ソロガイ
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ソロガイはモンゴル帝国にウイグル文字による文書行政を導入した人物として著名なタタ・トゥンガの長男であり、兄にはウクミシュ、オルグンミシュ、弟にはトゥメンらがいた[2]。生年については不明であるが、タタ・トゥンガがモンゴル帝国に仕えるようになった1204年以前の出生ではないかと推定されている[3]。
モンゴル帝国に仕えたタタ・トゥンガは第2代皇帝オゴデイに重用され、その妻の吾和利(Oγur-lig/Oγullig?[4])氏はオゴデイの四男のカラチャルの乳母とされた[5][2]。この縁によりタタ・トゥンガの息子たちは、カラチャルとその子孫と深い縁を有するようになる[2]。
ソロガイについて『元史』の記述は少なく、「父の職を継ぎ、内府の玉璽・金帛を司った(襲父職、仍命司内府玉璽金帛)」との記録があるに過ぎない[6]。一方で、ペルシア語史料の『五族譜』にはオゴデイの家臣一覧にسولاغای(sūlāghāī)なる人物が挙げられており、「ウイグル部族出身。[オゴデイ・]カアンの息子のカラチャル (Qarāchār)の乳兄弟(hamshīre)。全ディーワーン(dīwān)の文書を保持して彼が統轄した」と注記されている[7][8]。多くの研究者は、「文書の保存管理を担当した」という点からこの人物をビチクチ長として著名なブルガイと同一人物と見なし、سولاغای(sūlāghāī)をبولاغای(būlāghāī)と読み替える解釈が一般であった[9]。しかし中国人研究者の陳希は「カラチャルと乳兄弟であった」のは「タタ・トゥンガの妻がカラチャルの乳母であった」という『元史』の記述と符合する点、「سولاغای(sūlāghāī)」と「速羅海(sùluōhǎi)」の音が一致する点から、سولاغایこそが速羅海であると論じている[1]。「全ディーワーンの文書を保持・統轄した」という記述が、文書行政を司ったタタ・トゥンガの職掌と類似することも、「父職を承襲」したという速羅海と同一人物であることを裏付ける[1]。
オゴデイ没後のソロガイの動向については記録がないが、第4代皇帝モンケが即位した際、モンケ即位に反対していたオゴデイ家勢力が弾圧を受けるという事件が起こった[10]。この時、弱体化したオゴデイ系諸王家の遊牧地がモンケによって新たに定められ、カラチャルの息子のトクトはエミル地方を領地とされた[11]。恐らく、ソロガイは母がカラチャルの乳母であった縁から、オゴデイ没後はトクトに仕えてエミル地方の統治に携わっていたようである[11]。
1259年(己未)にモンケが遠征先の南宋で急死すると、その弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発した。この時クビライ派として中央アジアを流転した耶律希亮は「1261年(中統2年)2月にエミル地方に至ってグユクの息子のホクの庇護を受け」、「1262年(中統3年)2月、チャガタイ家のアルグが訪れ、アリクブケが鎮守に用いていた唆羅海(suōluóhǎi)を誅殺したので、クビライに味方することを申し出た」との記録がある[12][13]。恐らく、エミル地方のトクトの領地を守っていたソロガイはアリクブケを支持し、引き続き領地を管理することを認められたが、クビライ派につこうとしたアルグによって殺されたものとみられる[11]。