アブシュカ
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アブシュカはモンゴル帝国にウイグル文字による文書行政を導入した人物として著名なタタ・トゥンガの末子のトゥメンの息子であった[2]。その事跡について『元史』の列伝にはほとんど記録がないが、本紀中で断片的にその活動が記録されている[3]。
まず、『元史』世祖本紀9には1282年(至元19年)3月に「北庭都護のアブシュカ(阿必失哈)を行御史台事とした」との記録がある[4][5]。1276年(至元13年)のシリギの乱を経て中央アジアではカイドゥの勢力が拡大しており、これに対抗するためクビライは1280年(至元17年)正月に綦公直にビシュバリクを守護するよう命じ、同年末に「北庭都護府」がビシュバリクに設立されていた[6][7][5]。恐らく、アブシュカは1281年(至元18年)から1282年(至元19年)にかけてこの「北庭都護府」に在職し、現地のウイグル人の統治に携わっていたようである[5]。「行御史台」とは河西地方に置かれた御史台の出先機関である「河西行御史台」を指し、1282年(至元19年)以降は河西行御史台の官として引き続きこの方面のウイグル人の統治に携わったものとみられる[5]。
河西行御史台は1283年(至元20年)に撤廃されてしまうが、その際アブシュカの地位がどのように変化したかは記録にない[8]。『元史』の列伝によると、アブシュカは最後には陝西行省平章政事の地位にあったとされる[5]。雍正『陝西通志』の記載によると、歴代の陝西行省平章政事について「不忽朮(至元三十年)、阿必失哈(世祖時)、葉仙鼐(成宗時)」とあるので、陝西行省平章政事に任命されたのはクビライの治世の最末期の事であったようである[5]。
子孫
虞集の『道園類稿』巻8唐山詩序には完沢帖木児(オルジェイ・テムル)という人物に関して、「唐山は大都西方の山麓にあり、香山に近く、今は江西僉憲の完沢帖木児(オルジェイ・テムル)、沢卿の先世の墓がある。その五世祖の『達達児国公』は北庭より来帰して太祖皇帝に仕え、宝璽を得て献上した……(唐山在大都西山之麓、於香山為近、今江西僉憲完沢帖木児沢卿先世之墓在焉。蓋其五世祖達達児国公自北庭事太祖皇帝、得宝璽而献焉)」との記述がある[8]。「北庭(ウイグル)の出で太祖皇帝チンギス・カンに仕える際に宝璽を献上した」というのはタタ・トゥンガの事跡に合致し、ここで言及される『達達児国公』はタタ・トゥンガのことと考えられる[8]。
また同書の別の箇所によると、「オルジェイ・テムルは代々宿衛に務めていた家柄であることから、元統年間に西台(陝西行御史台)監察御史の地位を拝命した(以世臣備宿衛、元統中授尚冠奉御、拝西台監察御史)」という[8]。陝西行御史台の治所は安西路にあったが、上述の通りアブシュカが務めていた陝西行省も同じく安西路に治所をおいており、この事はオルジェイ・テムルがタタ・トゥンガ-トゥメン-アブシュカという家系の子孫であったことを裏付ける[9]。