トゥメン (ウイグル人)

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トゥメンモンゴル語: Tümen、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人官僚の一人。

元史』などの漢文史料では篤綿(dǔmián)と表記され、モンゴル語で「万」を意味するトゥメンの音写である[1]

トゥメンはモンゴル帝国にウイグル文字による文書行政を導入した人物として著名なタタ・トゥンガの末子であり、兄にはウクミシュオルグンミシュソロガイらがいた[2]。生年については不明であるが、タタ・トゥンガがモンゴル帝国に仕えるようになった1206年以後の出生ではないかと推定されている[3]

モンゴル帝国に仕えたタタ・トゥンガは第2代皇帝オゴデイに重用され、その妻の吾和利(Oγur-lig/Oγullig?[4])氏はオゴデイの四男のカラチャルの乳母とされた[5][2]。この縁によりタタ・トゥンガの息子たちは、カラチャルとその子孫と深い縁を有するようになる[2]。『元史』によると、トゥメンは当初カラチャルに仕えていた(旧事皇子哈剌察児)という[2]。その職掌は明記されていないが、恐らくは父同様に書記官僚(ビチクチ)であったのではないかと推測されている[6]

1259年己未)にモンケ・カアンが遠征先の南宋で急死すると、その弟のクビライアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発した。この時、タタ・トゥンガの息子たちの対応は分かれ、長兄のウクミシュはクビライ派について、三兄のソロガイはアリクブケ派について、それぞれ殺されてしまっていた。トゥメンはこの時生母と行動を共にしており、クビライの下に入見してその即位を支持した。クビライはトゥメンに官位を授けようとしたが、トゥメンはさしたる功績もないことを理由にこれを辞し、その代わりにクビライは宿衛(ケシク)の統御を命じたという[7]

これ以後のトゥメンの事跡についてはほとんど記録がないが、『元史』の列伝には「遼東に奉使した」との記載がある[8]。この記録は、トゥメンが諸王(カラチャル家)に仕える官員から、朝廷に仕える官員に変化したことを示すものと理解されている[8]。トゥメンにはアブシュカという息子がおり、引き続き大元ウルスに仕えている。

タタ・トゥンガ家系図

脚注

参考文献

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