ピエール・アベラール
フランスの論理学者・キリスト教神学者 (1079-1142)
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生涯
アベラールはナントに近いパレ(Pallet)で生まれ、音声言語論者ロスケリヌス(Roscelinus 1050?-1123?)と実在論者のギヨーム・ド・シャンポー(Guillaume de Champeaux 1070?-1121)に師事、パリのノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師となって非常な名声を博した。
1117年頃、アベラールはノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ(1101-64)を知った。エロイーズは容貌もよく、学問に優れていたため国内でも有名であった。アベラールはエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た。20歳以上年の離れていた2人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは妊娠した。アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子アストロラーベ(船乗りが航海で使う天文観測器の意)が生まれた[2]。このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚をした。しかし叔父が和解の条件を守らないことやエロイーズを虐待することなどから、エロイーズをアルジャントゥイユ修道院に移した。これにフュルベールは激怒し、縁者らにアベラールを襲撃させ、睾丸を切断させた。アベラールは後にこれを「罪を犯したところに罰を受けた」といっている(後出の第一書簡)。実行犯2人は捕らえられ、眼をえぐられ、陰部を切除された。この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった。
アベラールは学問においては自説を決して曲げない性格であり、間違っていると思えば己の師ですら罵倒し、論破した。この性格のため、碩学であったが多くの敵対者を生んだ。サン・ドニでは当時修道院で信じられていた、修道院の創設者聖ドニ(デニス)が『使徒行伝』のアテナイのディニュシオスであるという通説を論破して修道士たちを激怒させた。この頃アベラールは最初の『神学』を著して独自の三位一体解釈を行ったが、これはソワッソン公会議(1121年)で問題とされ、その教説は異端宣告を受けた。そのため、パラクレトゥス聖堂に移ると修道院付属学校を自ら開いて教え、1125年には招かれてブルターニュのサン=ジルダ=ド=リュイス修道院の院長となった(のちにエロイーズはパラクレトゥス聖堂の敷地内に女子修道院を建てて院長となった。)1132年頃、エロイーズとの恋などを記した自伝的な書簡を友人あてに記した。
その後、アベラールは再びパリに戻るが、複数の神学的問題を巡ってクレルヴォーのベルナルドゥスらと対立し、サンス公会議(1140-41年)で異端とされた。結局この破門はペトルス・ウェネラビリスによる仲介、アベラールの老化による健康状態の悪化等により実行されることはなかったものの、この破門取り消し自体が後世に広く知られることはなかった[3]。晩年はクリュニー修道院で過ごし、1142年4月21日、療養先のサン・マルセル修道院でその生涯を閉じた。遺体はエロイーズの願いに応じてパラクレトゥスに埋葬され、1164年に彼女が亡くなると同じ墓に葬られた。(19世紀になって2人の遺体はペール・ラシェーズ墓地に改葬されたという。)
思想・著作
アベラールは論理的な議論の有効性を深く信じ、信仰に対する疑問に答えるために必要なのは、力ではなく理性であると繰り返し主張した[4]。そのために誤った論理に対しては徹底的に応戦する態度を一貫して取っており[5][6]、その反面で自らが書いたものの中で誤解された表現・批判された表現については、何度も修正を加えてより穏当な、しかし本質的には同一の主張を記述しようとしていたことが、残存する複数の写本の研究から分かっている[7]。
またアベラールは同時代の神学者らと比べると、相対的に哲学者(アリストテレスやプラトン、キケロ)の権威をより重要視していたと言える[8]。彼はキリスト教と神そのものは固く信仰した上で、かつての偉大な異端者たち(とりわけプラトン)が主張したことも、キリスト教信仰に通ずる比喩や先駆けとして解釈しうると信じていたからである[9]。
普遍論争では唯名論者に位置づけられることがある。ただし、これはアベラールの死後の12世紀後半に、論理学的・神学的な議論において「名前・ことば(nomen)」の役割を重視する学派に対するレッテルとして与えられた「Nominales/Nominalist(=ノミナリスト)」という名称に由来しており[10]、かつより後の中世(13-15世紀)には、それとはまったく異なる文脈でNominalesという名称が使われるようになったことが分かっている。従って複数の著者が、アベラールの生きた時代に彼の見解は「Nominalism(唯名論)」と呼ばれておらず、かつ「Nominales(唯名論者)」という名称が、普遍論争とは全く無関係の起源から生まれたことを指摘している[11][12]。
このような事情があるにせよ、アベラールの見解は現代哲学における語彙の定着を考慮して、「唯名論」ないし「概念論」と呼ばれる。狭義の普遍論争は、もともと普遍は実在するか(実在論)、音声にすぎないのか(唯名論)を巡って行われたもので、アベラールはその中間を取って概念論を主張したと整理されることもあった[13]。実際の彼の主張はかなり複雑で、事物(もの)が普遍であることを否定した上で、普遍的な音声が表象を介して事物(もの)を意味表示する、つまり普遍的なこと(例えば人や動物、ソクラテスが人であること)の理解を形成すると主張している[14]。更には、普遍的な名称が神の精神の内にある普遍的な表象(共通形相)を指示しているという見解を「第三の意味作用」として挙げ、これらの見解を対立させていない[15]。何はともあれ、少なくとも事物が普遍であることを否定していることは明らかであるため、何人かの著者は彼の立場を「非実在論(non-realism)」ないし「反実在論(anti-realism)」と表現している[16][17]。
アベラールが上記のような普遍問題に入れ込んだのは中期(1125年頃)までであり、以降のアベラールは信仰の「理解」を求める生徒たちや[18]、パラクレの修道女たちを統括する適切な規範を求めるエロイーズの頼みに答え[19]、主として神学書・倫理学書の執筆に没頭していくこととなる。彼はこうした神学的な仕事に対しても、初期の論理学的研究で培った論理学的手法、またアリストテレスの概念の枠組みやプラトンの思想などを頻繁に利用した。
『然りと否』の序文でも示されるような、神学的な矛盾とも思われる問いに論理学的手法によって切り込み、対立する権威を調停して真理を導こうとするアベラールの哲学的手法は、12世紀においては決して一般的ではなかった[20]。しかしながら、彼の手法を継承した弟子たち、とりわけペトルス・ロンバルドゥスがアベラールの思想を穏健化し、その方法論を保守的な神学者にも受け入れやすい形に整えたことで、スコラ学の学問的基礎が成立した[21]。
アベラールの主な著作は以下のようなものである。
- 『論理学(Logica Ingredientibus)』
- 『神学(Theologia Summi Boni)』
- 『神学(Theologia Christiana)』
- 『然りと否(Sic et Non)』
- 『倫理学(Ethica)』
- 『ローマ人への手紙注解』
- 『神学(Theologia Scholarium)』
- 『哲学者、ユダヤ人、キリスト教徒の対話(Collationes)』
日本語訳
- 『アベラールとエロイーズ』 沓掛良彦・横山安由美訳、岩波文庫、2009年(旧版は畠中尚志訳)
- 二人の往復書簡集の体裁を取る。第一書簡は1132年頃(サン・ジルダ修道院長時代)にアベラールから友人あてに書かれた。内容は自己の生涯を振り返るものでエロイーズとの恋の話も含む(これが『災厄の記』"Historia Calamitatum" か)。これをエロイーズが読み、長い間音信がないことを切々と訴える第二書簡が書かれた。第二書簡から第五書簡までは「愛の書簡」ともいわれ、以後はアベラールがエロイーズの信仰を励ます内容に移り、「教導の書簡」ともいわれる。
- 『ポルピュリオス註釈』、『然りと否』、『倫理学』 - 『前期スコラ学 中世思想原典集成 第7巻』(上智大学中世思想研究所編、平凡社、1996年)に収録
