

現在の王位請求者は、イラクリ・ダヴィティス・ゼ・バグラティオニwikidata(1982年生)である。イラクリはイメレティ王家に属するバグラティオニ朝支系の家長であり、イメレティ王アレクサンドレ5世ジョージア語版(在位: 1720年–1741年、1742年–1752年)の直系の男系子孫である。イラクリは全ジョージアのカトリコス総主教英語版エキュメニカル総主教ビザンツ貴族連合英語版によって承認を受けている[57][59]

バグラティオニ各家の統合

ムフラニ家英語版ダヴィトバグラティオン=グルジンスキ家英語版アナの結婚式(2009年2月8日)

バグラティオン=グルジンスキ家のヌグザルの娘アナは、2009年2月8日にトビリシサメバ大聖堂ムフラニ家英語版ダヴィトと結婚した[51]。この結婚は、ジョージア王家のグルジンスキ家系とムフラニ家系を統合するものであった。婚礼には約3,000人の一般参列者、政府関係者、他国の外交官たちが集まり、ジョージア国内のメディアによる大規模な報道が行われた[60]

この結婚の王朝的な意義は、1991年の独立以降、政治的な党派争いによる混乱が続いてきた中で、2007年10月にジョージア総主教イリア2世が、国家統一への道として君主制の復活を公に呼び掛けた点にある[61]。イリア2世の発言を受け、一部の政党や政治家たちはジョージアの立憲君主制の構想を検討するようになった。その一方で、2世紀にわたって空位となっている王位に対して、バグラティオニ朝のどの系統が最も強い世襲的権利を有するのかを巡り、歴史学者や法学者たちの間で議論が巻き起こり、各系統の一族や支持者たちの間で競争が生じた[60]

グルジンスキ家の請求権を支持する君主制主義者がいる一方、欧州諸王家[35][40][37][39][38][36]を含む多数の勢力は、亡命先から帰還したムフラニ家の請求権を支持している[61]。両系統はいずれも、1505年に没したコンスタンティネ2世の血統を受け継ぎ[1]、21世紀に至るまで断絶することなく正統な男系として存続している。

ダヴィトはバグラティオニ家全体における男系継承者であり(未婚の兄イラクリを除く)、アナの父ヌグザルは東ジョージアの統一王国を統治した最後の王の直系最年長子孫である。ヌグザルの継承者アナとムフラニ家の継承者ダヴィトの結婚は、王位継承権を巡る両系統の対立を解消する可能性を有していた[51]

ダヴィトとアナは、2011年9月27日に男子ギオルギ・バグラティオニ英語版をもうけた。ギオルギはその血統により、ムフラニ家とグルジンスキ家の双方の王位請求権を統合し得る存在となった。グルジンスキ家には他に男子が出生しなかったため、2025年3月1日にヌグザルが死去したことでグルジンスキ家の男系は断絶し、ギオルギの母アナがグルジンスキ家の全継承者となった。これによりギオルギは、バグラティオニ家の男系継承者の推定相続人であると同時に、カルトリ=カヘティ王ギオルギ12世の全継承権の法定推定相続人となった[52][53]

脚注

参考文献

外部リンク

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